北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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東照宮と箱館戦争

2015-07-18 15:41:11 | 函館
最近、西部地区ばかり散策していたので、たまには郊外にあるスポットをと思い、前から興味がありつつ、行っていなかった場所へ行ってきた。








函館市郊外の陣川町(「相棒」ファンの皆さん、過敏に反応なさらないように(笑))にある「北海道東照宮」。





「東照宮」と言えば、「東照大権現」たる徳川家康を祀る神社であり、日光にあるのが何と言っても有名ですが、北海道にも、五稜郭が完成した1864年、鬼門(東北)の守護神とするために、日高管内様似町の等澍(とうじゅ)院から東照大権現を分霊する形で東照宮が誕生しています。





箱館戦争で1869(明治2年)年に社殿を焼失するも、御神体を辛うじて残り、その後は市内を転々とした末、1992年(平成4年)に元の鎮座地に近い現在の場所に移転することになり、同時に社名を北海道東照宮に改称しています。








敷地内には、こうして、箱館戦争にゆかりの小さな祭神が祀られています。
ここにもまた、「碧血」という言葉が使われていますね。





これは、敷地内にある手水鉢(ちょうずばち)。
どこの神社にもよくあるものだけど、これは、函館の歴史を語る上での貴重な財産となっています。





そう、箱館戦争時の弾痕が、ここに残っているのです。








わかりますか?
この凹んだ部分が、その弾痕です。

ですが、この弾痕が生じた時、この手水鉢は、現在のこの場所にはありませんでした。
ではどこにあったかと言うと・・・、





ここは、現在の東照宮から少し離れた所にある、神山稲荷神社。





そう、先程書いた、様似町の等澍院から分霊された東照大権現は、現在のこの位置に建てられた、旧東照宮に祀られていたのです。

明治元年、五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は、東照宮の先に四稜郭を構築し、さらに、念には念を入れる意味で、五稜郭と四稜郭の中間地点に在した東照宮にも「権現台場」を構築し、防衛体制を強化していました。

しかし、新政府軍の函館一斉攻撃により、四稜郭と権現台場は同時攻撃を受け、権現台場が先に陥落しそうになりますが、権現台場の守備兵達は、重要拠点である台場を守るべく必死に抵抗し、先の手水石の砲弾痕もこの時、この場所で生まれたと伝わっています。
1869年(明治2年)5月11日のこととされています。








現在の神山稲荷神社は、ご覧の通りの小さな神社ですが、箱館戦争の激戦地という、函館の歴史上重要な意味を持つ場所として、これからも、その意味するところが語り継がれていくことでしょう。
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正しい読み方

2015-07-18 09:03:31 | 特撮作品鑑賞
問題「『電子戦隊デンジマン』と『太陽戦隊サンバルカン』に登場した悪の女帝の名前を、正しく読みなさい。」

正解は、文字で書くと、言うまでもなく「へドリアン女王」だけど、この正しい読み方、皆さんはどう答えますか?

えっ、「へどりあんじょうおう」でしょって?
そうですよね・・・、そう読んじゃいますよね・・・。
でも、実際はこういうことのようです。

確かに「女王」の読みは「じょおう」が正しいということは聞いたことがあるけれど、PCで文章を書くとき、「じょおう」は勿論のこと「じょうおう」と打っても「女王」と変換されるので、「じょおう」が正しいのだとしても、「じょうおう」でも決して間違いではないのではと思い続けていた。
何より、子供の頃から、ずっと「へどりあんじょうおう」と言い続けてきたので、大人になって、実は「じょおう」が正しいと聞いた時は、少々ショックを受けたものでした。

そのことを踏まえて、デンジマンのDVDを幾つか見てみると、例えばヘドラー将軍が「女王様!」と呼びかけるシーンでは、なるほど「じょおうさま」と言っているように聞こえるシーンも多いが、よーく耳を欹てて聞いていると、これは「じょうおうさま」と言っているな・・・と思わさるシーンもあった。
ならば、記憶に新しいところで、「アナと雪の女王」はどうなんだろうと思ってみたら、少なくともウィキペディアでは、「あなとゆきのじょおう」になっているが、これも、子供達なんかは、「じょうおう」と思って口にしていることが多いのではないのかなと・・・。

そうか、やっぱり「じょおう」って言わなきゃだめなんですね。名前を授かったご恩に報いるためにも。
今後、戦隊仲間達の間で話題にする時は、発音する時に一瞬緊張しちゃいそうだなあ・・・。
コメント (2)
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こんな発祥の地もある

2015-07-15 21:08:23 | 函館






写真は、JR函館駅に近い、函館市海岸町を走る国道5号。
一見何の変哲もなさそうな道路だけど、実はここも、函館の歴史の一ページに登場する場所の一つ。
何かと言うと、函館市内の道路で、初めてアスファルト舗装された道路なのだそうです。

大正9年(1920年)に始まった道内の道路の拡幅整備事業は、同14年(1925年)には94箇所、延長420kmに及んでいたが、函館市内のアスファルト舗装は、写真のこの辺りからスタート。
と言っても、車道の中央約4.5メートルの部分だけで、後の範囲は従来のコンクリート舗装という状態だったそうだけど、現在では、幹線道路から住宅街の生活道路に至るまで当たり前になっているアスファルト舗装が、市内ではここからスタートして徐々に郊外へ広がり、今に至る交通・物流の礎となったことを思うと、道路に関わる仕事をしている身としては、興味深いと言うか、仕事をする上での原点としていきたいという気持ちにさせられます。
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久々の出張

2015-07-14 21:38:11 | 日々のもろもろ
今日は札幌出張。
札幌も蒸し暑いので、スーツの上着を来てきて失敗だったかなと思ったけれど、特急の車内をはじめ、あちこちで冷房がガンガンだったため、来てきて正解だったかなと。
でも、基本的に冷房ガンガンは苦手な方なので、ほどほどにしてほしいのが正直なところですけどね。





今日泊まるホテルは、五年ぶり二度目。
前回泊まった時、部屋にマッサージチェアがあったのを覚えていたので、今もまだあるかなと思っていたら、ありました。
最近、暑さで寝不足気味なので、今夜ぐらいはゆっくり休みたいなあ・・・。
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坂の町シリーズ その15

2015-07-13 22:00:55 | 函館
とりあえず、大きな坂はあと三つなので、引き続きやってしまいたいと思います。





「千歳坂」。
かつては、神明社(現在の山上大神宮)へ通じる短い坂であり、神社の神楽殿に因んで「神楽坂」と名付けられたり、神宮の境内に生える松から「松蔭坂」とも呼ばれましたが、最終的には不老長寿の云われがある「千歳の松」に因み、明治10年代以降、「千歳坂」という名になったとされています。








以前一度紹介したことがありますが、「鯨族供養塔」。
幕末期、蝦夷地における捕鯨への関心は高く、アメリカの捕鯨船が活発に活動し、箱館にも盛んに入港していたことから、西洋式の捕鯨技術なども伝えられようになりましたが、結局、箱館周辺での西洋式捕鯨が実現することはなく、1957年(昭和32年)8月、遠洋捕鯨会社の捕鯨船船長兼砲手であった天野太輔という人物が、生業であったとはいえ殺生の罪深さを痛感して、この塔を建てたとされています。





この坂の沿道は、住宅や小規模店舗が多いですが、ここにあるのは、函館市立西中学校。
校内からは、ブラスバンドの勇壮な演奏が聞こえてきました。








一気に行っちゃいましょう。続いては、「船見坂」。








沿道にある「大正湯」という銭湯。
大正3年(1914年)創業で、函館市景観形成指定建築物にも指定されている、レトロな和洋折衷式の建物。
その雰囲気から、映画やドラマのロケで使用されることもあるそうです。





気が付けば行き止まり。
そう、ここは、千歳坂に面する西中学校の敷地で、元々は、この向こうの通りにある、「称名寺」に突き当たっていたため、「称名寺の坂」と呼ばれていたり、さらにそれ以前は、坂下にあった店蔵から「麹(こうじ)屋の坂」、また、急こう配だったために「地獄坂」などと呼ばれたこともありました。
「称名寺」については、色々と見どころのあるお寺なので、後日レポートします。





と言うことで、終点から下に向けて一枚。
港内を行き交う船が見渡せるというのが現在の名前の由来ですが、残念ながら、建物や樹木の間から瞬間的にしか見えませんでした。
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