9月9日は重陽の節句です。昔、中国では奇数を陽の数とし、陽の極である9が重なる9月9日は大変めでたい日とされ、菊酒を飲んで邪気を払い長命を願うという風習がありました。上賀茂神社では、無病息災を祈る重陽の節会がおこなわれ、法輪寺でも 長寿祈願が「菊慈童」の像を祀って営まれるそうです。菊慈童は菊の葉のしずくを飲んで不老不死を得たという伝説です。謡曲には「慈童もの」と呼ばれる一連の作品群があるようです。
太平記にも「菊慈童」の話が出てきます。流罪に遇った「菊慈童」が法華経普門品の「 慈眼視衆生 福聚海無量」を書付た菊葉からのしずくを飲み不老不死を得るというはなしです。紹介します。
太平記巻十三
○龍馬進奏事 S1301
鳳闕(ほうけつ)の西二条高倉に、馬場殿(ばばどの)とて、俄に離宮を被立たり。天子常に幸成(みゆきなり)て、歌舞・蹴鞠の隙には、弓馬の達者を被召、競馬を番はせ、笠懸を射させ、御遊の興をぞ被添ける。其比佐々木塩冶判官高貞が許より、竜馬也とて月毛なる馬の三寸計なるを引進す。其相形げにも尋常の馬に異也。骨挙り筋太くして脂肉短し。頚は鶏の如にして、須弥の髪膝を過ぎ、背は竜の如にして、四十二の辻毛を巻て背筋に連れり。両の耳は竹を剥で直に天を指し、双の眼は鈴を懸て、地に向ふ如し。今朝の卯刻に出雲の富田を立て、酉剋の始に京著す。其道已に七十六里、鞍の上閑にして、徒に坐せるが如し。然共、旋風面を撲に不堪とぞ奏しける。則ち左馬寮に被預、朝には禁池に水飼、夕には花廏(くわきう)に秣(まくさ)飼。其比天下一の馬乗と聞へし本間孫四郎を被召て被乗、半漢雕梁甚不尋常。四蹄を縮むれば双六盤の上にも立ち、一鞭を当つれば十丈の堀をも越つべし。誠に天馬に非ずば斯る駿足は難有とて、叡慮更に類無りけり。或時主上馬場殿に幸成て、又此馬を叡覧有けるに、諸卿皆左右に候す。時に主上洞院の相国に向て被仰けるは、「古へ、屈産の乗、項羽が騅、一日に千里を翔る馬有といへども、我朝に天馬の来る事を未だ聞ず。然に朕が代に当て此馬不求出来る。吉凶如何。」と御尋ありけるに、相国被申けるは、「是聖明の徳に不因ば、天豈此嘉瑞を降候はんや。虞舜の代には鳳凰来、孔子の時は麒麟出といへり。就中天馬の聖代に来る事第一の嘉祥也。其故は昔周の穆王(ぼくわう)の時、驥(き)・■(たう)・驪(り)・■(くわ)・■(りう)・■(ろく)・■(じ)・駟(し)とて八疋の天馬来れり。穆王是に乗て、四荒八極不至云所無りけり。或時西天十万里の山川を一時に越て、中天竺の舎衛国に至り給ふ。時に釈尊霊鷲山にして法華を説給ふ。穆王馬より下て会座に臨で、則ち仏を礼し奉て、退て一面に坐し給へり。如来問て宣く、「汝は何の国の人ぞ。」穆王こたえていわく、「吾は是震旦国の王也。」仏重て宣く、「善哉今来此会場。我有治国法、汝欲受持否。」穆王曰、「願は信受奉行して理民安国の功徳を施ん。」爾時、仏以漢語、四要品の中の八句の偈(注。十方仏土中 唯有一乗法(方便品)観一切法 空如実相 (安楽行品) 仏語実不虚 如医善方便(寿量品) 慈限視衆生 福聚海無量(普門品)のこと)
を穆王に授給ふ。今の法華の中の経律の法門有と云ふ深秘の文是也。穆王震旦に帰て後深心底に秘して世に不被伝。此時慈童と云ける童子を、穆王寵愛し給ふに依て、恒に帝の傍に侍けり。或時彼慈童君の空位)を過けるが、誤て帝の御枕の上をぞ越ける。群臣議して曰、「其例を考るに罪科非浅に。雖然事誤より出たれば、死罪一等を宥て遠流に可被処。」とぞ奏しける。群議止事を不得して、慈童を■県(てつけん)と云深山へぞ被流ける。彼■県(かのてつけん)と云所は帝城を去事三百里、山深して鳥だにも不鳴、雲暝して虎狼充満せり。されば仮にも此山へ入人の、生て帰ると云事なし。穆王猶慈童を哀み思召ければ、彼八句の内を分たれて、普門品にある二句の偈を、潛に慈童に授させ給て、「毎朝に十方を一礼して、此文を可唱。」と被仰ける。慈童遂に■県(てつけん)に被流、深山幽谷の底に被棄けり。爰に慈童君の恩命に任て、毎朝に一反此文を唱けるが、若忘もやせんずらんと思ければ、側なる菊の下葉に此文を書付けり。其より此菊の葉にをける下露、僅に落て流るゝ谷の水に滴りけるが、其水皆天の霊薬と成る。慈童渇に臨で是を飲に、水の味天の甘露の如にして、恰百味の珍に勝れり。加之天人花を捧て来り、鬼神手を束て奉仕しける間、敢て虎狼悪獣の恐無して、却て換骨羽化の仙人と成る。是のみならず、此谷の流の末を汲で飲ける民三百余家、皆病即消滅して不老不死の上寿を保(たも)てり。其後時代推移て、八百余年まで慈童猶少年の貌有て、更に衰老の姿なし。(800年後)魏の文帝の時、彭祖と名を替て、此術を文帝に授奉る。文帝是を受て菊花の盃を伝へて、万年の寿を被成。今の重陽の宴是也。其より後、皇太子位を天に受させ給ふ時、必先此文を受持し給ふ。依之普門品を当途王経とは申なるべし。此文我朝に伝はり、代々の聖主御即位の日必ず是を受持し給ふ。若幼主の君践祚ある時は、摂政先是を受て、御治世の始に必ず君に授奉る。此八句の偈の文、三国伝来して、理世安民の治略、除災与楽の要術と成る。・・・
太平記にも「菊慈童」の話が出てきます。流罪に遇った「菊慈童」が法華経普門品の「 慈眼視衆生 福聚海無量」を書付た菊葉からのしずくを飲み不老不死を得るというはなしです。紹介します。
太平記巻十三
○龍馬進奏事 S1301
鳳闕(ほうけつ)の西二条高倉に、馬場殿(ばばどの)とて、俄に離宮を被立たり。天子常に幸成(みゆきなり)て、歌舞・蹴鞠の隙には、弓馬の達者を被召、競馬を番はせ、笠懸を射させ、御遊の興をぞ被添ける。其比佐々木塩冶判官高貞が許より、竜馬也とて月毛なる馬の三寸計なるを引進す。其相形げにも尋常の馬に異也。骨挙り筋太くして脂肉短し。頚は鶏の如にして、須弥の髪膝を過ぎ、背は竜の如にして、四十二の辻毛を巻て背筋に連れり。両の耳は竹を剥で直に天を指し、双の眼は鈴を懸て、地に向ふ如し。今朝の卯刻に出雲の富田を立て、酉剋の始に京著す。其道已に七十六里、鞍の上閑にして、徒に坐せるが如し。然共、旋風面を撲に不堪とぞ奏しける。則ち左馬寮に被預、朝には禁池に水飼、夕には花廏(くわきう)に秣(まくさ)飼。其比天下一の馬乗と聞へし本間孫四郎を被召て被乗、半漢雕梁甚不尋常。四蹄を縮むれば双六盤の上にも立ち、一鞭を当つれば十丈の堀をも越つべし。誠に天馬に非ずば斯る駿足は難有とて、叡慮更に類無りけり。或時主上馬場殿に幸成て、又此馬を叡覧有けるに、諸卿皆左右に候す。時に主上洞院の相国に向て被仰けるは、「古へ、屈産の乗、項羽が騅、一日に千里を翔る馬有といへども、我朝に天馬の来る事を未だ聞ず。然に朕が代に当て此馬不求出来る。吉凶如何。」と御尋ありけるに、相国被申けるは、「是聖明の徳に不因ば、天豈此嘉瑞を降候はんや。虞舜の代には鳳凰来、孔子の時は麒麟出といへり。就中天馬の聖代に来る事第一の嘉祥也。其故は昔周の穆王(ぼくわう)の時、驥(き)・■(たう)・驪(り)・■(くわ)・■(りう)・■(ろく)・■(じ)・駟(し)とて八疋の天馬来れり。穆王是に乗て、四荒八極不至云所無りけり。或時西天十万里の山川を一時に越て、中天竺の舎衛国に至り給ふ。時に釈尊霊鷲山にして法華を説給ふ。穆王馬より下て会座に臨で、則ち仏を礼し奉て、退て一面に坐し給へり。如来問て宣く、「汝は何の国の人ぞ。」穆王こたえていわく、「吾は是震旦国の王也。」仏重て宣く、「善哉今来此会場。我有治国法、汝欲受持否。」穆王曰、「願は信受奉行して理民安国の功徳を施ん。」爾時、仏以漢語、四要品の中の八句の偈(注。十方仏土中 唯有一乗法(方便品)観一切法 空如実相 (安楽行品) 仏語実不虚 如医善方便(寿量品) 慈限視衆生 福聚海無量(普門品)のこと)
を穆王に授給ふ。今の法華の中の経律の法門有と云ふ深秘の文是也。穆王震旦に帰て後深心底に秘して世に不被伝。此時慈童と云ける童子を、穆王寵愛し給ふに依て、恒に帝の傍に侍けり。或時彼慈童君の空位)を過けるが、誤て帝の御枕の上をぞ越ける。群臣議して曰、「其例を考るに罪科非浅に。雖然事誤より出たれば、死罪一等を宥て遠流に可被処。」とぞ奏しける。群議止事を不得して、慈童を■県(てつけん)と云深山へぞ被流ける。彼■県(かのてつけん)と云所は帝城を去事三百里、山深して鳥だにも不鳴、雲暝して虎狼充満せり。されば仮にも此山へ入人の、生て帰ると云事なし。穆王猶慈童を哀み思召ければ、彼八句の内を分たれて、普門品にある二句の偈を、潛に慈童に授させ給て、「毎朝に十方を一礼して、此文を可唱。」と被仰ける。慈童遂に■県(てつけん)に被流、深山幽谷の底に被棄けり。爰に慈童君の恩命に任て、毎朝に一反此文を唱けるが、若忘もやせんずらんと思ければ、側なる菊の下葉に此文を書付けり。其より此菊の葉にをける下露、僅に落て流るゝ谷の水に滴りけるが、其水皆天の霊薬と成る。慈童渇に臨で是を飲に、水の味天の甘露の如にして、恰百味の珍に勝れり。加之天人花を捧て来り、鬼神手を束て奉仕しける間、敢て虎狼悪獣の恐無して、却て換骨羽化の仙人と成る。是のみならず、此谷の流の末を汲で飲ける民三百余家、皆病即消滅して不老不死の上寿を保(たも)てり。其後時代推移て、八百余年まで慈童猶少年の貌有て、更に衰老の姿なし。(800年後)魏の文帝の時、彭祖と名を替て、此術を文帝に授奉る。文帝是を受て菊花の盃を伝へて、万年の寿を被成。今の重陽の宴是也。其より後、皇太子位を天に受させ給ふ時、必先此文を受持し給ふ。依之普門品を当途王経とは申なるべし。此文我朝に伝はり、代々の聖主御即位の日必ず是を受持し給ふ。若幼主の君践祚ある時は、摂政先是を受て、御治世の始に必ず君に授奉る。此八句の偈の文、三国伝来して、理世安民の治略、除災与楽の要術と成る。・・・