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88番へ女体山越えのコースに香川県の説明版があります「古大窪、この奥の北面斜面をふくろぼ(古大窪)と呼んでいる。昔行基菩薩が庶民の苦難を救うため布施小屋を設けたところと伝えられる。八十八番大窪寺はこの古大窪に創建されこれが峰を南に越えた大窪寺の奥の院、そして現在地へと移っていったのである」とあります。
こういう人里離れたところにも行基菩薩は布施をしていかれたということです。当時はもっと人は少なかったと思われます。遍路をしているとどうしてこういう所にも人が住んでいるのかと不思議になることがあります。しかし「生きかはり死にかはりして打つ田かな 村上鬼城」という句があるように古来日本の山間辺地までひとは住んでいたのでしょう。そういう人々まで救わでは置かぬという行基菩薩の燃えるようなお心に感動を覚えます。
頼富本宏「四国遍路とはなにか」には「・・女体山の山頂にも瀬戸内海を望む辺路修行の行場がある・・」としていますが当時はこの本を見ていなかったため確認できませんでした。
こういう人里離れたところにも行基菩薩は布施をしていかれたということです。当時はもっと人は少なかったと思われます。遍路をしているとどうしてこういう所にも人が住んでいるのかと不思議になることがあります。しかし「生きかはり死にかはりして打つ田かな 村上鬼城」という句があるように古来日本の山間辺地までひとは住んでいたのでしょう。そういう人々まで救わでは置かぬという行基菩薩の燃えるようなお心に感動を覚えます。
頼富本宏「四国遍路とはなにか」には「・・女体山の山頂にも瀬戸内海を望む辺路修行の行場がある・・」としていますが当時はこの本を見ていなかったため確認できませんでした。