福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

真言宗義章・第五、事教二相章

2022-01-27 | 諸経

第五、事教二相章

(真言密教の教えは即身成仏の理をあかすにあり、修行方法は即身成仏の方法を示すにある)

真言密教の法門広大甚深なりと雖も事教二相を出でず。教理の令斎に両道あり。一つは顕密対弁門、二つは自宗不共門なり。

顕密対弁門は横には顕密二教の優劣を対弁し、竪には十住心の浅深を判釈して密教の無上真実なる所以を明かす。

自宗不共門は或は両部曼荼羅の法体を示し、或は三大円融の妙理を釈し、或は断惑証理の行相をあかす等自宗不共にして余教においては決してなき處の法門なり。大疏にいはく「阿字門等これ真言の教相なり」(大毘盧遮那成佛經疏卷第七入漫荼羅具縁品第二之餘に「・・是故皆得智名。言以如是福願智力。及一切法界本性加持力。隨順世間。如其種類而作加持。是故於一切衆生種種身語意。皆可開示眞言教法。經云。祕密主云何眞言法教者。即謂阿字門等。是眞言教相。雖相不異體體不異相。相非造作修成不可示人・・」とあり)。次に修行の軌則を言ば、大凡四種とす。息災・増益・降伏・敬愛なり。大疏にいはく「この宗は、初めて法門に入る時、意最も浅近にして識りがたし、且つ三乗の実相は文字を離れざることなし。真言者は必ず口に梵文を誦し、心に之を観ずべし。或は身の肢節を屈伸する事猶し戯弄のごとくし或は三昧を修するときすなわち女人の像、或は忿怒等の形を観じ、水を以て灌頂し、或は火壇を造作す。もし心識を以て籌量(ちゅうりょう. ものごとのよしあしをはからい知ること)せんと欲せば乃ち加持の迹又見るべからず。深信を具すに非ざる者はおよそ疑惑せざる事を得んや。又この行者、この衆縁の事相において諦信を以て之を行ずべし。」(大毘盧遮那成佛經疏卷第三、入眞言門住心品之餘に「謂此宗。初入法門時。意尤淺近難識。且三乘實相。無不離於文字。而眞言者。要須口誦梵文心亦觀之。或屈申身分支節猶如戲弄。或修三昧乃觀女人之像或忿怒等形。或以水灌頂。或造作火壇。若欲以心識籌量。則加持之迹又不可見。自非具深信者。安得不疑惑耶。又此行者。於此衆縁事相。皆以諦信行之。」」と)

これによってこれをみれば、教相の要は即身成仏の理趣を明かし、事相の要はその成仏の方軌を示すにあり。

 

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