観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・17/27
一、丗三の釋の事。三聖六天小王四性四部四姓女童男女八部金剛神也。三の聖とは佛身・声聞身・縁覚身也。初に佛の事両巻の疏に云、先ず佛を明かすは應佛とやせん化佛とやせん、但し聖人物に逗するに具に二義あり。若し一時に忽ちにあるを名けて化と為し、始終に應同するを名けて應と為す。此の文を尋が為に應の義を明かす。機縁の宜しきに随って應化身を現ずること不定なり。暫時も化現して宜しかるべし。機の為に無にして忽有の身を現ずべきなり。又始終應同の身にて宜しかるべき機の為には、八相成道の利益し玉ふべきなり。佛声聞は文の如く也。次に六天とは欲色二界の天衆なり。
「應以梵王身得度者。即現梵王身而爲説法。應以帝釋身得度者。即現帝釋身而爲説法。應以自在天身得度者。即現自在天身而爲説法。應以大自在天身得度者。即現大自在天身而爲説法。應以天大將軍身得度者。即現天大將軍身而爲説法。應以毘沙門身得度者。即現毘沙門身而爲説法。應以小王身得度者。即現小王身而爲説法。應以長者身得度者。即現長者身而爲説法。應以居士身得度者。即現居士身而爲説法。應以宰官身得度者。即現宰官身而爲説法。應以婆羅門身得度者。即現婆羅門身而爲説法。應以比丘比丘尼優婆塞優婆夷身得度者。即現比丘比丘尼優婆塞優婆夷身而爲説法。應以長者居士宰官婆羅門婦女身得度者。即現婦女身而爲説法。應以童男童女身得度者。即現童男童女身而爲説法。應以天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽人非人等身得度者。即皆現之而爲説法。應以執金剛身得度者。即現執金剛身而爲説法。」梵王神の事、甫に云く「梵王の神とは、梵は即ち色天の主なり。此れは尸棄と名く。亦は頂髻と名く。瓔珞にはまさに是初禪頂大千世界の王と為すを得となす也(觀音義疏卷下「二明梵身者。梵即色天主名爲尸棄。此云頂髻。瓔珞明四禪皆有王。此言梵者。應是初禪頂。猶有覺觀語法得爲千界之主也。」)梵王は四禅に且るべきなり。然れども二禪以上には言語覚観無きが故に説法の義成ぜざる故に初禪の王と釈し玉ふなり。
帝釈身の事、両巻の疏に云く、帝釈身とは此れは地居天の主なり。具には釈提桓因陀羅と云也(觀音義疏卷下「應以帝釋身者。此地居天主也。具云釋迦提桓因陀羅。釋迦言能。桓只是提婆。提婆即是天。因陀羅名主。能作天主。」)。地居天とは忉利天の事也。三十三天の主也。悪事を嫌ひ善事を勧る天主なり。さるによって法事法会の砌必ず来臨影向して法味を受玉ふなり。
自在天の事、両巻の疏に云く、自在天は是欲界の頂点、具には婆舎跋提
此には他化自在と云ふ。他の所作を以て己が樂と成す。
即是れ魔主也(觀音義疏卷下「自在天是欲界頂。具云婆舍跋提。此云他化自在。假他所作以成己樂。即是魔主也。」)。欲界の第六の他化自在天の主なり。他を化へて自在と讀むなり。衆生を化して我樂とせしむるなり。是則ち欲界の衆生を皆我眷属と思ふなり。其の中に一人も発心修行して欲界をはなれば我が眷属を失ふ故に色々にして善根を妨げ道心を障るゆへに魔王と云なり。観音は此の如くの身をも現じて利益し玉ふべきなり。
大自在天といふは、無色界の第四禅に八天(無雲、福生、広果、無煩、無熱、善現、善見、色究竟)あり、第八の色究竟天主なり。梵語には阿迦尼吒天と云也。此の天主摩醯首羅の事なり。此の摩醯首羅は三目八臂にして白牛に乗るなり。身長一万六千由旬(112万㎞)寿命も一万六千劫也。如是に威勢有る故に大自在天といふなり。威勢に任せて慢心有る故に不動明王、降三世と現じて摩醯首羅の頂を踏み玉ふなり。其の后うま天是を見て帰伏する心にて降三世の足をうけていただきたるなり。之に付て二禪已上には麁相の色法無し。何ぞ此の如くなるやと云ふに下界に下る時此の相を現ずるか。されども性相には下地麁色を借用と云なり。天大将軍の事。此には末の師不定の釋を作る也。甫に云、天大将軍とは金光明經の如くんば則散脂(八大夜叉大将の一尊。二十八部衆の一尊)を以て大将と為す(金光明經に散脂鬼神品第十あり)。大經には八建提と云(大般涅槃經疏徳王品之三「摩訶那伽鉢建提者。大論云。大龍大象天中力士」)、是は天中の力士なり。釈論には摩醯首羅と称す(釋摩訶衍論勘注「如摩醯首羅天王有一明。名曰勝意生明。以此眞言力故。能於一時。作大變化。遍此三千大千世界。現爲一一衆生。現所愛樂諸利樂事。隨彼受用皆實不虚」)。未だ此の大将軍を知らず。定て是なんぞや。疏に云、天大将軍は是梵補天、大梵王の臣家也。又云、八建提那羅延の類也。(觀音義疏卷下「釋論云。魔醯首羅此稱大自在。騎白牛八臂三眼是諸天將。未知此是同名爲即指王爲將。天大將軍者。如金光明即以散脂爲大將。大經云。八健提天中力士。釋論稱魔醯首羅如前。又稱鳩摩伽。」)金光明經には散脂鬼と説き(金光明經散脂鬼神品第十)、大經には天中の力士と説也(大般涅槃經疏「摩訶那伽鉢建提者。大論云。大龍大象天中力士」)。常の二王の事也。しかるに此の天d無い将軍と云は帝釋修羅の戦時大将と成りて戦故に天大将軍と云ふなり。大梵天王の臣家なり。
毘沙門天の事。此には多聞天と云ふ。須弥の東北に居して四天下を守玉ふなり。是を護世四王と云なり。毘沙門をば梵には「べいしらまなや」といふなり。「べい」をば毘と云ひ、「しら」をば沙と云ひ「まな」をば門と云也。故に毘沙門といふなり。さて多門と云時は聞くと云字を書くべきなり。去れば慈鎮和尚の釋に云く、敬信の名、十方に流る。利生の聞法界に満故に多門と名く、と。(倶舍論記卷第十八分別業品第四之六「多聞室。謂毘沙門天宮。此天敬信名流十方故曰多聞 」)。之に付て四教(蔵・通・別・円)の毘沙門之有り。常に右手に鉾を持ち左手に塔を持ち玉ふは三教(蔵・通・別)の毘沙門なり。右の手に鉾を持ち左の手に腰を拘へ玉ふは圓教の毘沙門なり。而に塔とは衆生の五大也。されば己身の五大の外に別に塔を持つは始覺権門の義なり。さて我が身則ち法界の塔婆なれば身を拘玉ふを圓教の毘沙門と云也。五大法界の義を事相に顕すなり。小王身の事、甫に云、小王身と云は或書に天王を大と為し、人王を小と為す。人王の中に四種の転輪王は自在大力也。四輪王に非ざるは粟散王と名く。自ら大小有。中國を名けて大となし、邊地を小と名く。(觀音義疏卷下「小王身者。或云天王爲大人王爲小。就人王中四種轉輪王自有大小。如非四輪王者名粟散王。自有小大。中國名大附庸名小。傳傳相望。今言小者。小尚爲之何況其大耶。此亦有四句。何獨爲福業受報。入同居土具足化他。共修功徳慈心利物。是爲王也。」)大小相望不同なり。天帝釈等に望れば人中の諸王は悉く小王なり。又日本などの王は大国王に望れば小王なり。之に付いて安居院の澄憲は此の小王身とは本朝の聖徳太子と書れたり。是則ち救世観音の聖徳太子と現じて仏法を弘め衆生を利益し玉ふ故なり。されば父は用明天王、母は橘の豊日の姫也。金光三年(ママ。聖德太子傳略では欽明天皇三十二年とあり)正月一日の夜豊日の夢に金色なる僧来て我家は西方に有り且く汝の胎に宿んと云へり。豊日の云く、我胎は不浄也。僧の云く、我は浄穢を嫌はず且く人間に在りて衆生を利益せんが為なりといへり。其時豊日兎も角もといへり。此の僧喜び給と思てそれより懐妊し馬屋の邊にて生れ玉ふ故に其の名を馬屋邊の王子とも云ひ、厩戸王子とも申也。此の太子十二歳時、百済国の日羅聖人来て敬礼救世観音傳灯東方粟散王と唱て禮し玉へり。(古今著聞集 釈教第二「わが朝の仏法は、聖徳太子広め給へる所なり。太子は欽明天皇の御孫、用明天皇の太子、御母穴太部真人(あなほべのはしひと)の女(むすめ)なり。御母の夢に、金色の僧来たりて、「われ世を救ふ願あり。願はくは、しばらく御腹に宿らん。われは救世菩薩1)なり。家は西方にあり」と言ひて、踊りて口に入ると見給ひて、孕まれ給へる所なり。太子の御伯父敏達天皇、位につき給ふ始めの年、正月一日生まれ給ふ。その時、赤光西方よりさして寝殿に至る。その御身はなはだ香ばし。四月の後によくもの仰せらる。明くる年の二月十五日の朝、心づから東に向ひて、掌(たなごころ)を合はせて、「南無仏」と唱へ給ふ。六歳の御年、百済国より初めて僧尼経論を持ちて渡れり。八年に、また日羅といふ人渡りて、太子を礼して申さく、「敬礼救世観世音、伝灯東方粟散王」と拝み奉りて、光を放つ。太子、また眉間より光を放ち給ふ。また釈迦牟尼如来像・弥勒の石像を渡す。」)
又同じく百濟の清明王の太子本朝に来たり玉へても合掌敬礼に依りて観音小王の身を現じて衆生を利益し玉ふ事日本にては聖徳太子也。去は清明王の方より日本へ聖徳太子の前生の形見とて送らる。是は思惟安心の二臂の如意輪観音也。思惟安心とは一の手顔をささへ、一の手には山をおさへたり。此の観音は宝冠を頂き玉ふなり。此の宝冠をとりのくれば南岳大師と天王寺の縁起にみへたり。そのゆへは太子は南岳の後身也。此則ち観音の唐土にては南岳太子と現じて仏法を弘通し日本にては聖徳太子と現じ玉ふゆへなり。仍って此の如意輪を天王寺の金堂の本尊に安置せり。之に付て不思議の事あり。彼の観音は一の足をばひっ敷、一の足をば下へさし下す。その足のうらに当来導師弥勒菩慈尊と書き付けあり。いかんとして小王身を現じて大王身をば現ぜざるやといふに釋にいはく、劣なる形猶現ず況や勝れたる形をやと釋せり。小を挙げて大を摂する心なり。
長者の事、譬喩品の下に委細なる故に之を略す。
居士の事、首陀姓の中に勝れたる大富貴の人を居士と云ふなり。俗形にして法会を着するなり。釈して云く、外国には戦いに勝、位名至るを居士と為すと。
宰官身の事、甫に云く、宰官とは宰は主の義、官は是功能の義なり。謂く、三台は功能を以て政を主に輔ふ故に宰官と名く(觀音義疏卷下「宰官者。宰主義官是功能義。謂三台以功能能輔政於主故云宰官。」)。三台と云は三公の事なり。謂く、内大臣・左大臣・右大臣なり。此の如く摂政関白の人は天子に仕へて朝の政を輔佐する故に宰官とはをうやけをつかさどるとよむなり。高徳にして位いみじき人也。
婆羅門の事、甫に云く、婆羅門を称して浄行と為す(觀音義疏卷下「婆羅門者。稱爲淨行。劫初種族山野自閑人以稱之也」)。婆羅門は梵語なり。而に天竺には劫初より刹利・婆羅門・毘舎・首陀(本当は婆羅門・刹利・毘舎・首陀の順)の四姓が分かれたり。刹利といふは王種姓なり。婆羅門といふは大臣種姓也。是則ち劫初に天竺に散摩王と申す王御座す也。此の王四人の王子を持ち玉へり。第一の王子は位を續玉ふなり。第二の王子をば山野に捨て玉へり。此の王子山野に在りて心静かに修行の智恵を発し玉ふなり。其れより婆羅門種姓相続するなり。仍って婆羅門を静行と云なり。されば日本にも第一の王子は位を續玉へり。第二の王子は門跡と成り顕密の佛法を相続し玉ふなり。梶井(現・三千院)青蓮院一乗院(興福寺の塔頭門跡寺院であったが廃仏毀釈で廃絶)等と云は皆是静心也。
比丘比丘尼の事。此の翻名は之無しと雖も常には皆比丘をば除饉男と云ひ、比丘尼をば除饉女と云也。饉を除くと云は比丘比丘尼は法喜禅悦の食に充満する故に生死流転の饉を除くの意なり。而に観音比丘と現じて衆生利益し玉ふ事大唐にて南岳大師也。日本にては慈覚(円仁(794~864) 第3世天台座主・慈覚大師)慈恵(良源(912~985) 第18世天台座主・ 元三大師)なり。亦法相宗にはには慈恩大師なり。さて比丘尼には恵心先徳の姉の安養の尼公なり。此れ等は皆観音の反作なり。
優婆塞優婆夷の事。在家にて而も五戒の人なり。近事男近事女と云なり。日本にては観音の優婆塞と現じ玉ふ事は菅丞相なり。今は北野天神と顕じ玉ふなり。さて優婆夷は大職冠の娘の光明皇后也。而るに此の優婆塞近事男と云事は在家なれども能く五戒を持ち佛に近付く意なり。
婦女身の事。上長者居士等の婦女也。是を四姓女と云なり。甫に云く、婦女とは小王の婦女を曰はず。王家制固く遊散するを得ず。物を化するに難と為す故に作さず。若し妙音の如くなれば即ち王宮後宮に於いて變じて女像と為る也。(觀音義疏卷下「婦女者。不明小王婦女者。王家禁固不得遊散。化物爲難故不作。若如妙音即云於王後宮變爲女像也」)。小王の婦女と現ぜざる事は王の后なんどと云人は卒爾に人を見る事能はずなり。故に説法利益の義も成せず。されば妙音の相を乃至王の後宮に於いて反して女身と為ると説けり。故に観音も后の身と現じて宜しかるべき・縁あれば王の后とも現じ玉ふべきなり。凢そ天下の政を助け王の無道を諫めて民を愍み國を治める事専ら賢女の諫に依ってなり。故に后の身をも現じ玉ふべきなり。