地蔵菩薩三国霊験記 6/14巻の18/22
十八、 火印地蔵の事
中古片山寺に清き僧ありしにある女房をかたらひて都のほとりに居を移して偏に世渡る事のみ営居たりけれども、さすがあらぬさまに成りぬる身の罪障後の世の事をそろしく思ひければ地蔵菩薩こそかかる拙き身をも捨てさせ玉はず本願他に異なればせめて現世こそなれ未来の苦果重きを轉じて軽受したくと地蔵一躰を造立し奉り朝夕香華を供養し家を出るにも入るにも懈怠なく念じ奉る。彼の隣家に貧しき下女の住みけるが常に彼の妻女の方に来て追従事して目をかけられてなんの思ひなければ或時彼女房に向かって小音になりて申しけるは家主の御房こそ外(より)心付け玉ひて若き女房のもとに通ひ給ふなり。いまだ知りたまはざるか。御前の事を思奉れば我等さへねたましくこそあれとて和説する事度々にをよべり。僧は夢にもしらず物詣の為出ければ妻女聞てかのもの方へゆくらめと思ふに胸ふくれて妬ましく腹立つ事かぎりなし。いかがせんともだへつつ夫の法師の大事にするものはこれこそあれとて地蔵尊を取り出し奉り足にふまへて鐵の火箸を焼きて御相好に焼印をあたへ奉る。かくて本尊を持仏堂に置きけり。夫の法師家に皈りて例の如く急ぎ佛を拝し奉らんとしければ御相好に火印を隙なくされて焼損じたり。是を見奉りて目もくれ心の消え入りにけり。何ともすべき様なくて法師泣き居たりけり。妻女聞うけて我をたぶらかしてありきを事する者はさやうの事も有る物なり、打ち砕かぬをいみじき事とは思はずして何を泣くぞと云て顔色あらけなうぞ申しける。法師心得がたきことながら先ずしつ゛まれと制してとかうの事もいはずあれども此の事世間にかくれなかりければ彼の妻家を出行きければ、童部ども手を打ち指をさし地蔵に火印たる女見よとぞ笑ければ聞く人も見返り、行者も立留って事の由を立留てぞ聞きけり。餘はやしたてられて偶ま外へ彼女の手を引き遥かなる冥官の廳を出玉ひて、汝娑婆に皈りて永く驕慢嫉妬のあらき心を止めて三宝に皈依せよ。必ず忘る事なかれと言(のたまひ)て御手を放ち玉ふと思ひければ息出にけり。やがて人心付て後、冥途のありさま火印したる地蔵に乞ひ請けたてまつられて如是なりと落涙して申しければ聞く人も恐れをなし、有難き薩埵の利益かなといつ゛れも菩提心を発しけり。法師の心いかばかりか喜しからまし。されば怨を恩を以て報ひけることは俗の人すら難し(雜寶藏經二九龍王偈縁「智者報怨皆以慈」)、況や悪業深重の罪人堕獄を救玉ふこと、誠に稀有の利益、慎むべし仰ぐべし。
引証。本願經に云、佛閻羅天子に告げたまはく南閻浮提の衆生、其の性剛彊にして調へ難く伏に難きなり。是大菩薩は百千劫に於いて頭然して如是の衆生を救拔して解脱せしむ。是の罪報の人乃至大惡趣に墮れば、菩薩方便力を以て根本業縁を拔出して而も宿世之事を悟ら遣(しむ)(地藏菩薩本願經閻羅王衆讃歎品第八「佛告閻羅天子。南閻浮提衆生。其性剛彊難調難伏。是大菩薩於百千劫頭頭救拔如是衆生早令解脱。是罪報人乃至墮大惡趣。菩薩以方便力拔出根本業縁。而遣悟宿世之事。自是閻浮衆生結惡習重。旋出旋入勞斯菩薩。久經劫數而作度脱。譬如有人迷失本家誤入險道」)。