妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・1
妙法蓮華経秘略要妙巻七 經第八 観世音菩薩普門品第二十五之一
別行縁起 附沙婆縁起
當品を別行流布することは河西涼州の王沮渠蒙遜(晋の代の偽潜の王也)病患に遭て曇無識(此には法豊と云。(玄始元(412) 年に北涼に来た訳経僧。 王の保護を受け,訳業に従事し,政治顧問ともなり,北涼の至宝と仰がれた。))三蔵に遭て救はんことを乞ふ。三蔵の曰く、観世音菩薩は此の土に於て、縁深し。此の一品に帰依せらるべしと。それより世間に流布して其の利益廣大なりといへり。
問、此菩薩、沙婆に於て縁深しとは何事ぞや。
答、此の土の衆生は耳根利なるが故に能く音聲説法を聞て其の義を解す。然るに彌陀観音は大悲甚深の尊體なり。大悲化他の利益多しといへども、説法に過ぐることなし。故に真言教の意、彌陀観音は説法して疑を断ずるを其の徳とす。能家の尊は言語説法を以て其の作用とし、所化の衆生は音聲説法を以て所入の門とす。能化所化の契當せるが故に観音を娑婆有縁の大士と云也。彌陀佛の娑婆に縁深きことも亦是此の義なり。
當途王經(とうずおうきょう)
一、當品を當途王經と號する事は、當世尊大の経と云義なり。途とは世の義なり。一説に周の穆王八駿の馬に乗て西方に遊歴せられしに、天竺に至て、佛の普門品を説玉ふを受持して歸られしが故に、王の行途に當て説玉へる經なれば當途王經と號するといへり。是は妄説にして取るに足らざるものなり。
一、當品は化他に約して、流通を勧むる中の第二に命を受けて法を弘むる弟子を明かす二品あり。今は其の第二の一品なり。
一、若し真言門の義に約すれば、観世音とは胎蔵界の八葉の東北の観自在即ち是なり。観自在とは成所作智の大悲方便の外用の至極なり。若し又観音の観心の義に例して云ば、観自在とは観達自在の義の故に。成所作智の利の中の自證の至極なり。猶確論せば観理(自證)観機(化他)二つ俱に自在の故に。實には二利を兼たる名なり。
観音本述
- この菩薩に已成佛、未成佛の二義共に本據あり。先に已成佛とは、千手千眼大悲心陀羅尼經(唐の西天竺の三蔵伽梵達磨の譯)に曰く、観世音菩薩不可思議の威神之力あり。已過去無量劫中において已に作佛し竟りて、正法明如来と号す。大悲願力を以て、衆生を安楽ならしめんが為の故に現に菩薩と作る。以上。(千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經「佛言此菩薩名觀世音自在。亦名撚索亦名千光眼。善男子此觀世音菩薩。不可思議威神之力。已於過去無量劫中。已作佛竟號正法明如來。大悲願力。爲欲發起一切菩薩。」)。嘉祥義疏十二に観音三昧經を引て云く、観音は我前に在りて成仏して成佛して正法明如来と名けき。我は苦行の弟子為り。已上。(十一面神呪心經義疏 「觀音三昧經曰是觀世音在我前成佛名正法明如來吾爲弟子也」)。此の中の我とは釈迦如来なり。次に未成佛とは、悲華經、曇無識の譯、の第三に曰く、寶蔵佛の言はく、観世音は無量壽佛般涅槃し已て第二の恒河沙に等しき阿僧祇劫の後分の初夜分の中に正法滅盡して夜の後分の中に、彼の土、極楽世界、轉じて、一切珍寶所成就と名けん、世界所有の種々の荘厳無量無邊にして安楽世界の及ばざる所也。善男子、汝後夜に於いて種々に荘厳して菩提樹下に在りて、金剛座に坐し、一念の中間に於て阿耨多羅三藐三菩提を成ぜん。一切光明功徳を遍出し山王如来と號せん。乃至、其佛の寿命は九十六億那由他百千劫なり。般涅槃已て正法世に住すること六十三億劫ならん。已上。(悲華經卷第三北涼天竺三藏曇無讖譯 大施品第三之二「善男子。無量壽佛般涅槃已。第二恒河沙等阿僧祇劫後分。初夜分中正法滅盡。夜後分中彼土轉名一切珍寶所成就世界。所有種種莊嚴無量無邊。安樂世界所不及也。善男子。汝於後夜種種莊嚴。在菩提樹下坐金剛座。於一念中間成阿耨多羅三藐三菩提。號遍出一切光明功徳山王如來應供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊。其佛壽命九十六億那由他百千劫。般涅槃已正法住世六十三億劫」)。観音勢至受記經、劉宋の曇無竭譯、には國を衆寶集普荘厳と名け、佛をば普光功徳山王と号せん、已上略抄。(觀世音菩薩授記經、宋黄龍國沙門曇無竭譯 「佛言。善男子。其佛國土號曰衆寶普集莊嚴。善男子。普光功徳山王如來。隨其壽命。得大勢菩薩。親覲供養。至于涅槃。般涅槃後。奉持正法。乃至滅盡。法滅盡已。即於其國。成阿耨多羅三藐三菩提。號曰善住功徳寶王如來應供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊」)。大方、廣曼殊室利經観自在菩薩授記品第三十一、唐の不空譯、には國をば平等光明普照と名く。佛の名は上に同じ。(佛説大方廣曼殊室利經、觀自在菩薩授記品「爾時世尊復讃觀自在菩薩摩訶薩言。善哉善哉。善男子。汝能如是善巧方便利益有情。現種種身開示演説。甚爲希有。是眞清淨菩提薩埵。汝於來世阿僧祇世界微塵數劫。於平等光明普照世界。當得作佛。號曰平等光明普照如來應供正遍知明行足善逝世間解無上士調御丈夫天人師佛世尊。令彼衆生住於無畏。無諸熱惱無有變易。究竟寂滅。然後方般大般涅槃」)
問、この両義の中には何を本意とするや。
答、法華の意は聲聞衆すら猶権化なり、況や上位の薩埵をや。知ぬ實に過去已成の古佛なることを。但し、悲華の説は浄土の報身と見たるが故に、是方便示現の邊に約して授記し玉へるなり。たとひ同居の浄土の勝應身なりとも、亦是方便示現なり。
観音昔縁 附得名
- 悲華經の第三已下に、彌陀観音勢至普賢文殊等の発心の因縁を説けり。往昔恒河沙等の阿僧祇劫を過ての古、此の娑婆世界を刪提嵐と名け、劫をば善持と号す。時に轉輪聖王あり、四天下に王たり。無諍念と名く、一の大臣あり。寶海梵志と云ふ。時に一りの子を生り。三十二相八十種好妙に荘厳なり。名けて寶蔵と云。出家成佛して亦寶蔵佛と名け奉る。次第に遊化して漸く安周羅城、即ち聖王の所治、の側、閻浮林に至て、無量の聲聞大衆と俱に此林に頓止玉ふ。時に轉輪王、佛此に至り玉ふと聞て、無量の衆と俱に此の林に至る。佛即ち王の為に正法を説きて示し、教利喜し玉ふ。時に無諍念王、佛に言さく、願は佛及び諸の聖衆、三月が間、我が供養を受玉へと。即ち閻浮林に於いて純金を地とし、七寶の楼閣、七寶の行樹に寶衣と真珠とを懸列ね、寶蓋寶器を以て荘厳して牛頭栴檀沈水香を佛の上に散じ、摩尼珠を佛の前に置き、白象寶をして佛の後に在て、七寶の樹を持しめ、一一の聲聞までに各皆かくの如くす、王手ずから寶扇を以て佛を扇ぎ奉る。又四方の青衣の夜叉をして、牛頭栴檀を爇て、佛及び大衆の為に食を烹飪(煑)せしむ。時に王、夜分に於いて無量の燈を然して、佛及び大衆を供養し、又王自身の頂に一燈を戴き、肩に二の燈を荷ひ、両手に四燈、両膝に二燈、両足の趺の上に各一燈を炷して、竟夜、佛を供養し奉る。かくの如くすること三月なり。時に王の千の子及八萬四千の小王までに各皆かくのごとくして、佛及聲聞を供すること亦三月を滿ず。王と千子との供養に二百五十年を滿す。後に寶海梵志、聖王に白さく、大王まさに知るべし、人身は得がたし、而るに先に佛を供養し玉ふは、来世の大富の因、持戒は来世の人天の因なり。法を聞き玉ふは来世の知恵の因なり。大王今已に是等の事を成就し玉へり。即ち菩提心を発し玉へと。時に王即ち発心して曰く、我自行化他して成佛せん時、五濁の穢土を取るべからずと。寶海梵志かくの如く次第に王の千子及八万四千の小王及餘の九万二千億の人を教化して、菩提心を発せしめたり。後に寶蔵佛、輪王を讃じて言く、善哉善哉大王、汝所願甚深にして已に浄土を取れり。今汝が字を改めて無量清浄と名けん。汝今より一恒河沙に等しき阿僧祇劫を過て、第二の恒河沙に等き阿僧祇劫に入て、安楽世界に於いて成佛して無量壽如来と名くべしと。時に第一の王子、不眴太子又授記を求む。寶蔵佛の言く、汝五道の衆生を観じて、大悲心を生じて、衆生の煩悩及苦を断じ、安楽を得しめんと願ふが故に、今當に汝を字して、観世音とすべしと、授記の言は上に見へたり、故に今略す。其の寶海梵志は即ち是釈迦如来なり。又十一面観世音菩薩の儀軌、不空の譯、には、過去恒河沙數劫の前に百蓮華眼髻無障礙力光王如来の所にして、我、観音、持明仙として此の十一面の心密言を受得已て、十方の佛を見奉ことを得て、便ち無生法忍を得たり。又過去十恒河沙の前に、曼荼羅香如来の所にして、我長者として此の心密言を受て四十万劫の生死を超へたり。此の密言は一遍を誦するに、四重、殺生偸盗婬妄語の四戒を指す、五無間の罪を滅去して餘なし。何に況や餘の重罪を除滅せざらんやとへり。又一髻尊陀羅尼經、不空譯、も亦大同なり。但し曼荼羅香如来の所にして優婆塞と為て翳迦惹叱婆羅門と名けきといへり。但し悲華の不眴も猶是垂迹の名にてもあるべし。實測りがたし。次に得名をいはば新家の梵語には、中天竺の正音、阿利耶(聖)嚩盧吉帝(観)湿嚩羅(自在)と云。𦾔譯に阿利耶婆婁吉低輸と云は略せるなり。阿利耶、此には遠悪と云。亦勝者と云。阿嚩盧吉多、此には観と云。然るを初の阿字を上句の末の耶字に合して長く呼んで、阿利耶嚩盧等と云なり。伊湿嚩盧、此には自在と云、而るを初めの伊字を上の多字に合して轉聲して帝と呼で、吉帝湿嚩羅と云なり。然れば此の三句十字は、必ず相続して誦すべし。若し離分して呼ぶ時は八句義を成ぜざるが故也。さて本名をいはば、新には観自在と云。是敵対正翻なり。𦾔には観世音と云、是義翻にして正翻には非ず。観世音とは正しくは化他に約す。上に引ける悲華の文及下の本文の意なり。兼ねては自行に通ず。謂く観とは一心三観なり。世とは不思議の妙境なり。音とは圓の機なるが故に。
安品次第
- 若し秘密趣に約せば當品は前の東方の妙音に次で西方の観音を説く。是則ち東方は発心因なり、西方は菩提果なるが故に、因果俱に化他を専んずることを明かす。此の經は大悲蓮華部の三昧なるが故に、因果の始終、大悲を捨てざることをあらはすなり。
四重秘釈
- 密宗に就て談ずるに諸尊に亘って皆四重秘釈あり。且く今観音に就いていはば、初めに浅略の釈とは悲華に説ける無諍念王の第一の太子不眴発心修行して等覚無垢の位に登れる是則ち観音なり。此は偏に因位の菩薩と見るが故に浅略とす。二に深秘の釈とは、観音は是金剛界にては西方彌陀の四親近の初めの金剛法菩薩。胎蔵漫荼羅にては蓮華部の主、観自在尊是なり。金剛界には佛の妙観察智の中の自證智の別徳とし、胎蔵にては佛の大悲の別徳とするなり。観自在即これ大日如来普門万徳の尊體なり。今の品を普門品と名ることも、往々有斯議に約して見れば、即ち此深義をあらはす者なり。観音の大悲蓮華三昧は悲生曼荼羅の主たる大日尊八葉の蓮華に坐して大悲の用を施し玉ふなり。又東北に安ずることは、東は因の始め、北は果の終なり。因果の中間に居して両際を兼ること果佛大日にして、而も又因位の菩薩と示現す、是因果不二の義なるが故なり。又胎蔵は因曼荼羅なり、其の中の果佛なれば是又因果不二の義あり。又此の品を第二十五に安ずることも各具五智の故に、二十五の徳を大日に圓備することを表するなるべし。經に二十五の聖者各自所得の圓通を説に、観音を最後に安が故に是又第二十五にあり。圓は是普の義、通は是門の義なれば、是又大日普門の義に同じ。四に秘秘中深秘の釈とは、観自在とは能行の人といへり、一切の修行者の通名なり、故に観音の左手の蓮華は一切衆生、左手は生界を表す、の胸中の八辨の肉團即是心の臓にして、自心の本體なり。此より無邊の縁用を発して諸法の邪正是非等を分別す。かくの如く、此の肉團に万徳圓備せりといへども、因位に於ては差別の無明に覆るるが故に、其の徳微密にして顕現せず。佛果に至ては無明すでに除こるが故に、肉團開敷して八葉の蓮華と成る。是大日の所座なり。是世間の蓮華の未開けざる時は華葉も鬚蕊も華臺も蓮實も見分けず。已に開ぬれば、葉蘂臺實も悉く顕るるが如し。此の肉團の位を観音と建立し(因徳)明たる位を阿弥陀とし、又は大日とす(果徳)。此の故に観音彌陀大日俱に一切衆生の自性清浄心なり。理趣経には観音を得自性清浄法性如来と説き、観經には佛と作る是の心は是れ佛なりといへり。唯未開(観音)已開(弥陀)の異のみなり。故に観音の三昧耶形には未敷蓮を用、彌陀の三昧耶形には開敷蓮を用ゆ。されば法華の本迹二門には本尊は阿弥陀佛なり。彌陀観音は體性は同一の故にこの普門品を法華経の咽喉とするも、其の意暗に合へり。咽喉は又息風の出入の處、音聲の本なり。故に密教には咽を説法断疑門の弥陀に配す。或は大日に配す。又此經を妙法蓮華と号することも、此等の深義に約するなり。更に別の物に非ず。是の衆生本有の體を指すが故に至極の義とす。
日本有縁
又秘密趣に約するに、我日本國殊に観音有縁の地なる故あり。日本は天照太神の御國なり。然るに天照太神の本地は観音なり。故に勢州山田に天照太神の御本地を安置して世貴寺と号す。金剛頂大教王經に金剛法の梵讃の「ろけい(世)じんばら(自在)」(梵字)を世貴と翻するなり。又内侍所の圓鏡は即ち天照太神なり。金剛頂経には圓鏡を以て観音の三昧耶形と説けり。又天照太神を大日靈貴オオヒルメノムチと名け奉る。是豈大日世貴と同なるに非ずや。故に國を大日本國と名け、又此國の形、獨股杵の形なること、獨股は観音の三形、又獨一法身の大日なり。彼此符号を合せたるが如し。凡そ心あらん人豈是を信ぜざらんや。近来神道を學する者、頻に佛道を排斥して宋儒の説に附く。夫れ佛法には三世の因果を談じて、冥道鬼神を立て、儒には後世を撥無して鬼神なしと云ふ。神道に根の國、底の國と云は、冥途黄泉を指す。神武天皇の母君は海童の小女なりといへり。海童とは大海神なり。豈是儒道に立るところならんや。又禁裏に神璽寶劒を安じ玉ふは皆牀の上に直に置きて、更に物の上に安くことなし。是則ち密教の阿字本不生の理なり。其外心の御柱、天の祭、地の祭など云事、悉く皆密宗の事理に契合せり。しかるを膚淺の神學者、佛教を委せざるが故に、唯空理をのみ佛法と得意て却て枉て神道の為に異端なる儒教に合し、同轍なる佛法を擯弃す。我恐くは神其邪曲の頭を守らずして却て佛者正直の首に宿らんことを。
題目料揀、十雙五隻
當品の題目をいはば、先ず通別とは妙法等の五字は一部の通題、密宗の意ならば妙法の二字は観音の法曼荼羅、蓮華の二字は三昧耶曼荼羅なり、観世音普門品の六字は一品の別題なり。密宗の意ならば観世音とは大曼荼羅、普門とは徳用の故に法曼荼羅なり。又單複具足に就て云ば、妙法と普門との四字は法なり。蓮華の二字は喩なり。観世音の三字は人なり。故に人法喩の三具足せる題目なり。又天台の別行の疏に観世音普門の五字に就て十雙五隻の釈を作せり。十雙とは観世音の三字をば前段に配し、初めより無量無邊福徳の利までを前段とす、普門の二字をば後段に配す。無盡意菩薩白佛言より遊於娑婆世界までを後段とす、此の前後両段を相對して人法一雙、慈悲一雙の釈を作。故に十雙と云なり。五隻とは観世音普門の五字を一字つ゛つ各別に釈するが故に、五隻と云ふなり。其の十雙を云ばは、
・一には人法一雙、謂く人とは前段の初めに無盡意、佛に問奉て、何の因縁を以て観世音と云を、佛若し観音の名を唱ふる者あれば速に七難三毒二求両願、實には二求即ち両願、上の句に対せんが為に重言するなり、を滿ずるが故に観世音と名くとの玉ふ。是則ち人に約するなり。法とは後段の始めに無盡意菩薩は云何が此の土に游化し(身業を問)、云何が衆生の為に法を説く(口業を問)方便の力其の事云何(意業を問)と問へば、佛三十二身を十九章に縮めて、應以佛身得度者(佛身を以て度すべき者ぞと観ずる義なるが故に是意業を答す)観世音即現佛身(身業を答す)而為説法(語業を答す)等と説て、普門示現の三業の利益を答へ玉ふ。是所現の應用なるが故に法に約するなり。
・二には慈悲一雙。謂く前段には七難二求の苦を抜き、三毒の煩悩を離れしむるが故に、是大悲抜苦なり。後段には説法して理味を嘗めしむるが故に是大慈與樂なり。
・三には福慧一雙。謂く前段に應機抜苦は是智慧荘厳なり。智に断惑の功あるが故に又能く苦を抜くなり。後段に普く色身を現ずるは首楞厳定(三毒の煩悩が消滅するほどの功徳をもった三昧)の所變なれば是福徳荘厳なり。定は慧を助くるが故に福とす。是常途の義なり。
・四には真應一雙。謂く、前段には観音の妙智。内に不思議の境に冥が故に、苦を離れんと求めて念ずる者あれば自然に應じ玉ふこと、修羅の琴の拊ざれども自韻が如し。是則ち真身なり。後段には普門示現して衆生の樂欲に隨ふ。則ち應身なり。
・五には藥珠一雙。謂く、前段に能く衆生の苦難を除くは藥樹王の能く諸病を療ずるに譬ふ。是藥樹王身なり(別行玄義に華厳を引けり)。後段に機の願に任せて三輪不思議の化を作すは、如意寶の能く一切の所求の物を雨すが如し。是如意珠身なり。
・六には冥顕一雙。謂く前段には機は七難等に遭て救を求むるが故に顕なり。而るに眼に尊容を見、耳に妙音を聞くことはなけれども、自然に七難三毒皆離るるなり。故に冥應とす。後段には機は心中に冥伏して、顕に求むるには非ざれども、観音はるかに其の度すべき可発の機を見て、三業を以て應じ玉ふ。故に顕應とす。
・七には権實一雙。謂く前段には自意に随って不思議の妙境を照らし玉ふ。故に實智なり。後段には他意に随って有縁の機を導く。故に権智なり。
・八には本迹一雙。謂く前段に観世音とは本際を動ぜざるなり。後段に普門とは迹に方圓に任するなり。
・九には縁了一雙。謂く前段に観世音とは智慧荘厳の故に是了因なり。後段の普門とは福徳荘厳の故に是縁因なり。
・十には智断一雙。謂く観世音とは智を以て観ずるが故に智徳分に滿ずること。(分滿とは等覚位の故に)。十四夜の月の如し。普門とは断徳分に滿ずること、二十九夜の月の如し。普門示現を断徳とすることは、衆生を利益するに自在にして拘束することなきを云なり。
次に五隻を云ば、
・一に観とは凡そ観に多種あり。謂く折空観、體空観、次第の三観、一心三観なり。今は圓観を取て観と名く。
・二には世とは、亦多種あり。曰く有為世、無為世、二邊世、不思議世なり。今は不思議世を取て、世と名く。
・三に音とは機なり。是に亦多種あり。人天の機、二乗の機、菩薩の機、佛の機なり。今は佛の機を取て音と名く。
・四に普とは則ち周遍の義、圓の義。是偏にあらざるなり。是又十普を分別す。
一に慈悲普とは中道無縁の慈悲、普く法界衆生の苦を抜き樂を與ふるなり。二に弘誓普とは平等の知見を以て、心佛衆生の三つ差別なしと解して而も自心の菩提を求め、心内の衆生を度せんと誓願す。此一乗の行者の四弘誓願なり。三に修行普とは、一心三観の修行なれば事に即して則ち理なり。理已に一切に遍す。故に事の万行周普せり。四に断惑普とは、圓に三観三智を以て見思・塵沙・無明の三惑 (天台大師智顗が一切の惑(迷い・煩悩)を3種に立て分けたもの。見思惑・塵沙惑・無明惑のこと。見思惑は声聞・縁覚・菩薩の三乗が共通して伏すべき迷いであるゆえに通惑ともいい、塵沙・無明の二惑は別して菩薩のみが断ずる惑なので別惑ともいう。『摩訶止観』などに説かれている。)を一時に断ずるなり。五に入法門普とは、若し中道王三昧に入る時は、一時に能く一切の三昧に入る。故に普門示現の六凡四聖の身あるなり。六に神通普とは、二乗偏の菩薩は尚普からざるところあり。若し圓の菩薩の神通は中道の理の作用なるが故に能く法界に周きなり。七に方便普とは、無縁にして中理を縁ずるを以て一時に一切衆生に應ずる方便を施すなり。八に説法普とは、能く一切妙音を以て十界の機に稱て俱に解脱せしむ。十信相似の音聲尚以て一音を三千世界に遍ぜしむ。況や住上分眞の音聲をや。九に成就衆生普とは、一切世出世の所有の事業、悉く是佛法なりと見るが故に、一切衆生を利益して菩提に至らしむるなり。十に供養諸佛普とは、若し外の事供養に約せば、一香一華一でも皆法界に周遍して供養するなり。(一色一香無非中道の故に、中理已に法界に遍ずるを以て華香も又同じく遍ずるなり)。若し内の観行に約せば中道の観智を佛とす。万行皆圓観を資助するを佛を供養ずと云なり(已上十普了)。
・五に門とは開通の義なり。今此菩薩は中道の普現色身三昧力(一切衆生に対応してどんな姿でも現すことができる神通力)を以て無量の身相を現じて衆生の樂欲に應じて説法教化して、此の門より遂に實相の理に入らしめ玉ふ。是則ち門の義なり。若し普門の二字を合して釈せば、慈悲誓願修行等の自行・化他の十法は皆圓普の故に、一切衆生を教化して悉く佛道に通ひ入らしむるを普門と云なり。若し秘密趣に約して、大日普門の義をいはば、大日は万徳を圓満せる尊なり。其の慈悲願行等の諸徳より各普賢(願)、文殊(行也、行は必ず智を主とするが故に)、弥勒(慈)、観音(悲)等の恒沙の諸尊を印現して各その所樂に随て、衆機を引導して法界漫談荼羅に引入し、遂に阿字本不生の心殿に至らしむ。是を大日普門の義とす。上に云が如く第三重の秘釈に観音即大日と見る時は、大日の普門万徳より印現する義を以て、観音普門の義を解すべきものなり。次に、品の一字は品類の義なり。義類同じき者を聚めて一段とするが故に、品と云なり。次に二十五とは品の次でなり。