本朝高僧傳・和州元興寺沙門隆尊傳
「釈隆尊は何許の人なるか不祥。義淵僧正より唯識を受け兼ねて華厳を聴し倧錯日に積み理義神に入る。衆の屈請に随ひ元興寺に住す。建行粋然(純粋)、謙光外逼。聖武帝聞し召し任ずるに律師を以てす。尊、舎人親王に謁し曰く「性もとより頑愚、未だ篇聚を委ねず。今律師に任ぜらる、恐れおおくも聖授を忝ふす。且つ國家、戒師無き也。尚矣。我異域に入りて律範を質さんと欲す而して才力乏し。叡睿法師は護鵞戒浄、繋艸思覃、天生隠逸、濃州に蟄居す。この僧、入唐し名師を請し来り国家に戒法を流布せしむべし。是れ吾所願也」と。親王執奏す。帝、其の言を納れ即ち睿及び大安寺普照に勅す。幣を封して唐に入る。天平勝寶四年三月中旬、東大寺廬舎那仏大像成る。皇帝太上太皇、
輿を聯じて寺に幸し殿に入りて佛を拝す。是の日、大會斎を設け千僧を供養す。尊に勅して大導師と為す。緇素相称す、一世の栄なり、と。天平寶字四年閏四月十八日、元興寺別院に寂す。壽、大衍数(50)に當る焉。又釈良敏有り。義淵僧正に従ひ法相の致要を受く。才博く、徳卲(たか)し。尊と相次ぐ。朝廷崇信、大僧都に擢じ元興寺を領す。賛じて曰く。他を先にし己を後にするは菩薩の行也。羅漢以下絶て為さざる所也。尊公、栄睿普照を奏して中華に入らしめ律匠を倡来す。天下国家始めて毘尼大法を知る。夫れ本朝の戒範なり。」