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三代実録 / 貞観五年(863)正月廿一日甲申条
「廿一日甲申 停内宴 以天下患咳逆病也」
(廿一日、内宴を停止した。世の人々が咳逆病を患っているからである。
天皇は清和天皇。内宴(ないえん)とは、平安時代に1月下旬に内裏にて行われた宮中の私宴。朝廷も庶民の苦しみを我が事として感じておられました。)
貞観五年の疫病は大変であったらしくこの年御霊会が始まっています。
『日本三代実録』の貞観五年(863)五月二十日条に文献上最古の御霊会が記載されています。
『日本三代実録卷七貞觀五年(八六三)五月廿日壬午》○廿日壬午。神泉苑において御靈會を修す(注1)。左近衞中將從四位下藤原朝臣基經・右近衞權中將從四位下兼行内藏頭藤原朝臣常行等を勅遣し會事を監す。王公卿士赴集共觀す。靈座六前几筵を設施し花果を盛陳し恭敬薫修す。延律師慧達(注2)を講師と爲し、金光明經一部・般若心經六卷を演説す。雅樂寮伶人に命じて作樂させ帝の近侍兒童及良家稚子を舞人となし「大唐高麗」を更出して舞しむ。雜伎散樂を競ひて其の能を盡す。此日宣旨して四門を開苑し都邑人の出入縱觀を聽す。所謂御靈とは崇道天皇・伊豫親王・藤原夫人及び觀察使橘逸勢・文室宮田麻呂等是也。並びに事に坐して誅せ被れ寃魂と成る。近代以來、疫病繁發し死亡甚衆なり。天下以って爲へらく「此災。御靈之所生也」と。京畿よりはじめて爰に外國におよぶ。夏天秋節に至るごとに御靈會を修し徃々不斷なり。或は禮佛説經、或は歌且舞、童貫之子をして粧馳射せしめ、膂力之士は袒裼相撲す。騎射呈藝。走馬爭勝。倡優戯。遞相誇競。聚而觀者莫不填咽。遐邇因循。漸成風俗。今茲春初咳逆成疫。百姓多斃。朝廷爲祈。至是乃修此會。以賽宿祷也。』
(注1、現在は7月の祇園祭に引き継がれています)
(注2、薬師寺の仲継に法相(ほっそう)をまなぶ。のち近江(おうみ)(滋賀県)比良山で修行。文徳(もんとく)天皇の病気平癒を祈祷(きとう)し治癒させる。)