今日は天台十三世座主尊意が兜率に登った日。
「往生兜率密記」「釈尊意、姓は丹生氏、平安城の人也。元慶三年台山に上る。十七にして落髪す。二十二にして坐す円珍を禮して戒を受け、一紀の間に台教を究む。又両部密法を増全に蘇悉地を干玄昭に享く。凡そ三部の諸尊の秘軌各々密語、多少無く皆一万遍を誦し、修法各一千坐、是の如く修練して屡奇妙を得。観音文殊金剛薩埵不動明王各慰誘を加ふ。天慶三年二月二十三日沐浴浄髪して弟子の恒昭に語って曰く「我日頃極楽に生まれんと欲す。今改めて兜率に昇る。闍毘(じゃび・火葬)の後厚く葬るべからず。只墳所において一石の柱を造して標と為して、来り見るものをして都史の因を結ばしめよ」と。二十四日疾なくして而も逝く。年七十五.(釈書)。」
ウキぺデアには「尊意(貞観8年(866年)- 天慶3年2月24日(940年4月4日))は、平安時代中期の天台宗の僧、13世天台座主。通称は梨本祖師、号は法性房。俗姓は息長丹生真人(おきながのにう の まひと)。
近江国(現在の滋賀県米原市上丹生)に生まれる。879年(元慶3年)比叡山に入り、7年後の886年(仁和2年)に受戒して天台の奥義を究めたという。鴨川東の吉田寺で地獄絵を見て発心し、初め栂尾寺の賢一に、次いで比叡山極楽寺の増全に師事して天台教学を学び、また玄昭から密教の法を受け、円珍からは菩薩戒を受けた。926年(延長4年)に13世天台座主に任じられた。仏頂尊勝法・不動法の修法を得意とする験者として知られ、925年(延長3年)の大旱魃に際して醍醐天皇の詔を受けて祈雨の法を修すると見事に雨を降らせ[1]、平将門の乱において大威徳法または毘沙門天法を修して平将門の調伏にも霊験があったと伝えられている。晩年には大僧都に至った。当初は極楽浄土への往生を願っていたが、没時には弥勒兜率天往生願生に改めたとされる。没後、僧正法印位を追贈された。菅原道真の仏教学の師とされ『北野天神縁起絵巻』には、以下の伝承が載っている。
ある時、比叡山延暦寺にいた尊意のもとへ道真の霊が現れた。霊をザクロの実でもてなすと「復讐にあたって、梵天と帝釈天の許可を得た。例え天皇からの命令であっても、私を阻止するような事はしないで欲しい」と道真の霊に頼まれる。尊意はこれを「天皇から二度三度と出動要請があれば、断る事はできません」と断る。すると、激怒した道真は、とっさにザクロをつかみ、口に含んだかと思うと、種ごと吹き出した。種は炎となって燃え上がり、傍らの戸に引火するも尊意は印を結び水を放ち消し止めた。尊意はそのまま道真の霊を追っていく。鴨川まで来ると突然、川の水位が上がり始め、とうとう土手を越えて町中に流れ込んできた。尊意は手にした数珠をひともみして祈ると、水の流れは二つに分かれ一つの石が現れた。石の上には道真の霊が立っていた。尊意僧正との問答の末、道真の霊は雲の上に飛び去り、それまで荒れ狂っていた雷雨がぴたりとやんだという。」)