對治邪執とは、一切の邪執は皆な我見による。若し我を離るれば則ち無邪執なり。是の我見に二種あり。云何爲二。一は人我見。二は法我見。人我見とは、諸の凡夫によって説くに五種あり。云何爲五。一は修多羅に「如來の法身は畢竟して寂寞なること猶ほ虚空の如し。」と説くを聞いて、著を破せんがためなるを知らざるをもっての故に、即ち虚空は是れ如來の性なりと謂う。云何んが對治せん。虚空の相は是れ其れ妄法にして體は無にして不實なり。色に対するをもっての故に有り。是の可見の相が心をして生滅せしむるも、一切の色法は本來是れ心なるを以て、實には外色無し。若し色無ければ則ち虚空之相無しと明かす。所謂る、一切の境界は唯だ心が妄りに起こるが故に有なるも、若し心が妄動を離るれば、則ち一切の境界は滅すなり。唯だ一の眞心のみにして遍ぜざるところ無し。此れを如來の廣大なる性智の究竟の義という。虚空の相の如きには非ざる故なり。
(誤った執着心を退治するというのは、誤った考えはいずれも自分が自分がという自己に拘る考えにより起こる。もし自己にこだわる考えを離れれば即ち誤った考えは消える。この自己に拘る考えといいうに2種類ある。1は仏様への誤解。2つ目は仏様が説かれた法に対する誤解である。仏様への誤解には5種類ある。1は、経典の中に「仏の真実の姿は静謐なもので大空のようである」と説かれているのを見てそれが執着心を破るために説かれた教えとわからずに文字通りに解釈して仏の姿は大空のようなものであろうと解する。このような誤解を正すには、次にように解すべきである。即ち大空という形にとらわれるのは間違いで、大空そのものは定型のないものである、色や形になぞらえて示されたものをそのように見るのは迷いの本である。色や形のあるすべてのものは本来心に他ならないので、実際は心のほかに色や形があるわけではないのである。色や形があるわけではないから大空という色や形もないのである。即ちすべての対象世界はただ心によってあるのであり、迷う心が働くとあるかのように考えることとなるのであるが、心の迷いをはなれてみると全ての対象世界はなくなり、ただ不変の真如一つになって遍在する。随って仏の真実の姿は決して大空の様なものではないことがわかるのである。)
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