手段と対象を規制することが解決につながるとは思えないのですが・・・
歩行者天国、一時中止へ=秋葉原殺傷事件で-東京・千代田区
(2008年6月12日(木)17:31 時事通信)
ダガーナイフの法規制要望=刃物問題で業界が緊急会議-生産地の関市・岐阜
(2008年6月12日(木)21:30 時事通信)
9.11をうけて高層ビルの建築とジェット旅客機を禁止するようなものではないでしょうか(そうだとすれば洞爺湖サミットは今からでも辞退したほうがいいかもしれませんね。)。
国としては「なにかやっている」というところを見せなければいけないのかもしれませんが、あわてて混乱を助長するのは危機管理としては最悪だと思います。
また、マスコミも何か論評しなくてはいけないとこれもまた混乱気味です。
私は読んでなかったのですがkobantoさんによると、12日の日経新聞夕刊の「波音」では
インターネットがなかったら、東京・秋葉原の惨事は起きなかったかもしれない。
ネットの手軽さは「悪いこと」に手を染めるためらいを薄めた。
などと書かれているそうです。
それなら
宅配便がなかったらカニカニ詐欺はなかったかもしれない。
電話の手軽さは「悪いこと」に手を染めるためらいを薄めた。
のでしょうか。
話がそれてしまいました。
18日の朝日新聞に東浩紀(事件当日のNHKにも出てましたが太っちゃいましたね)が寄稿していました。
絶望映す身勝手な「テロ」 秋葉原事件で東浩紀氏寄稿
これも読んでいていまひとつ理解できませんでした。
つまりは、いまや若者の多くが怒っており、その少なからぬ数がアキバ系の感性をもち、しかも秋葉原が彼らにとって象徴的な土地になっているという状況があった。したがって、その街を舞台に一種の「自爆テロ」が試みられたという知らせは、筆者にはありうることだと感じられたのである。
容疑者は彼の苦しみを大人の言葉で語らなかったかもしれない。怒りの対象も曖昧(あいまい)だったかもしれない。彼が凶行の現場として秋葉原を選んだのは、おそらくはその曖昧さのためだ。
若者の怒り・心性の象徴としての「秋葉原」と怒りの対象としての「秋葉原」には飛躍があるように思います。そこの飛躍を鋭い論理展開で埋めるのが本領の人だったように思うのでそこを「曖昧さ」などとすっ飛ばされるとなおさらです。
一方、このようなショッキングな事件に直面すると、何らかの意味を与えて納得したくなるのは人間の性なのかもしれません。
そしてそれはマスコミの仕事(飯の種)でもあります。
確かに若者は怒っているのかもしれません。また、若者の心性のひとつの表出として「アキバ系」があるのかもしれません。
でも、怒りが当然に大量殺人に至るわけでもないですし、「秋葉原は危険だ」ということにつながるわけではありません。
しかし加害者が犯行に至るまでの心理状態は検証自体が不能なので、もっともらしい説明は山ほど成り立ってしまうわけです。
でも大事なのは「事件の真相を解明」することより、社会としてこのような事件がおきないために何をどのレベルで対応するかの議論だと思います。
それはやはり若者の不満なのかもしれませんし、そうでないかもしれませんが(でも、歩行者天国の中止ではないとは思います。)。
ただ、悲観的な見方をすると、このようなことが起きたのは加害者の不満の強さによるだけではなく、「通り魔殺人」「無差別大量殺人」を加害者が現実的な選択肢として認識していたたこと自体に原因があるのかもしれない、ということです。
昭和の時代なら、世の中への漠然とした不満の表出は別の形で出されていたのだと思います。
それが(いつが最初だか知りませんが)平成になってからは「通り魔」とか「大量殺人」というのが比較的頻繁に起こりました。
何も先例がないところから無差別大量殺人を行うのには相当の飛躍が必要だと思います。
しかし先例がある場合には、それは現実的な選択肢となりやすいのかもしれません。
この仮説の悲観的なところは、このプロセスが不可逆的なことです。つまり、いちど皆が知ってしまった選択肢を「なし」にすることはできない、ということです。
それまでは机上の想定でしかなかった「化学物質によるテロ」をオウムが実行してしまった以降は現実的な可能性として意識しなければならなくなったのと同じです。
ナイフを取り締まっても、歩行者天国をやめても、選択肢がなくならない以上は再発はありえます。
また、今回の加害者のような心理状態でなくても、別の心理状態を辿っても同様の選択肢を採る人間は出て来る可能性があります。
我々は、日常生活においても「ヒロシマ後」の世界にいるのかもしれません。