一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『だいにっほん、おんたこめいわく史』

2008-06-18 | 乱読日記
笙野頼子の本は初めて読んだのですが、とにかく怒っています。

自分の作品や作家としての自分に対する攻撃を受けてきた中から、そもそも「売れる」ということを基準に「『近代文学』と称せられたアニメのノベライズ作品」しか認めなくなっている「文学界」や出版業界、ひいては世の中全体が「おんたこ」化している、ということを書こうとしています。

「おんたこ」というのはひとことで言うと(そういう行為自体が作者に怒られそうなのですが)、多数で加害者でありながら少数者で被害者であることを自らの正当性の根拠にするような、主張に一貫性がなくその場その場でころころ変わる今の世の中に支配的な風潮(なりそれに毒された人々)を指しているようです。

場当たりで無反省なだけに融通無碍でたちの悪い「おんたこ」を描くために、それより大きな網をかけようとするかのごとく、作者は言葉を縦横無尽(それにとどまらず上下・奥手前・過去未来も無尽)に操ります。

斎藤美奈子が朝日新聞にこの本と桐野夏生の「東京島」について「大きな物語の復権」というような書評を書いていたのですが、(桐野夏生はそうかもしれませんが)この本は「大きな物語」というヘーゲル的な構えの大きさでなくデリダ的な運動の中で紡がれた物語、という感じがします。
(こういう書き方をすると、本書に出てくる「出里田誤用之介」と揶揄されてしまいますのでご注意を(笑))


書いてあることをきちんと一言一句理解しようとすると(笙野頼子ファン以外は)途中で挫折する可能性が高いと思いますので、「まあ、だいたいこんなことを言いたいのかな」ということがわかるくらいでいいぐらいのスタンスが、読み手の精神安定にとってもいいのではないかと思います。






コメント
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