フルートおじさんの八ヶ岳日記

美しい雑木林の四季、人々との交流、いびつなフルートの音

ゴーシュがいない

2009-11-05 | 濫読

梅津時比古「音の言葉のソナタ」より。

宮沢賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」を読みくだいて、今の音楽界は「ゴーシュがいない」と警告を発している。

いつまで経っても上手くならないセロ弾きのゴーシュは演奏会の当日、誰もが目を見張る良い演奏をした。ゴーシュが行っていたのは毎夜の猫やカッコウとの対話だった。ゴーシュが動物達との交流によって得た世界がセロの音を変えたのだろう。

ゴーシュがいる楽団の長はゴーシュに、テクニックの上達と表情づけの二点を厳しく注意し、「いかに弾くべきか」を求めていたのである。

ところが、ゴーシュが練習の中で見出したと思われるのは、「いかに弾くべきか」ではなく、「音楽の何を捉えて弾くべきか」である。ゴーシュにとって、その答えの一つが、自然との交流であったのであろう。

「『いかに弾くべきか』を追求してきた現代の音楽界は、歴史上かつてなかったような高性能な演奏家の集団をつくりあげた。なんでもいかようにでも弾いてしまう驚くべき演奏水準に達しているが『何を弾くべきか』という問いは忘れ去られてきている。」

もちろん、私のフルートは、「どう弾くか」のレベルにすら達していないが、たまには、曲が求めている音とは何か、と言うことも考えてみたいと思った。