宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」が気になったので、読んでみた。音楽評論家梅津時比古が「音の言葉のソナタ」で、「セロ弾きのゴーシュ」を読みくだいて、今の音楽界は「テクニック」に溺れてしまって「音楽の何を捉えて弾くべきか」が忘れられていると警告を発していた。そのことが気になり、色々考えてみた。
原作の「セロ弾きのゴーシュ」では、毎夜、ゴーシュが演奏会へ向けチェロの練習をしている時に猫や、ネズミなどが来て、色々話をする。演奏会当日、これまでとは全く違ったすばらしい演奏をする、客席からアンコールが求められて、ゴーシュが必死になってアンコール演奏し、これもすばらしいものだった、というのがあらすじだ。
問題は、ではゴーシュは「音楽の何を捉えたのか」と問うと、原文では全くかかれていない。ゴーシュが音楽を自分のものとして意識化しておらず、読み取れるのは、毎夜の動物達との交流により、ゴーシュが無意識のうちに、音楽の真髄を体得したかのようになっている。
梅津時比古が「テクニックに走らずに、音楽を捉えるべきだ」と語ったとき、では、どうすれば、それが可能なのか、あるいはそれを体現した演奏は、例えばどんな演奏なのか、を明らかにしないまま、単に警告を発しているだけだとしたら、評論家はやはり評論家に過ぎないと言うことになる。音楽の心と言うか真髄というか、それを捉えて演奏すると言うのは、どんな演奏者も、そうすべきだと思いながら、演奏しているのである。それが聴く人に伝わったかどうか、あるいは、聴く人も、それだけの耳があるのかどうか、が問われてくる。