青森県出身の中嶋幸治さんと十勝管内幕別町の國枝エミさんによる2人展。
中嶋さんは昨年もおなじ会場で個展を開いているが、國枝さんはCAIの卒業制作展をのぞくとこれが初めての発表のようだ。
ふたりともCAI(現代芸術研究所)のスクールに学び、いまは札幌に住んでいる。
中嶋さんといえば、ちょっぴりくやしい思い出がある。
彼は、CAI02のオープン記念展に、札幌の地図をトレースした真っ白い平面作品を出していた。
現代アートの世界では、地図を使った作品というのはそれほどめずらしくもない。そのまま通り過ぎてしまった。
じつは、地図に印がついていて、その場所に、立体作品が置かれていたというのだ。
自分のうかつさにがっかりした。
上記の作品は、今展にも出品されている。
その場所とは、中央区の界川(さかいがわ)地区だったという。
界川といえば、temporary spaceがまだ円山北町にあったころに展開された、伝説的な催しである「界川游行」のことを思い出す(もちろん、筆者はリアルタイムで見たわけではないが)。
ただし、中嶋さんは、そのことを知らなかったし、temporary space主宰の中森さんの川へのこだわりも聞いていなかったというから、偶然とはおもしろいものだと思う。
さて、今回の個展。
会場中央、透明な板に写真がプリントされて、壁から突き出るかたちに並んでいる。その数、ざっと140枚。
いずれも中央に丸い穴があいている。
昨年12月30日、札幌からふるさとに帰省する2人が、その帰路の途次に撮った写真。10分おきに、ファインダーをのぞかず胸の位置にカメラをかまえてシャッターを押したというあたり、コンセプチュアルな仕掛けが好きな中嶋さんらしいといえるのかもしれないし、あるいは、狙ってレンズを向けるよりも機械的に撮った方が「ロードムーヴィーっぽくなる」と考えたのかもしれない。
スキャンして透明なフィルムにはり付けるのであれば、最初からデジタルカメラで撮ればいいのに-と思うのだが、あえてコダックの24枚撮りフィルムを買うあたりも、なにかこだわりがあるのだろうか。
なお、十勝よりは青森県のほうが遠いので、必然的に中嶋さんの撮った写真のほうが枚数が多い。
「モーラ」とは、「拍」の意味だという。
10分おきにシャッターを押すという行為は、たしかに音楽の拍に似ている。
あるいは、日常生活の。
会場でくばられている紙に、こうあった。
この作品の端の壁に取り付けられていた巣箱状の立体が、界川にひっそりと置かれていたものだそうだ。
このインスタレーションのほか、冒頭画像左側にあるのは、ふたりの名前を差出人のところに書いた封筒を積み上げたもの。
こちらは6000枚もあるそうだ。
反復する日常生活というものの、暗喩になっているのだろう。
点描画、線画といわれているものは、サイズは小さく、非常に細かい模様が画面を覆い尽くしている。
国土地理院の地図が透けて見える作品もあった。
地図は、お互いの故郷の範囲を含むものだった。
大都会、故郷。
夢、日常…。
いろんな「生の断片」がぐるぐると筆者の脳裡を巡って、うまくことばにすることができない。
今回の展覧会も、そういったものがない交ぜになったひとつの結果なのかもしれない。
それらはもとより、うまくことばにすることができないものなのかもしれない。
でも、日常は訪れ、確実にまわっていく。
だとしたら、それをすこしでも豊かにしていくしか、わたしたちには道はないだろう。
アートはすごく非日常的な営みに見えるけれど、じつは、日常と背中合わせのところに、ポンと在るものなのではないだろうか。
2008年11月18日(火)-30日(日)11:00-19:00、月曜休み
temporary space(北区北16西5 地図H)
・地下鉄南北線「北18条」駅から徒歩5分
・中央バス、ジェイアール北海道バス「北18西5」から徒歩3、4分(札幌駅北口発の「屯田線」のほか、小樽行き都市間高速バスの北大経由便でも可)
■中嶋幸治展「Dam of wind,for the return」 (2007年)
中嶋さんは昨年もおなじ会場で個展を開いているが、國枝さんはCAIの卒業制作展をのぞくとこれが初めての発表のようだ。
ふたりともCAI(現代芸術研究所)のスクールに学び、いまは札幌に住んでいる。
中嶋さんといえば、ちょっぴりくやしい思い出がある。
彼は、CAI02のオープン記念展に、札幌の地図をトレースした真っ白い平面作品を出していた。
現代アートの世界では、地図を使った作品というのはそれほどめずらしくもない。そのまま通り過ぎてしまった。
じつは、地図に印がついていて、その場所に、立体作品が置かれていたというのだ。
自分のうかつさにがっかりした。
上記の作品は、今展にも出品されている。
その場所とは、中央区の界川(さかいがわ)地区だったという。
界川といえば、temporary spaceがまだ円山北町にあったころに展開された、伝説的な催しである「界川游行」のことを思い出す(もちろん、筆者はリアルタイムで見たわけではないが)。
ただし、中嶋さんは、そのことを知らなかったし、temporary space主宰の中森さんの川へのこだわりも聞いていなかったというから、偶然とはおもしろいものだと思う。
さて、今回の個展。
会場中央、透明な板に写真がプリントされて、壁から突き出るかたちに並んでいる。その数、ざっと140枚。
いずれも中央に丸い穴があいている。
昨年12月30日、札幌からふるさとに帰省する2人が、その帰路の途次に撮った写真。10分おきに、ファインダーをのぞかず胸の位置にカメラをかまえてシャッターを押したというあたり、コンセプチュアルな仕掛けが好きな中嶋さんらしいといえるのかもしれないし、あるいは、狙ってレンズを向けるよりも機械的に撮った方が「ロードムーヴィーっぽくなる」と考えたのかもしれない。
スキャンして透明なフィルムにはり付けるのであれば、最初からデジタルカメラで撮ればいいのに-と思うのだが、あえてコダックの24枚撮りフィルムを買うあたりも、なにかこだわりがあるのだろうか。
なお、十勝よりは青森県のほうが遠いので、必然的に中嶋さんの撮った写真のほうが枚数が多い。
「モーラ」とは、「拍」の意味だという。
10分おきにシャッターを押すという行為は、たしかに音楽の拍に似ている。
あるいは、日常生活の。
会場でくばられている紙に、こうあった。
一定の制限を用いた中で反復し合う行為は、私達の日常生活の何気ない時間の流れとも共通する部分があるように感じ、、また私達が普段描く点描画(國枝エミ)と線画(中嶋幸治)にも同様な気付きを覚えました。そして、体験した時間、行為、移動、想いを容にし(原文ママ)、現在という視線で再度見つめることによって開かれる、発見し得る未来があるのだと、今展「モーラ」を通して私達は思うのです。
この作品の端の壁に取り付けられていた巣箱状の立体が、界川にひっそりと置かれていたものだそうだ。
このインスタレーションのほか、冒頭画像左側にあるのは、ふたりの名前を差出人のところに書いた封筒を積み上げたもの。
こちらは6000枚もあるそうだ。
反復する日常生活というものの、暗喩になっているのだろう。
点描画、線画といわれているものは、サイズは小さく、非常に細かい模様が画面を覆い尽くしている。
国土地理院の地図が透けて見える作品もあった。
地図は、お互いの故郷の範囲を含むものだった。
大都会、故郷。
夢、日常…。
いろんな「生の断片」がぐるぐると筆者の脳裡を巡って、うまくことばにすることができない。
今回の展覧会も、そういったものがない交ぜになったひとつの結果なのかもしれない。
それらはもとより、うまくことばにすることができないものなのかもしれない。
でも、日常は訪れ、確実にまわっていく。
だとしたら、それをすこしでも豊かにしていくしか、わたしたちには道はないだろう。
アートはすごく非日常的な営みに見えるけれど、じつは、日常と背中合わせのところに、ポンと在るものなのではないだろうか。
2008年11月18日(火)-30日(日)11:00-19:00、月曜休み
temporary space(北区北16西5 地図H)
・地下鉄南北線「北18条」駅から徒歩5分
・中央バス、ジェイアール北海道バス「北18西5」から徒歩3、4分(札幌駅北口発の「屯田線」のほか、小樽行き都市間高速バスの北大経由便でも可)
■中嶋幸治展「Dam of wind,for the return」 (2007年)
後半の方は、自分でもどうもうまく文章になっていないような気がするのですが、意がすこしは伝わったとしたら、わたしでもうれしいです。
また、展覧会という形式でなくても、なにかの機会があれば、お知らせくだされば幸いです。
はじめまして、なかじまです。昨年の個展でもお会い出来ず、にもかかわらずご紹介いただいてありがとうございました。こちらのブログでご紹介されているのを人伝に聞きました。
原文ママですが、何か含みのある文章に見えたのであえてお聞きしました。「容にする」というのは昔から好きで使っています。表現する、形にする、作品をつくる、という言葉は好きではありません。「容を正す」という使い方から察して頂ければ嬉しいです。
それと、使用カメラですが、特にアナログにこだわりがあるわけではありませんよ。デジタルという選択肢が最初からありませんでしたし(時代遅れ?)、透明板に転写して仕上げるという発想もありませんでした。
・・・常々感じている事を後半に書いて下さっている気がして嬉しいおもいです。ありがとうございます。
なかなか興味深い展覧会でした。
で、「原文ママ」の件ですが、「想いを容にし」というのが、なんなのかわからなかったからです。
職業柄?つい、日本語にやかましくなってしまう点はご容赦を願います。
髪に描かれていた文章に(原文ママ)と書き加えたのはどういった意図なのかお聞かせ下されば幸いです。