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(いつものことですが、以下につづるのは、個人的な感想文です)
筆者のような素人みたいな美術愛好者には、抽象画というのはむつかしいものだ。
森村泰昌氏は「抽象画がわからない人は、ネクタイの柄選びだと思えばいい」という意味のことを言っていた。
名言だと思う。
基本的に、絵画は、現実の反映ではないからだ。
その「現実の反映ではない」ことが、おそらく、「抽象画は難しい」という先入観のもとになっているのだろう。
音楽を聴いて「このドラムソロ、かっこいい」と感じる人が、絵画を見て「この曲線、かっこいい」と普通に思えなかったりするということは、よく考えると、おかしなことであるんだけど。
もっとも、あれこれ見ていくうちに、当初思っていたほど、抽象画は、現実の世界と切り離されて存在しているわけでもないこともしだいにわかってきた。
抽象絵画の創始者のひとりとされるモンドリアンは、初期の絵は、水平線や桟橋の簡略化であるし、晩年の作品が、当時世界最大の都市ニューヨークの喧噪や車列、ネオンサインを表現しているものだということは、否定しようがない。また、やはり抽象絵画の創始者のひとりであるカンディンスキーの絵も、聖書のモティーフがあったり、いろいろな意味で、現実のしっぽを引きずっている。
とはいえ、写真登場以後の絵画は、現実の単なる反映ではなく、絵画として自立することを運命づけられている。
そして、どんどん変化していく現実世界と異なり、絵画の造形言語で語られる世界を志向することは、思いの外、narrow path (狭い道)を行くことを、余儀なくされるだろう。
トオンカフェで、アイスコーヒーを飲みながら、展覧会の案内フライヤーの整理をしていたとき、CAI02での笠見康大さんの個展が、13日限りであることに気づき、ふたたび地下鉄南北線に乗って大通に戻った。
笠見さんの絵は、いま言ったような narrow path を果敢に通り抜けようとする絵である。
そこには、現実世界にある「何か」を指し示すものはなくて、線や色、タッチ(筆触)、レイヤー(層)といった、絵画の造形言語の範疇に入る属性のみが、その画面で、展開され、躍動している。それと、ひとつひとつ向き合うことが、絵画を見ることの愉楽であると、作品自体が語っているかのように。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/ce/be1bcf16e080952fd7e36008d516fce1.jpg)
伏木田さんは抽象画を描かない。
世代的には、戦後の画壇を吹き荒れたアンフォルメル旋風の直撃を受けてもおかしくはないのだが、油絵はどれも、人物や静物、風景が描かれる。
もちろん、現実の単なる反映ではない。そこには、ふるえるみずみずしいタッチがある。
ただし、見ている人は、もちろんかたちや色やタッチを鑑賞しているのではあるけれど、そのタッチの清新さを裏打ちし、保証し、担保しているのは、モティーフになっているものや人の「存在」なんじゃないだろうか。
伏木田さんの筆が、「世界」を前にしていることの感動でふるえる。
しかしそのとき、おそらく、モデルになっている裸婦も、卓上に置かれている卵やコーヒーミルやアイロンも、同時に、ふるえているのではないか。
さて、笠見さんの線が躍るとき、では同時に、「世界」のなかで、なにが躍っているのだろう。
そんなことを、ぼんやりと考えていた。
2013年8月23日(金)~9月13日(土)午後1~11時、日曜祝日休み
CAI02 札幌市中央区大通西5 昭和ビル地下2階
※屋上に「コニカミノルタ」の看板があるビル。地下鉄東西線「大通」駅コンコースの西端から行けます
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