まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

曼珠沙華 恥ずかしいほどの 赤である

2019年09月22日 | 時にはぼぉっ~とする時

 さぬき市地方は、前線や台風第17号の影響で断続的に雨や雷雨となっており、非常に激しく降っている所があった。気温は23度から27度、湿度は92%から82%、風は4mから6mの東の風が少しばかり。明日の23日の香川県は、台風第17号や湿った空気の影響で曇り、雨や雷雨の所があるらしい。

 

 111/51/71 36.4c-96% 64.8Kg 1012hPa,28c,84% 昨夜は少しばかり飲み過ぎたのかも知れない。朝から身体が重たくて頭痛までするような気分。

 

 今日はさぬき市前山で、「おへんろ交流サロン開館20周年記念セレモニー」が行われる日で、駐車場誘導係を頼まれていたのだが、こんな雨では駐車場係なんかできるものかと諦めた。そのことに関して誰からも連絡は無い。

 

 さて、昨夜は町内にある「みろく自然公園内」でのバーベキュー親睦会が行われた。民児協大川のお別れ会みたいなものである。で、20人ほどが三台のテーブルを借りての宴となった。

 

 こちらは女性陣。お肉がたっぷりだ。右端のおじさんが会長さん。

 

 こちらがセンターで、市役所の方がおられた席。この左のおじさんは調理師さんで焼きそばが得意。

 

 こちらが私たちの席だが、奥の二人が市役所の方。「自分が死んだ後、私自身はどこに行くのか」とか、「毎日がむなしくて仕方が無い」なんぞの終活談義。右端の方は「無神論・無仏論」の画伯さん。「死んでしまったらおしまいやで」などと。左手手前の方は「神主さん」それにお坊さんの私がいる。

 

 週末の土曜日の夜ともあって、10台ほどあるBBQ台は満席状態。それにバンガローに泊まる若い家族もあったし。けっこう、ここは人気なんだ。

 

 もしもし、もう70歳近いのに、今頃になって、「私の人生は何なんだろうか」とか「私が死んだら、私は犬や猫になるのだろうか」とかと悩む世代でもあるまいに。

 

 みんな、悩んで大きくなってきた筈なのに、今頃になって、そんな悩みを抱いているなんて・・・。もう、人生はおしまいに近い年代でっせ。

 

 これが今年の香川県の赤い羽根共同募金の記念章。やはり、讃岐だけに「うどん」は欠かせないらしい。

 

 激しく降ったり止んだりを繰り返していたが、夕方になると静かになってきて、川を流れる水音も落ち着いてきた。

 

 今日の掲示板はこれ。「仏とは本当の人に成ること」というもの。仏さまになるとは、私の思いを超えた大きな命のはたらきの中に生かされている私の本当の姿があきらかになり、老病死という苦悩の原因がはっきり自覚されて生きる者になることである。もともと私という存在はなく(無我)、いろいろなご縁が集まって私が存在している事実(縁起の教え)に目覚めさせていただくと、〝私が私が〟と、我(が)に執着して苦しむ自分の姿に気づかされる。若さに執着するから老いの苦しみが始まり、健康に執着して病気を忌(い)み嫌い、生きることに執着するあまり、死をタブー化してしまいがち。しかし、私の苦しみは老病死という事実ではなく、若さ・健康・生に執着することにより生じるのである。私たちは、私のお金、私の家族、私の命と思っていますが、よく考えてみると私のお金、家族、命というより、ご縁によって一時的に私のものになっているにすぎないだけのこと。だからご縁がなくなれば私から離れて行ってしまうもの。私の命と思っているけれど、私の思いとは無関係に心臓が動き続け、呼吸しているのが事実。私の命というなら心臓の動き、呼吸を自由にできるはず。例えば生きることに絶望して、死んでしまおうかと思いつめた時、自分で心臓の動きを止めることができるだろうか? そんなことは不可能なこと。私のいのちは私のものではないということだ。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。


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