松岡冷水地区は、湯沢市役所の南西約8kmのところ
国道13号線を南へ、千石町一丁目信号を右(西)へ、県道278号湯沢雄勝線です
奥羽本線を陸橋で越え、国道13号湯沢横手道路の高架を過ぎ中川原橋で雄物川左岸へ渡り
大戸川に沿って南西へと進みます、山が近くなっての支流の切畑川の谷へ
松岡集落に入って道路が狭くなります、集落を抜けた道路右手に清水が有ります
道路脇に広い
駐車スペースが有ります

切畑阿黒王名水です

美味しい水が出ています

竣工記念碑です
切畑阿黒王名水
昭和36年、切畑簡易水道組合を結成し設備工事後給水を始める。
しかし時代の経過とともに給水量が増えたため、平成3年、切畑第二貯水曹を築造して給水してきた。
農業集落排水事業が全集落で実施されるに至り、平成18年松岡地区農業集落排水事業が実施され、平成24年3月末で、切畑水道組合やおり、湯沢市水道へ移行するにいたり、長年に亘り給水してきた水源を切畑阿黒王名水として伝承する事とし設置に至った。
平成24年11月15日

観光案内板です、阿黒王大杉まで800mとなっていますが・・・

切畑阿黒王名水から700m、県道脇に案内板が出ています

ここから切畑川の沢水の中を越えて林道を進みます

急な林道を約500m登って来ました、左側の山の斜面に大きな樹幹が見えて来ました

太い幹が見えて来ました

保存樹標識があります

ここから大杉へいけるようです

根元は見えません


近づけそうにありません


北西側から見上げました
阿黒王名水のところの案内板には、樹齢800年以上「大人4人でかかえる太さ」となっていましたので、目通り幹囲6m程になるようです
*阿黒王(あくろおう)とは、平城天皇の御代である大同年間(806~810年)、東北地方で蝦夷征討にあたっていた坂上田村麻呂が、陸奥国の達谷窟を根城としていた阿黒王を攻め立てると、阿黒王は手下を引き連れて出羽国雄勝郡の山中の岩窟に逃れていった。田村麻呂は阿黒王を追って行き、当地に武人・須佐男命を祀って戦勝祈願し、この後に岩窟に攻め入って阿黒王を討ち取った。
阿黒王の潜んだ岩窟は霧深い場所だったが、田村麻呂が阿黒王の旗を切ると霧が晴れたので この地は「切畑」と呼ばれるようになり、阿黒王を討ち取った場所は「宇津野」という地名が付いた。また、阿黒王の逃れた岩窟は「阿黒岩」と呼ばれるようになり、この阿黒岩と繋がっていた集落には阿黒王が棲んでいたとされる「岩井戸」という場所があるという。
(以上ネットの珍奇ブログ珍奇ノートの記事より抜粋させていただきました)
*阿黒王の砦とされる「達谷窟」は、鎌倉時代の「吾妻鏡」には現在の岩手県平泉とされています
では、次へ行きましょう
国道13号線を南へ、千石町一丁目信号を右(西)へ、県道278号湯沢雄勝線です
奥羽本線を陸橋で越え、国道13号湯沢横手道路の高架を過ぎ中川原橋で雄物川左岸へ渡り
大戸川に沿って南西へと進みます、山が近くなっての支流の切畑川の谷へ
松岡集落に入って道路が狭くなります、集落を抜けた道路右手に清水が有ります
道路脇に広い


切畑阿黒王名水です


美味しい水が出ています


竣工記念碑です
切畑阿黒王名水
昭和36年、切畑簡易水道組合を結成し設備工事後給水を始める。
しかし時代の経過とともに給水量が増えたため、平成3年、切畑第二貯水曹を築造して給水してきた。
農業集落排水事業が全集落で実施されるに至り、平成18年松岡地区農業集落排水事業が実施され、平成24年3月末で、切畑水道組合やおり、湯沢市水道へ移行するにいたり、長年に亘り給水してきた水源を切畑阿黒王名水として伝承する事とし設置に至った。
平成24年11月15日

観光案内板です、阿黒王大杉まで800mとなっていますが・・・


切畑阿黒王名水から700m、県道脇に案内板が出ています


ここから切畑川の沢水の中を越えて林道を進みます


急な林道を約500m登って来ました、左側の山の斜面に大きな樹幹が見えて来ました


太い幹が見えて来ました


保存樹標識があります


ここから大杉へいけるようです


根元は見えません



近づけそうにありません



北西側から見上げました

阿黒王名水のところの案内板には、樹齢800年以上「大人4人でかかえる太さ」となっていましたので、目通り幹囲6m程になるようです

*阿黒王(あくろおう)とは、平城天皇の御代である大同年間(806~810年)、東北地方で蝦夷征討にあたっていた坂上田村麻呂が、陸奥国の達谷窟を根城としていた阿黒王を攻め立てると、阿黒王は手下を引き連れて出羽国雄勝郡の山中の岩窟に逃れていった。田村麻呂は阿黒王を追って行き、当地に武人・須佐男命を祀って戦勝祈願し、この後に岩窟に攻め入って阿黒王を討ち取った。
阿黒王の潜んだ岩窟は霧深い場所だったが、田村麻呂が阿黒王の旗を切ると霧が晴れたので この地は「切畑」と呼ばれるようになり、阿黒王を討ち取った場所は「宇津野」という地名が付いた。また、阿黒王の逃れた岩窟は「阿黒岩」と呼ばれるようになり、この阿黒岩と繋がっていた集落には阿黒王が棲んでいたとされる「岩井戸」という場所があるという。
(以上ネットの珍奇ブログ珍奇ノートの記事より抜粋させていただきました)
*阿黒王の砦とされる「達谷窟」は、鎌倉時代の「吾妻鏡」には現在の岩手県平泉とされています
では、次へ行きましょう


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