あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

グラタン

2011-09-30 | 日記
「ねえねえ、今日の晩御飯は何?」
学校の帰りに娘が聞いた。
「今日はグラタン」
「イェス」
そして小さなガッツポーズ。
日本語なら「よっしゃ」とか「やった」という感じか。
最近はうれしいことがあるとこれをやる。

今日のメニューは鶏肉とエビのグラタン。
鶏肉は買い置きのひき肉、そこにエビを少し入れると風味が増す。
エビの尻尾は小さく刻んでニワトリの餌に。
たまねぎ、ニンジンを小さく切り、グリーンピースを一緒に炒める。
茹でたマカロニを入れ、全体をホワイトソースで混ぜる。
ホワイトソースは電子レンジで作るやり方もあるが、ボクは鍋で作る。
鍋にバターを溶かし小麦粉を混ぜ牛乳でのばす。手間は多少かかるが、この作業は嫌いではない。
そこに風味でローリエを入れる。
庭の月桂樹も春になり新芽が出てきた。そのうちに煮込み料理も庭の月桂樹の葉っぱで作れるようになるだろう。

庭でシルバービートの葉っぱを取る。
シルバービートも春になり、どんどん育ってきた。そのうち食べきれないぐらいにできるだろう。そしたら野菜好きな人に分けてあげよう。
大地からの物はみんなで分け合う。
先日ある人とシルバービートのことで話をした。
シルバービートを茹でるとアクで茹で汁が真っ黒になると。
ボクも市販のシルバービートを買った時にはアク抜きをした覚えがある。
シルバービートはアクの強い野菜、というイメージがあったが自分で作り始めてそのイメージが消えた。
我が家のシルバービートはアクが強くない。
娘はわりと好き嫌いが多いのだが、その娘もシルバービートは喜んで食べる。
バター炒めなど作るとあっというまにザル一杯分のシルバービートがなくなる。
味噌汁に良し、おひたしに良し、胡麻和えも良し、茎の白い部分は刻んでミートソースにも入れる。
鉄分も豊富で健康的だ。しかも強い野菜で、雑草に埋もれながらも育つ。良いことずくめではないか。
ともあれ子供が好き、というのがシルバービートが庭で一番多い理由だ。
なぜか分からないが、気のせいか家のシルバービートはアクがない。
それはきっと『気』のせいなんだろう。

どっさり取ったシルバービートも熱を加えれば小さくなってしまう。
水分を絞り、適当な大きさに切り、グラタン皿の底に敷く。
そこにグラタンを入れ、その上にトマトの薄切りを並べ、チーズをふりかけオーブンで焼く。
待つこと十数分、チーズにうっすら焦げ目がついたら出来上がり。
そうだ!上にパセリなんか散らしちゃおう。
庭へ行きパセリをちょいちょいとつまみ、刻んでのせる。
パセリは日当たりがあまり良くない場所で育つ。
家のパセリは毎年花を咲かせ、種を落とし好きなところで育っている。
思いついたときにハーブを取ってきて料理に入れる。ただそれだけのことがうれしい。

厚手のまな板の上にグラタン皿を載せ、そこから小分けして、いただきます。
最近はいただきます、の時に自然に手が合わさるようになった。
こういうことは心の奥から自然にでてくるものなのだ。そして子供にその姿を見せることが教育だ。
グラタンの底のシルバービートはホワイトソースと混ざり良い具合に焼きあがっている。
庭の野菜に感謝である。
味付けは塩と胡椒のみ。
我が家の塩はブレナムの塩田でできた天然塩。
海水のミネラルたっぷり、それに太陽の光をたっぷり浴びて出来た塩だ。
数字には表れないかもしれないが、太陽の光、エネルギーというものが塩の中に入っている気がする。
これも気のせいか?いやいや、やっぱり『気』のせいなのだ。
その塩の味は複雑で、しょっぱさの中にかすかな甘みさえある。
塩だけ舐めるとどことなく懐かしい味がするというのは、生命の生まれた海の味だからか。
それが自分の中にある命の根源というものを刺激するのだ。
塩というものは基本の調味料である。
これが不味ければ、旨いものは出来ない。逆に旨い塩なら、それだけでも旨いものができる。
素材の旨さを引き出す、という和食の真髄も、旨い塩があればこそだ。
塩とは古来、人間の生活とは切っては切れない物である。
人間の体には絶対に必要な物であるが、取りすぎは毒にもなる。薬と毒は紙一重だ。
新潟には塩の道なんてルートもあるし、お清めにも塩を使う。相撲取りも塩をまく。
そんな塩で作ったホワイトソースが不味いわけがない。
牛乳の香り、塩のしょっぱさ、野菜の甘み、鳥とエビのコク、コショウの辛さ、それらがグラタン皿の中で混ざり合う。
うむ、われながら良い出来だ。

「深雪、ほら、このチーズがカリット焼けたのとトマトが焼きあがった酸味が合わさって旨いぞ」
「みーちゃん、美味しいのは最後に取っておくの」
「まあまあ、そんな事言わずに、もうひとつトマトの所をあげるから食いねえや」
ボクは大皿からトマトのところを深雪の皿に移した。
「ん~、美味しい!」
子供がジャンクフードではなく本物の美味しさで喜ぶ姿はこの世の宝だ。
だからボクは他所の子供が納豆が好きとか卵が好きと聞くと、どんどんあげてしまう。
自分の子供さえ良ければいいということではない。
子供は自分だけのものではない。地球の財産なのだ。
自分にできることは限りがあるが、できるだけ多くの子供を健全な食を通して幸せにしたい。
ボクが作った物を食べて子供が喜ぶ、という話を聞くだけでボクは嬉しい。
同時に今、この瞬間も地球の反対側では子供達が食べるものがなくて死んでいる。
僕達の生は、そういった数多くの死の上に成り立っている。
さればこそ目の前にあるご馳走に感謝をしながら、美味しい美味しいといただくのだ。
それが全てのものに対する供養ということだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする