2004年、僕達一家はハグレーパークから歩いて5分、アディントンというあまりガラの良くない、だが古くからこの街の一部である一角に住んでいた。
家は古かったけれどこじんまりとして住み心地は良く、まあまあ気に入っていた。
その昔、刑務所があった地域は今では開発が進み、新しいオフィスビルや店舗が立ち並ぶ。
刑務所として使っていた建物も今ではバックパッカーとして営業をしている。建物を囲んでいた高い壁もところどころ残っている。
裏道へ入ると今でも古い家が立ち並ぶ、街の中のランクで言えば中の下ぐらいの地域である。
2004年の冬に、たっちゃん(本名は辰明というらしいが)が生まれたのだが、この話の直後、たっちゃんが消されそうになっていた。
ボクはあわててカメラを取りに家に走り、たっちゃんの所へもどった。
タトゥー屋のオーナーと話を交わす。
「この絵は20年前のオレさ。オレも年をとったから描き変えようと思ってな」
実はあなたはたっちゃんで本名は辰明で岐阜の美濃の出身でワーホリでNZに来てタトゥー屋になったんですよ、などと言えるわけがない。
消してしまう前に記念にと写真を撮らせてもらった。
ちなみにこれと同じタッチの絵は街のあちこちにあり、それは若い溶接工だったり、白衣を着た薬剤師だったり、花屋のおばさんだったりと様々だ。
たぶんお店の人の絵を看板代わりに描いてしまうという人が昔いたんだろう。
数日後、この壁に新生たっちゃんがあらわれた。
黒い服を着た40男がタトゥーガンを持ち「ぐふふふ」と笑い、そこに稲妻が落ちているという、前回以上に悪趣味、前回以上にガラの悪いたっちゃんがいた。
「あーあ、たっちゃんもこんな風になっちゃって、まあ。」
センスが悪く、悪趣味なのは今に始まったことではないが、もう少し何とかならないのかねえ、と思うぐらいの絵である。
ちなみに新生たっちゃんの絵は、前回とはタッチが全く違う今風の絵である。
ホームページの連続コラムの中のたっちゃんはと言うと、六話で中座したまま何年も経ってしまい、多分辰明がNZにワーホリでNZに来る、ということはもうないのかもしれない。
だがボクの中ではタトゥー屋の壁の人はたっちゃんなのであり、そこを通る度に心の中で挨拶をしていた。
そんな悪趣味たっちゃんも時が経つにつれ、この街の風景の一部としてそれなりに馴染み、常にそこに居続けた。
去年の9月、クライストチャーチを襲った地震でたっちゃんはダメージを受けたのだろう。
補強の板が張られ、たっちゃんの姿は隠されてしまった。
そして2月の地震でたっちゃんは致命的なダメージを受ける。
建物自体、取り壊しの運命となるのだ。
そしてつい最近、ガレキの山だったたっちゃんの跡地がきれいさっぱり片付けられていた。
メインストリートに面した角地は場所が良い。
すぐに新しい建物ができて、昔の面影はなくなることだろう。
だがボクは忘れない。
そこにたっちゃんが居たことを。
人間だろうが建物だろうが、形あるものはいつかはなくなる。
なくなるからこそ、いとおしいのだ。
なくなってみて、初めて人はその存在の意味を知る。
さればこそ、今そこにある物、今そこに居る人を敬い親しみ愛しむ。
一期一会とはそういうことだ。
今回、この話を書くにあたって二代目たっちゃんの写真を探したがどうしてもでてこない。
写真を撮った覚えもあり、女房とパソコンの中を探しまくったが見つからなかった。
二代目たっちゃんの趣味の悪さをみんなに見せられないのだけが心残りである。
さらばたっちゃん。
君はボクの心の中で生きる。
家は古かったけれどこじんまりとして住み心地は良く、まあまあ気に入っていた。
その昔、刑務所があった地域は今では開発が進み、新しいオフィスビルや店舗が立ち並ぶ。
刑務所として使っていた建物も今ではバックパッカーとして営業をしている。建物を囲んでいた高い壁もところどころ残っている。
裏道へ入ると今でも古い家が立ち並ぶ、街の中のランクで言えば中の下ぐらいの地域である。
2004年の冬に、たっちゃん(本名は辰明というらしいが)が生まれたのだが、この話の直後、たっちゃんが消されそうになっていた。
ボクはあわててカメラを取りに家に走り、たっちゃんの所へもどった。
タトゥー屋のオーナーと話を交わす。
「この絵は20年前のオレさ。オレも年をとったから描き変えようと思ってな」
実はあなたはたっちゃんで本名は辰明で岐阜の美濃の出身でワーホリでNZに来てタトゥー屋になったんですよ、などと言えるわけがない。
消してしまう前に記念にと写真を撮らせてもらった。
ちなみにこれと同じタッチの絵は街のあちこちにあり、それは若い溶接工だったり、白衣を着た薬剤師だったり、花屋のおばさんだったりと様々だ。
たぶんお店の人の絵を看板代わりに描いてしまうという人が昔いたんだろう。
数日後、この壁に新生たっちゃんがあらわれた。
黒い服を着た40男がタトゥーガンを持ち「ぐふふふ」と笑い、そこに稲妻が落ちているという、前回以上に悪趣味、前回以上にガラの悪いたっちゃんがいた。
「あーあ、たっちゃんもこんな風になっちゃって、まあ。」
センスが悪く、悪趣味なのは今に始まったことではないが、もう少し何とかならないのかねえ、と思うぐらいの絵である。
ちなみに新生たっちゃんの絵は、前回とはタッチが全く違う今風の絵である。
ホームページの連続コラムの中のたっちゃんはと言うと、六話で中座したまま何年も経ってしまい、多分辰明がNZにワーホリでNZに来る、ということはもうないのかもしれない。
だがボクの中ではタトゥー屋の壁の人はたっちゃんなのであり、そこを通る度に心の中で挨拶をしていた。
そんな悪趣味たっちゃんも時が経つにつれ、この街の風景の一部としてそれなりに馴染み、常にそこに居続けた。
去年の9月、クライストチャーチを襲った地震でたっちゃんはダメージを受けたのだろう。
補強の板が張られ、たっちゃんの姿は隠されてしまった。
そして2月の地震でたっちゃんは致命的なダメージを受ける。
建物自体、取り壊しの運命となるのだ。
そしてつい最近、ガレキの山だったたっちゃんの跡地がきれいさっぱり片付けられていた。
メインストリートに面した角地は場所が良い。
すぐに新しい建物ができて、昔の面影はなくなることだろう。
だがボクは忘れない。
そこにたっちゃんが居たことを。
人間だろうが建物だろうが、形あるものはいつかはなくなる。
なくなるからこそ、いとおしいのだ。
なくなってみて、初めて人はその存在の意味を知る。
さればこそ、今そこにある物、今そこに居る人を敬い親しみ愛しむ。
一期一会とはそういうことだ。
今回、この話を書くにあたって二代目たっちゃんの写真を探したがどうしてもでてこない。
写真を撮った覚えもあり、女房とパソコンの中を探しまくったが見つからなかった。
二代目たっちゃんの趣味の悪さをみんなに見せられないのだけが心残りである。
さらばたっちゃん。
君はボクの心の中で生きる。