05/12/5海保博之
7章 大学で教える p11
7.1 大学で教えて40年
●授業遍歴
7.2 講義をする
●講義はしんどい
●内容と方法と熱意
●授業の技術
●熱意
7.3 授業を評価する
●授業評価花盛り
●授業評価をしてもらってわかったこと
●教員管理用の授業評価は危険
●生徒の反応を絶えずモニターする
7.4 演習と実習で鍛える
●演習で発想力とプレゼン力と討論力を鍛える
7.5 大学生の学習状況
●大学に入ると大学生の学習習慣が激変する
●学習への動機づけの低さ
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7章 大学で教える p11
7.1 大学で教えて40年
●授業遍歴
25歳で大学に助手として就職してこれまで40年弱、2つの国立大学で教えてきた。
最初は徳島大学教育学部。もっぱら心理統計や研究法と演習が中心であった。こうした技術的な内容の講義は内容が決まっているので比較的楽に出来るが、わかりやすく説明しないとまったく学生は理解できないので、その点にはいろいろ苦労した。その成果が後に、筆者のはじめての本「心理教育のためのデータ解析10講」として上梓された。
筑波大学に移ってからは、教職の教育心理学から始まって、認知心理学の講義をしたり、演習をしたりした。とりわけ、最初の3年間は開学当初で人手不足もあり、同じ内容の教職の教育心理学を1週間に4コマしたこともある。
ここではじめて、大学「教育」について開眼した。大型授業の受講生管理の技術を身につけた。今はやりの授業評価も実践してみた。視聴覚機器の活用もしてみた。コンピュータを活用した試験システムも開発してみた。そのいくつかは、後に紹介してみる。
●大学の授業
大学の先生は、年がら年中、教室で授業をしているわけではない。授業コマ数は、大学院も含めてだいたい週に5コマ程度が標準になっている。
その内訳は、筆者の場合、年によって違うが、だいたい2コマが講義、2コマが演習、1コマが実習(卒論指導も含む)といったところである。
受講生の数は条件によってさまざまである。筆者の昨年の授業を例にとれば、講義は人数が80名のが一つ、総合科目(年3回)は300名程度。演習は、学部(学類)が4名、大学院が5名(修士)、6名(博士)、実習は60名くらいだが、実習は、技官や大学院生が助けてくれる。
これに加えて大事な教育上の仕事として、論文指導がある。指導学生が多いと、かなりの時間をさくことになる。筆者の場合は、今年は卒論、修論各1名だけなので楽をさせてもらっている。多いときは博士論文の指導も含めて5名くらいになる年もある。
7.2 講義をする
●講義はしんどい
一番しんどいのは、学生にとっては実習、教師にとっては講義である。講義では、こちらがしゃべり続けなければ授業が成り立たない。したがって、しゃべる内容をあらかじめ用意しなければならない。これがしんどい。なお、実習は、学生が自分で時間をかけてあれこれやらなければ単位がもらえない。これもしんどいらしい。実習のレポートの締切が迫ると、演習のすっぽかしが起こるほどである。
さて、教師にとってしんどいほうの講義について、ここでは少し考えてみる。
教員になるための教職の授業のように、採用試験があるのである程度までは内容限定にならざるをえない授業は、3年くらいすると、話す内容もほぼ安定してくるので、あまり苦労しない。
ところが、自分の研究と直結している講義だと、どうしても欲が出て、新しいことを入れたくなったり、新しいテーマで話したくなる。これが楽しくもしんどい1年間になる。
講義でもう一つしんどいのは、人数の圧力である。
30人くらいまでだと、親密さを演出できる。学生と対話するような感じでの講義ができる。これが、50人を越えだすと不特定多数の奇妙な雰囲気が教室全体支配するようになってくる。学生に語りかけても無言、冗談を言っても無反応、試験情報だけは目を輝かせて聞くのである。私語こそないものの、これは講義する者にとってはかなりプレッシャーになる。
受講生が50人を越えると物理的なしんどさも格段に違う。出欠管理一つにしても、ちょっとしたミスが混乱を引き起こしてしまうことがある。たとえば、、署名式の名簿を回覧するルートがいつもと違ってしまったりすると、講義終了後にどっと学生が押し寄せてきてしまう。群衆の管理技術も必要になる。
●内容と方法と熱意
大学の授業に限らないが、吉田章宏氏によると、内容と方法と熱意の観点からみることができる。
図7・1 授業をみる3つの視点(吉田章宏「授業の心理学をめざして」国土社による)
義務教育では、内容は学習指導要領でかなり厳しく規定されている。もっとも、最近では、文部科学省は、これは最低基準に過ぎないと言うようになってきているが。
大学では、教える具体的な内容にはまったくといってよいほど制約がない。アカデミック・フリーダムの伝統があるからである。あるのは、その講義が置かれるカテゴリーによる緩い制約である。「教職の中の」教育心理学と「心理学の専門コースの中での」教育心理学とでは、授業のねらいが異なるので内容も異なるはずであるが、どう異なるかは担当教官によって異なる。
昔は、教員帝国主義で、誰がどんな授業をするかはまったく教員に任されていて外からはうかがい知ることができなかったが、最近では、シラバス(講義概要)作成が普及して、講義内容もかなりオープンになってきた。それとともに、カリキュラムの体系も少しずつ整備されてきた。
いずれにしても、自分の研究直結の内容の講義をするのが、教員にとっても学生にとっても一番好ましい。しかし、そんな講義だけで済ますことができるほど、いかに大学とは言え、甘くはない。
教養的な講義もしなくてならない。こういう時は、自分の専門から遠い内容の講義になる。当然、講義内容の勉強も必要になるが、さらに、こうした授業では、講義技術にも意を払わないと、授業が成り立たないことがある。
●授業の技術
授業を成り立たせている要素技術は多彩である。話術、発問応答、言葉かけ、板書、資料作りと呈示技術、視線配り、机間巡視などなど。
大学の大人数講義では、この中でとりわけ大事なのは、話術、
板書、資料作りと呈示技術の3つである。
困ったことに、大学教員は、こうした要素技術を学ぶ機会がないのである。大学教員になるまでは研究一本やり。教員になったら、教員帝国主義で誰も教え方の技術を教えてくれる人はない。それでは授業がうまくいく試しがない。
その反省から、ようやくFD(faculty development)と称して、教員の授業技術や次項でのべる評価技術を学ぶ機会が用意されるようになってきた。もともとうまく教えるたいとは思っていたわけであるから、FDで講義技術を身につけた教員がどんどん増えてくるはずである。そうなると、今度は学生の側がおちおちしていられなくなってくる。
●熱意
大学教員は研究論文の量と質でもっぱら評価される。講師から助教授、助教授から教授へと昇進するには、それぞれの段階で論文が5本くらいは必要である。それも査読された論文でないと高く評価されない。
したがって、どうしても授業より研究を優先することになる。悪いことではない。研究内容の貧弱化は、ひいては授業内容の貧弱化につながるからである。
しかし、この大義名分が、学会があれば授業は休講、わけのわからない休講も数知れず、アカデミックタイムと称して10分遅れの10分前切り上げ、試験はレポート一個で、といったずぼらな状況を横行させることになってしまっていたのが、少なくとも筆者の大学時代の授業であった。
それがここ10年前くらいから様変わりした。大学も、教育優先に大きく舵を切ったのである。文部科学省の行政施策による誘導が大きい。どの大学も競って教育に力を注ぎだしたのである。
教員も、昇進が研究重視でおこなわれるから研究、研究だったが、教育活動も昇進評価の対象になることがわかれば、もともと、学生に教えることが好きな人種なので、教育にも熱意を発揮する。とりわけ、年期の入った研究者は、年齢とともに研究力はどうしても低下してくる。ところが、膨大な知識の蓄積がある。それを若者に伝えたい気持ちは強い。
熱意なき講義は、内容がどれほど価値があり、また講義技術が卓越していても、学生を引きつけない。内容、技術、熱意が三位一体になってはじめてすばらしい講義になる。もっとも、コラムのようなケースもまれにはある。
コラム「価値のない内容を巧みに熱意をもって講義すると」***
アメリカでは、学生による評価の妥当性をめぐっての研究が盛んである。Dr. Fox(狐博士)効果は、そんななかから生まれた成果の一つである。
学生を相手に俳優を使って講義をさせる。ただし、その俳優にはあえて話の筋道はメチャクチャになるように、しかし、ユーモアやジェスチャーはたっぷりまじえて、おもしろおかしく講義するようにさせる。そして、講義が終わったら学生による授業評価をさせる。すると、学生の評価が全般的に高くなるのである。授業方法だけでなく、授業の内容までもが、すばらしいという評価をするというのであるから驚きである。
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7.3 授業を評価する
●授業評価花盛り
大学では今、教員の授業評価が花盛りである。アメリカの大学では、半世紀も前から実施されており、その心理学的な研究さえおこなわれてきている。
ざっとレビューをしてみるとつぎのようになる。
大別すると3つの研究領域がある。
第1は、評価システムの開発と、その妥当性(はかろうと意図したものが計られているか)、信頼性(もし同じ測定を何度もしたら、同じ結果が得られるか)の吟味に焦点を当てたものである。
評価の用具としては、もっぱら質問紙がもちいられているが、質問紙を構成する項目の選択、構造化をどのようにするか、さらに作成された質問紙が妥当性、信頼性を持つか、について、心理テストにおいて通常おこなわれる手順に従って吟味することが、主要な課題である。
第2の研究領域は、評価に影響する要因の査定、観点を変えれば、学生の評価メカニズムの解明に関するものである。
具体的には次のような要因をめぐっての研究、およびそれら複数要因間の総体的重みを決定しようとする研究がおこなわれている。
①授業形態による影響
受講している学生数や、選択か必須か、などによって、評価が変わるかが吟味される。
②授業方法による影響
内容のない授業を巧みな授業技術でおこなうことによって、学生を魅了するDr. Fox効果をめぐっての研究や、話し方、板書などの技術が評価を規定するか、が検討されている。
③成績認定の基準による影響
ゆるい基準は、果して好ましい評価をもたらすか、がもっぱらの関心である。
④教師―学生関係による影響
教師の考え方、性格、学生に対する態度と、学生のそれとがどのように交互作用して評価に影響するかが問題とされる。
第3には、学生による授業評価のもつ意義、役割にまつわる研究で、次のようなことが問題とされている。
①管理上の意義。学生による評価を、教師の昇進、契約に際しての参考資料として利用することの問題点が論議されている。
②教授法改善上の意義。学生による評価データが教授法の改善にどのように役立っているかが吟味される。
③学生自身における意義。授業評価をすることの意義を学生はどのようにみているかが調べられる。
●授業評価をしてもらってわかったこと
筆者は、30年前、同じ内容の教職の授業を週4コマやっていた時、自分の授業で自分の講義についてのアンケート型の評価を実施してみたことがある。その結果が、図中に示されているグラフである。
図 専攻別授業評価の結果
個別の項目の結果はさておき、興味深いのは、同じ内容の講義でも、対象学生によって評価が異なることである。しかも、板書のようなかなり客観的に評価できるものでも、対象学生によって評価が異なっている。
教育心理学の中に、教授法の効果は、子供の適性によって異なるとするATI(Aptitude Treatment Interaction;適性処遇交互作用)という概念がある。筆者が得た結果は、まさにそれを授業評価の場で実証した形になっている。
この結果をみて、「紺屋の白袴」を痛く反省して、以後は、クラスによって少しずつ内容や講義の仕方を変えるように心がけたことがある。
●教員管理用の授業評価は危険
授業評価をして、へたな授業をする教員とのレッテルを貼られてしまった教員はどうするか。
そこでFDが登場して、なんらかの改善方策が採られるのが王道である。
ところが、必ずしもそうはならないことが多い。自己努力だけを期待して、それでも悪い評価が続く時は、昇進や昇給で差別されるというようになると最悪である。
さらに、学生からの容赦のない評価に授業意欲を減退させてしまうようことも起こりうる。評価に弱いのは学生だけではない。
こうしたこと以外にも、学生による授業評価の短所もいくつか指摘されてきた。たとえば、
・評価が甘くなる
・最先端の内容より説明しやすい内容や学生に受けの良い内容し
か取り上げない
・学生を厳しく訓練しなくなる
今はまだ導入時の混乱、戸惑い、不慣れなどがあるように思う。これが定着してくれば、評価結果の有効活用も期待できる。しかし、アンケート型の授業評価が授業改善のすべてではない。
●学生の反応を絶えずモニターする
自分の授業がうまくいっているかどうかは、その時その場での学生の反応を見ていれば、かなりのところまで自分でわかる。
寝ている学生が多ければ、授業が単調になっているのかもと疑ってみる。ちょっとざわついたら、板書の文字がわかりにくいのかもと疑ってみる。学生の目が輝いていれば、その話題は興味を引くことがわかる。
さらに、これも筆者がかつて試みたことであるが、授業評価ノートを回覧して、何かあれば書き込むようにさせた。単位取得に関する希望が多いが、中には、真剣に講義内容についての質問が書かれていることもあって、参考になった。
要は、学生の気持ちを理解しながら、授業をすることである。そのスタンスを陰に陽に、絶えず学生にメッセージとして伝えながら授業をすることである。そうすれば、おのずと授業改善のヒントが日々の授業の中から得られるはずである。そう思って、自分は毎日の授業をしてきた。
7.4 演習と実習で鍛える
●演習で発想力とプレゼン力と討論力を鍛える
昔の大学の演習は、原書講読だった。英語やドイツ語の文献や本を読むのである。今でもそのスタイルで演習をしている教員も結構いる。
筆者は、すでに25年前くらいから、そのスタイルの演習はやめている。演習は、専門の学習を通しての学生の発想力とプレゼン力と討論力の訓練の場にしたいとの思いからである。
こういうねらいの授業は、最近では、専門教育の中ではなく、教養授業の一貫としておこなわれようになってきた。結構なことである。しかし、もっと専門教育の中でも、専門知識の活用訓練とセットにしておこなうこともあってよいと思っている。ただ、ひたすら先生のお説拝聴スタイルから脱却するきっかけの場として演習を活かすのである。
この思いを実現すべく、あれこれ努力を続けてきたが、どうも今ひとつうまくいったという実感をもてないままである。筆者のこれまでのささやかな試みを紹介してみる。
「発想力」
「専門知識の過多は問わない。自分の頭を使って考えるように」をスローガンに、わかりにくい表現の具体例を発掘することを課題に課す。想定される具体例を報告することが多いが、時折、感心するような例を報告してくれることがある。こんな時は本当にうれしい。しかも、1学期より3学期のほうが、そんな時が多い。授業効果と勝手に思いこむことにしている。学生には力を発揮する場と方向性をうまく与えてやることの大切さを実感させられる。
「プレゼン力」
一番進歩が著しいのがプレゼン力である。回を重ねるごとにうまくなっていく。しかも、資料作りも、コンピュータを駆使して見事なものを作る。
アドバイスは次の3つ。
・最初に何を発表したいのかをはっきり言う
・口頭発表だけでなく資料(紙、OHP,パワーポイント)を用意す
る
・資料の読み上げはしない
「討論力」
討論力は、質問力と応答力とからなる。演習で一番問題は、これである。学生の口が重くて、なかなか思いを口に出してくれないのである。
そこで、ここでも、斉藤孝氏の本から示唆を受けて、演習の授業の冒頭に、「質問遊び」をして、まずは、質問するにも技術があることを納得してもらうようにしている。
質問遊びとは、たとえば、一人が自己紹介をする。その内容について、3人が一つずつ質問をする。3人の質問が終わってから、そのうちから一つ、答えたい質問を選び、答える。これを繰り返すと、
質問にも質があることがわかってくる。それがわかってもらうだけでも大きい。それでも、ワンセンテンス質問を自発的にするくらいまでにしか到達しない。
討論力のほうは、手がつかない。最近の学生は、仲間とのつながりを大切にするので、甲論乙駁する討論のような危ない場には近づかない。丁々発止の議論を期待するのは無理。時折、挑発質問をするが、だんまりを決め込まれてしまうことが多い。今やってみたいと考えているのは、ディベート(debate)の導入である。
コラム「ディベート授業」*******
長年、ディベートを通常の授業に取り入れている信州大学の守一雄教授からいただいた授業案を紹介しておく。
平成17年度「教育心理学?」講義計画 担当講師 守 一雄・信州大学教授
第1.授業のねらい・内容
教育心理学という学問の課題、研究方法について学ぶとともに、小中学校の授業にそれをどう活かすかについて、講師による講義と受講生同士の討論を通 して多面的に学ぶ。
第2.授業のやり方 ?B
受講者は2週間に1冊のペースで6冊の課題図書を読み、読後レポートを提出し、以下のようなテーマ(一部)の討論(ディ ベート)に参加する。
茂木秀昭『ザ・ディベート』(ちくま新書)を読んでディベートについてよく知った上で、第1回目には「ディベートの是非」についてディベートを行う。
11/04 (3)教育技術の法則化 ディベート?『授業の腕をあげる法則』
12/02 (7)数学はなぜ難しいのか ディベート?『やりなおし基礎数学』
12/16 (9)実験研究の魅力 ディベート?『人はいかに学ぶか』
第4.ディベート『3人制43分ディベートのやり方』
1.学籍番号により機械的に7〜9人のグループを作る。
2.各グループから3人ずつが「肯定派A(1-3)」と「否定派N(1-3)」になる。(「肯定派」が個人的に肯定的な意見を持っている人である必要 はない。しかし、肯定派になった以上は「肯定派」として意見を述べる。)
3.残りの1〜3人が審判陣となる。審判陣は「座長(必須:ディベートの進行を司る)」「計時係」「記録係(ディベート出席者のリストを作り、後で提 出する)」を分担する。
4.ディベートの時間配分は次の通りとする。(時間配分は使用可能な総時間に応じて変更可能であるが、一度決めた時間配分は厳守すること。)
(1)作戦タイム(5分)
(2)肯定派の意見陳述(A1)1分
(3)否定派の意見陳述(N1)1分 これをあと2回繰り返す
(8)作戦タイム(5分)
(9)否定派の尋問(N1・N2・N3)(5分)
(10)肯定派の尋問(A1・A2・A3)(5分)
(11)作戦タイム(3分) これをあと2回繰り返す
5.ディベートの終了後、審判陣は「肯定派」「否定派」のどちらがより説得力があるかを判定し、多数決で勝者を決める。判定が1対1に分かれた場合は 審判陣でジャンケン。
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●実習で「社会」を体験する
昔は、実習と言う時は、専門に入っていくためのプレ研究トレーニングである。実験や調査のミニチュア版を体験する場が実習であった。これは、今でも続いている。卒業論文、ひいては大学院での専門教育につながる大事な授業の一つである。
1単位あたりに費やす時間も講義、演習の1.5倍である。研究(実習)のプロセスを通して、その学問の研究スタイルや研究文化を体得することになる。
ところが、最近は、大学のキャリア支援強化の一貫としての実習をおこなうところが増えてきた。将来の就職を見越した社会の現場での実習である。
教育機関で過ごす期間がどんどん延長している。また、それに比例するかのように、コンピュータが作り出す仮想現実の世界に浸る時間も増えている。結果として、「現場」「実社会」に触れる機会がないまま、いきなり社会に放り出される。これでは、学生もたまったものではない。
その衝撃を緩和するために、学生のうちから社会の現場に出てみていろいろの経験、とりわけ将来の職業選択に役立つ経験をさせようとの趣旨である。キャリア形成プログラムなどと呼ばれて、文部科学省や厚生労働省も強力に後押してしている。
いずれも実習も実体験不足の最近の学生にとっては、その効果のほどははかりしれないものがある。
コラム「「働かない若者が増えている」******
働かない若者というようり、働けない若者も増えてる。いわゆる「引きこもり」である。これが今、日本では、90万人くらい。ちなみに、この80%が男性。
次は定職につかない若者、いわゆるフリーター。これが、217万人。日本で、赤ちゃんが1年間にうまれる数が117万人。その約2倍弱になる。
さらにニート(就職もせず、学校 にも行かず、職業訓練もうけていない人)が52万人。これは、大学センター入試を受ける人数とほぼ同じ。ニートをタイプにわけると
目標がみつからないモラトリアム型 50%
* 就職できない/したくない型 40%
* 作家などをめざす夢追い型 10%
(以上、文部科学省の2004年資料による)。
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7.5 大学生の学習状況
●大学に入ると大学生の学習習慣が激変する
高等までの学習習慣の一つに、予習復習がある。これは、時には宿題という形を取ることもあるが、授業以外にも授業を理解するためのなんらかの補完的な学習が求められてきた。
その結果として好ましい学習習慣を身につけて大学に入学してくるはずであるが、大学に入学した瞬間から、この学習習慣はどこかに行ってしまう。ひどい場合は、受験勉強で仕込んできたはずの知識さえもどこかに置き去りか、と思わされるような時もある。
大学は、1コマの授業に予習復習を1時間ずつという建前になっている。したがって、1週間の受講可能なコマ数は、物理的に決まってくる。ところが、1,2年生くらいは、すべてのコマを埋めるように受講計画をたてる。当然、予習復習はできない。にもかかわらず卒業に必要な単位をなんなく取得していく。あまりの安易な傾向に、文部科学省も剛を煮やし、年間取得単位数の制限条項を設けるよう、大学を指導しはじめた。
ここにきて、学生のほうも、うかうかとしていられなくなってきた。それぞれの授業でさまざまな工夫がなされるようになり、学生側にもそれなりの努力(予習復習)が求められるようになってきた。
コラム「日本で一番勉強しないのは大学生!」******
内閣府「第2回青少年の生活と意識に関する基本調査」(2000年)によると、学校外での勉強時間について、「家でほとんど勉強してない」と答える割合を、1995年と2000年とで比較すると、小中高大のいずれでも増加し、しかもその割合は、中学生より高校生、高校生より大学生となるにつれて増加し、2000年では、高校生では、39.7%、大学生では47.5%となる。
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●学習への動機づけの低さ
最近は、高等学校での進路指導がかなり充実してきている。大学に入るにも、その先の職業までにらんだ進路指導になってきている。むろん、徹底した進学指導だけに絞っているところもあるが。
また、大学のほうも、オープン・キャンパスなどを実施して受験生に、模擬講義までして情報開示をしている。したがって、かなりの情報とそれなりの思いと覚悟を胸に秘めて大学のしかるべき学部・学科に入学してくるはずである。
しかしである。学生の学習意欲(動機づけ)は総じて低いのである。
30年前に推薦入学を筑波大学では全国に先駆けて実施した。当時、講義室にいくと、前列の席で目をらんらんと輝かしているような学生がちらほらいて目立ったが、だいたいが推薦入学の学生であった。最近は、どこもかしこも推薦入試をするようになったためか、そんな学生もあまりいなくなったような気がする。
講義室全体が最初から学びの場としては暗いのである。「さー勉強するぞ!」という気迫に乏しいのである。
教員は、まずは、この雰囲気を払拭することからはじめなければならない。
まずは、単位認定をどうするかをある程度まで明らかにする必要がある。学習目標を定めるのである。ただし、あまりすべての情報を開示してしまうと、そのことだけを目ざしての学習になってしまうので、好ましくない。試験成績、出席数、レポートなどできるだけ多彩で包括的な単位認定の仕方を工夫したほうがよい。
その上で、講義室の雰囲気を明るくする工夫をする。一番簡単なのは、隣どうしでの自己紹介である。それも何の細工もなくやると、30秒もしないうちに終わってしまう。もっとまずいのは、お互いによく知っているどうしだったりすることがあると、自己紹介は不要となってしまう。
そこで、斉藤孝氏推奨の「偏愛マップ」を使っての雰囲気作りと対話促進といった細工をする。
コラム「偏愛マップで講義室の雰囲気を変える」****
斉藤孝による偏愛マップ法による相互コミュニケーションの活性化の手順を紹介してみる。
1)5分間、自分の好きなことを、キーワードでA4の紙に、関係の深そうなものは近くに配置して、マップ風に描き出す(全員)
2)2人一組になり、お互いのマップを見せあいながらお互いをよく知り合う。これを別のペアーでもやってみる
「追加実習」
嫌いなもののマップを描き、同じことをしてみると、どうなるであろうか。
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その上で、授業上の工夫についてのメッセージを伝える。その中に、学生の積極的な学習行為を促す工夫、たとえば、関連する具体事例のレポート提出、隣どうしでのちょっとした対話などを講義の中で求めることを伝え、随時実践する。
こうした努力をして、学生の動機づけを高めないと、どれほど内容の良い授業をしてもついてきてもらえないのが、実情である。大学進学率50%弱。大学は教育機関として大衆化したのである。