心の風景 認知的体験

癌闘病記
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大学教育
老人心理

おっくうさとの闘い

2020-06-26 | 癌闘病記
これも副作用効果と少しは言い訳じみてはいるが、
ここ1週間くらい、何をするにも、おっくうさの克服を強いられる。
おっくうさが、たとえば、
食べる気持ちを上回れば、食べない。
散歩にでたい気持ちを上回れば、散歩に出かけない。
この戦いが、毎日、何回か発生する。
負けると、ソファーにごろ寝でニュースショウとなる。



置き配も結構気を使う

2020-06-26 | 心の体験的日記
わたみの宅食便は、専用の冷凍庫が常備してあり、
11時ころまでに配達される。
こちらはなんの問題もない。

宅急便の置き配も助かるのだが、
重い荷物になると、自分では家に運び込めない。
在宅のときは、玄関のなかまで運び込んでもらう。
ちょっぴり申しわけないので、冷たいものを差し上げることにしている。
今日は、ノンアルビール。




10年前の今日のアクセス数分析

2020-06-26 | Weblog
2010.06.25(金) 3061 PV 532 IP 1074 位 / 1429490ブログ
2010.06.24(木) 2355 PV 530 IP 1131 位 / 1429090ブログ
2010.06.23(水) 2733 PV 571 IP 1137 位 / 1428681ブログ
2010.06.22(火) 1886 PV 515 IP 1164 位
@@@@
ブログ開設数、400・日で増加
そのなかで、
4日連続、500台
励みになります
愛読感謝です

ロンサーフ抗がん剤投与7日目

2020-06-26 | 癌闘病記
ロンサーフ抗がん剤投与7日目。
副作用と思われる症状の数々。
・食欲不振
  食後に服薬する薬なのに、食べたくないので、
  ともかく何かを胃に流し込んで、無理やり食後服薬としている。
・おっくう感、倦怠感がつよい。
  ソファーベッドとニュースショウが一番の友達
・爪際の傷
  これは前の抗がん剤の後遺症だが、あいかわら足指際は治らない。



土足厳禁に理も利もあり

2020-06-25 | 健康・スポーツ心理学
アメリカの家屋では、土間がない。
外から靴をはいたまま部屋に出入りする。
内外を厳密に分ける日本人にはとても我慢できない(不潔さ)である。
コロナパンデミックのこの時期、考え直してほしいものである。

衛生文化の違いが気なる。

「参考」NHKニュースより
町の商工会によりますと、新型コロナウイルスの感染が世界中で拡大する中、室内で靴を履く習慣がある海外の国や地域から、感染防止のためにスリッパを購入したいという問い合わせが相次いでいるということです。


7章 大学で教える 」認知と学習の心理学

2020-06-25 | 認知心理学
05/12/5海保博之
7章 大学で教える    p11

7.1 大学で教えて40年
●授業遍歴
  • 大学の授業

7.2 講義をする

●講義はしんどい
●内容と方法と熱意
●授業の技術
●熱意

7.3 授業を評価する
●授業評価花盛り
●授業評価をしてもらってわかったこと
●教員管理用の授業評価は危険
●生徒の反応を絶えずモニターする

7.4 演習と実習で鍛える
●演習で発想力とプレゼン力と討論力を鍛える
  • 実習で「社会」を体験する

7.5 大学生の学習状況
●大学に入ると大学生の学習習慣が激変する
●学習への動機づけの低さ


*******

7章 大学で教える    p11

7.1 大学で教えて40年

●授業遍歴
 25歳で大学に助手として就職してこれまで40年弱、2つの国立大学で教えてきた。
最初は徳島大学教育学部。もっぱら心理統計や研究法と演習が中心であった。こうした技術的な内容の講義は内容が決まっているので比較的楽に出来るが、わかりやすく説明しないとまったく学生は理解できないので、その点にはいろいろ苦労した。その成果が後に、筆者のはじめての本「心理教育のためのデータ解析10講」として上梓された。
筑波大学に移ってからは、教職の教育心理学から始まって、認知心理学の講義をしたり、演習をしたりした。とりわけ、最初の3年間は開学当初で人手不足もあり、同じ内容の教職の教育心理学を1週間に4コマしたこともある。
ここではじめて、大学「教育」について開眼した。大型授業の受講生管理の技術を身につけた。今はやりの授業評価も実践してみた。視聴覚機器の活用もしてみた。コンピュータを活用した試験システムも開発してみた。そのいくつかは、後に紹介してみる。

●大学の授業
大学の先生は、年がら年中、教室で授業をしているわけではない。授業コマ数は、大学院も含めてだいたい週に5コマ程度が標準になっている。
その内訳は、筆者の場合、年によって違うが、だいたい2コマが講義、2コマが演習、1コマが実習(卒論指導も含む)といったところである。
受講生の数は条件によってさまざまである。筆者の昨年の授業を例にとれば、講義は人数が80名のが一つ、総合科目(年3回)は300名程度。演習は、学部(学類)が4名、大学院が5名(修士)、6名(博士)、実習は60名くらいだが、実習は、技官や大学院生が助けてくれる。
これに加えて大事な教育上の仕事として、論文指導がある。指導学生が多いと、かなりの時間をさくことになる。筆者の場合は、今年は卒論、修論各1名だけなので楽をさせてもらっている。多いときは博士論文の指導も含めて5名くらいになる年もある。
 
7.2 講義をする

●講義はしんどい
一番しんどいのは、学生にとっては実習、教師にとっては講義である。講義では、こちらがしゃべり続けなければ授業が成り立たない。したがって、しゃべる内容をあらかじめ用意しなければならない。これがしんどい。なお、実習は、学生が自分で時間をかけてあれこれやらなければ単位がもらえない。これもしんどいらしい。実習のレポートの締切が迫ると、演習のすっぽかしが起こるほどである。
さて、教師にとってしんどいほうの講義について、ここでは少し考えてみる。
教員になるための教職の授業のように、採用試験があるのである程度までは内容限定にならざるをえない授業は、3年くらいすると、話す内容もほぼ安定してくるので、あまり苦労しない。
ところが、自分の研究と直結している講義だと、どうしても欲が出て、新しいことを入れたくなったり、新しいテーマで話したくなる。これが楽しくもしんどい1年間になる。
講義でもう一つしんどいのは、人数の圧力である。
30人くらいまでだと、親密さを演出できる。学生と対話するような感じでの講義ができる。これが、50人を越えだすと不特定多数の奇妙な雰囲気が教室全体支配するようになってくる。学生に語りかけても無言、冗談を言っても無反応、試験情報だけは目を輝かせて聞くのである。私語こそないものの、これは講義する者にとってはかなりプレッシャーになる。
受講生が50人を越えると物理的なしんどさも格段に違う。出欠管理一つにしても、ちょっとしたミスが混乱を引き起こしてしまうことがある。たとえば、、署名式の名簿を回覧するルートがいつもと違ってしまったりすると、講義終了後にどっと学生が押し寄せてきてしまう。群衆の管理技術も必要になる。

●内容と方法と熱意
大学の授業に限らないが、吉田章宏氏によると、内容と方法と熱意の観点からみることができる。


図7・1 授業をみる3つの視点(吉田章宏「授業の心理学をめざして」国土社による) 


義務教育では、内容は学習指導要領でかなり厳しく規定されている。もっとも、最近では、文部科学省は、これは最低基準に過ぎないと言うようになってきているが。
大学では、教える具体的な内容にはまったくといってよいほど制約がない。アカデミック・フリーダムの伝統があるからである。あるのは、その講義が置かれるカテゴリーによる緩い制約である。「教職の中の」教育心理学と「心理学の専門コースの中での」教育心理学とでは、授業のねらいが異なるので内容も異なるはずであるが、どう異なるかは担当教官によって異なる。
昔は、教員帝国主義で、誰がどんな授業をするかはまったく教員に任されていて外からはうかがい知ることができなかったが、最近では、シラバス(講義概要)作成が普及して、講義内容もかなりオープンになってきた。それとともに、カリキュラムの体系も少しずつ整備されてきた。
いずれにしても、自分の研究直結の内容の講義をするのが、教員にとっても学生にとっても一番好ましい。しかし、そんな講義だけで済ますことができるほど、いかに大学とは言え、甘くはない。
教養的な講義もしなくてならない。こういう時は、自分の専門から遠い内容の講義になる。当然、講義内容の勉強も必要になるが、さらに、こうした授業では、講義技術にも意を払わないと、授業が成り立たないことがある。

●授業の技術
授業を成り立たせている要素技術は多彩である。話術、発問応答、言葉かけ、板書、資料作りと呈示技術、視線配り、机間巡視などなど。
大学の大人数講義では、この中でとりわけ大事なのは、話術、
板書、資料作りと呈示技術の3つである。
困ったことに、大学教員は、こうした要素技術を学ぶ機会がないのである。大学教員になるまでは研究一本やり。教員になったら、教員帝国主義で誰も教え方の技術を教えてくれる人はない。それでは授業がうまくいく試しがない。
その反省から、ようやくFD(faculty  development)と称して、教員の授業技術や次項でのべる評価技術を学ぶ機会が用意されるようになってきた。もともとうまく教えるたいとは思っていたわけであるから、FDで講義技術を身につけた教員がどんどん増えてくるはずである。そうなると、今度は学生の側がおちおちしていられなくなってくる。

●熱意
大学教員は研究論文の量と質でもっぱら評価される。講師から助教授、助教授から教授へと昇進するには、それぞれの段階で論文が5本くらいは必要である。それも査読された論文でないと高く評価されない。
したがって、どうしても授業より研究を優先することになる。悪いことではない。研究内容の貧弱化は、ひいては授業内容の貧弱化につながるからである。
しかし、この大義名分が、学会があれば授業は休講、わけのわからない休講も数知れず、アカデミックタイムと称して10分遅れの10分前切り上げ、試験はレポート一個で、といったずぼらな状況を横行させることになってしまっていたのが、少なくとも筆者の大学時代の授業であった。
それがここ10年前くらいから様変わりした。大学も、教育優先に大きく舵を切ったのである。文部科学省の行政施策による誘導が大きい。どの大学も競って教育に力を注ぎだしたのである。
教員も、昇進が研究重視でおこなわれるから研究、研究だったが、教育活動も昇進評価の対象になることがわかれば、もともと、学生に教えることが好きな人種なので、教育にも熱意を発揮する。とりわけ、年期の入った研究者は、年齢とともに研究力はどうしても低下してくる。ところが、膨大な知識の蓄積がある。それを若者に伝えたい気持ちは強い。
熱意なき講義は、内容がどれほど価値があり、また講義技術が卓越していても、学生を引きつけない。内容、技術、熱意が三位一体になってはじめてすばらしい講義になる。もっとも、コラムのようなケースもまれにはある。

コラム「価値のない内容を巧みに熱意をもって講義すると」*** 
アメリカでは、学生による評価の妥当性をめぐっての研究が盛んである。Dr. Fox(狐博士)効果は、そんななかから生まれた成果の一つである。
学生を相手に俳優を使って講義をさせる。ただし、その俳優にはあえて話の筋道はメチャクチャになるように、しかし、ユーモアやジェスチャーはたっぷりまじえて、おもしろおかしく講義するようにさせる。そして、講義が終わったら学生による授業評価をさせる。すると、学生の評価が全般的に高くなるのである。授業方法だけでなく、授業の内容までもが、すばらしいという評価をするというのであるから驚きである。
*****

7.3 授業を評価する

●授業評価花盛り
大学では今、教員の授業評価が花盛りである。アメリカの大学では、半世紀も前から実施されており、その心理学的な研究さえおこなわれてきている。
ざっとレビューをしてみるとつぎのようになる。
大別すると3つの研究領域がある。
第1は、評価システムの開発と、その妥当性(はかろうと意図したものが計られているか)、信頼性(もし同じ測定を何度もしたら、同じ結果が得られるか)の吟味に焦点を当てたものである。
評価の用具としては、もっぱら質問紙がもちいられているが、質問紙を構成する項目の選択、構造化をどのようにするか、さらに作成された質問紙が妥当性、信頼性を持つか、について、心理テストにおいて通常おこなわれる手順に従って吟味することが、主要な課題である。
第2の研究領域は、評価に影響する要因の査定、観点を変えれば、学生の評価メカニズムの解明に関するものである。
具体的には次のような要因をめぐっての研究、およびそれら複数要因間の総体的重みを決定しようとする研究がおこなわれている。
①授業形態による影響
受講している学生数や、選択か必須か、などによって、評価が変わるかが吟味される。
②授業方法による影響
内容のない授業を巧みな授業技術でおこなうことによって、学生を魅了するDr. Fox効果をめぐっての研究や、話し方、板書などの技術が評価を規定するか、が検討されている。
③成績認定の基準による影響
ゆるい基準は、果して好ましい評価をもたらすか、がもっぱらの関心である。
④教師―学生関係による影響
教師の考え方、性格、学生に対する態度と、学生のそれとがどのように交互作用して評価に影響するかが問題とされる。
 第3には、学生による授業評価のもつ意義、役割にまつわる研究で、次のようなことが問題とされている。
①管理上の意義。学生による評価を、教師の昇進、契約に際しての参考資料として利用することの問題点が論議されている。
②教授法改善上の意義。学生による評価データが教授法の改善にどのように役立っているかが吟味される。
③学生自身における意義。授業評価をすることの意義を学生はどのようにみているかが調べられる。

●授業評価をしてもらってわかったこと
筆者は、30年前、同じ内容の教職の授業を週4コマやっていた時、自分の授業で自分の講義についてのアンケート型の評価を実施してみたことがある。その結果が、図中に示されているグラフである。

図 専攻別授業評価の結果

個別の項目の結果はさておき、興味深いのは、同じ内容の講義でも、対象学生によって評価が異なることである。しかも、板書のようなかなり客観的に評価できるものでも、対象学生によって評価が異なっている。
教育心理学の中に、教授法の効果は、子供の適性によって異なるとするATI(Aptitude  Treatment   Interaction;適性処遇交互作用)という概念がある。筆者が得た結果は、まさにそれを授業評価の場で実証した形になっている。
この結果をみて、「紺屋の白袴」を痛く反省して、以後は、クラスによって少しずつ内容や講義の仕方を変えるように心がけたことがある。

●教員管理用の授業評価は危険
授業評価をして、へたな授業をする教員とのレッテルを貼られてしまった教員はどうするか。
そこでFDが登場して、なんらかの改善方策が採られるのが王道である。
ところが、必ずしもそうはならないことが多い。自己努力だけを期待して、それでも悪い評価が続く時は、昇進や昇給で差別されるというようになると最悪である。
さらに、学生からの容赦のない評価に授業意欲を減退させてしまうようことも起こりうる。評価に弱いのは学生だけではない。
こうしたこと以外にも、学生による授業評価の短所もいくつか指摘されてきた。たとえば、
・評価が甘くなる
・最先端の内容より説明しやすい内容や学生に受けの良い内容し
 か取り上げない
 ・学生を厳しく訓練しなくなる
今はまだ導入時の混乱、戸惑い、不慣れなどがあるように思う。これが定着してくれば、評価結果の有効活用も期待できる。しかし、アンケート型の授業評価が授業改善のすべてではない。

●学生の反応を絶えずモニターする
自分の授業がうまくいっているかどうかは、その時その場での学生の反応を見ていれば、かなりのところまで自分でわかる。
寝ている学生が多ければ、授業が単調になっているのかもと疑ってみる。ちょっとざわついたら、板書の文字がわかりにくいのかもと疑ってみる。学生の目が輝いていれば、その話題は興味を引くことがわかる。
さらに、これも筆者がかつて試みたことであるが、授業評価ノートを回覧して、何かあれば書き込むようにさせた。単位取得に関する希望が多いが、中には、真剣に講義内容についての質問が書かれていることもあって、参考になった。
要は、学生の気持ちを理解しながら、授業をすることである。そのスタンスを陰に陽に、絶えず学生にメッセージとして伝えながら授業をすることである。そうすれば、おのずと授業改善のヒントが日々の授業の中から得られるはずである。そう思って、自分は毎日の授業をしてきた。

7.4 演習と実習で鍛える

●演習で発想力とプレゼン力と討論力を鍛える
昔の大学の演習は、原書講読だった。英語やドイツ語の文献や本を読むのである。今でもそのスタイルで演習をしている教員も結構いる。
筆者は、すでに25年前くらいから、そのスタイルの演習はやめている。演習は、専門の学習を通しての学生の発想力とプレゼン力と討論力の訓練の場にしたいとの思いからである。
こういうねらいの授業は、最近では、専門教育の中ではなく、教養授業の一貫としておこなわれようになってきた。結構なことである。しかし、もっと専門教育の中でも、専門知識の活用訓練とセットにしておこなうこともあってよいと思っている。ただ、ひたすら先生のお説拝聴スタイルから脱却するきっかけの場として演習を活かすのである。
この思いを実現すべく、あれこれ努力を続けてきたが、どうも今ひとつうまくいったという実感をもてないままである。筆者のこれまでのささやかな試みを紹介してみる。
「発想力」
「専門知識の過多は問わない。自分の頭を使って考えるように」をスローガンに、わかりにくい表現の具体例を発掘することを課題に課す。想定される具体例を報告することが多いが、時折、感心するような例を報告してくれることがある。こんな時は本当にうれしい。しかも、1学期より3学期のほうが、そんな時が多い。授業効果と勝手に思いこむことにしている。学生には力を発揮する場と方向性をうまく与えてやることの大切さを実感させられる。
「プレゼン力」
一番進歩が著しいのがプレゼン力である。回を重ねるごとにうまくなっていく。しかも、資料作りも、コンピュータを駆使して見事なものを作る。
アドバイスは次の3つ。
・最初に何を発表したいのかをはっきり言う
・口頭発表だけでなく資料(紙、OHP,パワーポイント)を用意す
 る
・資料の読み上げはしない
「討論力」
討論力は、質問力と応答力とからなる。演習で一番問題は、これである。学生の口が重くて、なかなか思いを口に出してくれないのである。
そこで、ここでも、斉藤孝氏の本から示唆を受けて、演習の授業の冒頭に、「質問遊び」をして、まずは、質問するにも技術があることを納得してもらうようにしている。
質問遊びとは、たとえば、一人が自己紹介をする。その内容について、3人が一つずつ質問をする。3人の質問が終わってから、そのうちから一つ、答えたい質問を選び、答える。これを繰り返すと、
質問にも質があることがわかってくる。それがわかってもらうだけでも大きい。それでも、ワンセンテンス質問を自発的にするくらいまでにしか到達しない。
討論力のほうは、手がつかない。最近の学生は、仲間とのつながりを大切にするので、甲論乙駁する討論のような危ない場には近づかない。丁々発止の議論を期待するのは無理。時折、挑発質問をするが、だんまりを決め込まれてしまうことが多い。今やってみたいと考えているのは、ディベート(debate)の導入である。

コラム「ディベート授業」*******
長年、ディベートを通常の授業に取り入れている信州大学の守一雄教授からいただいた授業案を紹介しておく。

平成17年度「教育心理学?」講義計画 担当講師 守 一雄・信州大学教授

第1.授業のねらい・内容      
 教育心理学という学問の課題、研究方法について学ぶとともに、小中学校の授業にそれをどう活かすかについて、講師による講義と受講生同士の討論を通 して多面的に学ぶ。

第2.授業のやり方                         ?B      
 受講者は2週間に1冊のペースで6冊の課題図書を読み、読後レポートを提出し、以下のようなテーマ(一部)の討論(ディ ベート)に参加する。
茂木秀昭『ザ・ディベート』(ちくま新書)を読んでディベートについてよく知った上で、第1回目には「ディベートの是非」についてディベートを行う。
11/04    (3)教育技術の法則化   ディベート?『授業の腕をあげる法則』    
12/02   (7)数学はなぜ難しいのか ディベート?『やりなおし基礎数学』
12/16   (9)実験研究の魅力 ディベート?『人はいかに学ぶか』     

第4.ディベート『3人制43分ディベートのやり方』
1.学籍番号により機械的に7〜9人のグループを作る。
2.各グループから3人ずつが「肯定派A(1-3)」と「否定派N(1-3)」になる。(「肯定派」が個人的に肯定的な意見を持っている人である必要 はない。しかし、肯定派になった以上は「肯定派」として意見を述べる。)
3.残りの1〜3人が審判陣となる。審判陣は「座長(必須:ディベートの進行を司る)」「計時係」「記録係(ディベート出席者のリストを作り、後で提 出する)」を分担する。
4.ディベートの時間配分は次の通りとする。(時間配分は使用可能な総時間に応じて変更可能であるが、一度決めた時間配分は厳守すること。)
(1)作戦タイム(5分)
(2)肯定派の意見陳述(A1)1分
(3)否定派の意見陳述(N1)1分 これをあと2回繰り返す
(8)作戦タイム(5分)
(9)否定派の尋問(N1・N2・N3)(5分)
(10)肯定派の尋問(A1・A2・A3)(5分)
(11)作戦タイム(3分) これをあと2回繰り返す
5.ディベートの終了後、審判陣は「肯定派」「否定派」のどちらがより説得力があるかを判定し、多数決で勝者を決める。判定が1対1に分かれた場合は 審判陣でジャンケン。

****************

 
 
●実習で「社会」を体験する
昔は、実習と言う時は、専門に入っていくためのプレ研究トレーニングである。実験や調査のミニチュア版を体験する場が実習であった。これは、今でも続いている。卒業論文、ひいては大学院での専門教育につながる大事な授業の一つである。
1単位あたりに費やす時間も講義、演習の1.5倍である。研究(実習)のプロセスを通して、その学問の研究スタイルや研究文化を体得することになる。
ところが、最近は、大学のキャリア支援強化の一貫としての実習をおこなうところが増えてきた。将来の就職を見越した社会の現場での実習である。
教育機関で過ごす期間がどんどん延長している。また、それに比例するかのように、コンピュータが作り出す仮想現実の世界に浸る時間も増えている。結果として、「現場」「実社会」に触れる機会がないまま、いきなり社会に放り出される。これでは、学生もたまったものではない。
その衝撃を緩和するために、学生のうちから社会の現場に出てみていろいろの経験、とりわけ将来の職業選択に役立つ経験をさせようとの趣旨である。キャリア形成プログラムなどと呼ばれて、文部科学省や厚生労働省も強力に後押してしている。
いずれも実習も実体験不足の最近の学生にとっては、その効果のほどははかりしれないものがある。

コラム「「働かない若者が増えている」******
働かない若者というようり、働けない若者も増えてる。いわゆる「引きこもり」である。これが今、日本では、90万人くらい。ちなみに、この80%が男性。
次は定職につかない若者、いわゆるフリーター。これが、217万人。日本で、赤ちゃんが1年間にうまれる数が117万人。その約2倍弱になる。
さらにニート(就職もせず、学校 にも行かず、職業訓練もうけていない人)が52万人。これは、大学センター入試を受ける人数とほぼ同じ。ニートをタイプにわけると
   目標がみつからないモラトリアム型 50% 
*     就職できない/したくない型 40% 
*     作家などをめざす夢追い型 10% 
(以上、文部科学省の2004年資料による)。
********

 
7.5 大学生の学習状況

●大学に入ると大学生の学習習慣が激変する
高等までの学習習慣の一つに、予習復習がある。これは、時には宿題という形を取ることもあるが、授業以外にも授業を理解するためのなんらかの補完的な学習が求められてきた。
その結果として好ましい学習習慣を身につけて大学に入学してくるはずであるが、大学に入学した瞬間から、この学習習慣はどこかに行ってしまう。ひどい場合は、受験勉強で仕込んできたはずの知識さえもどこかに置き去りか、と思わされるような時もある。
大学は、1コマの授業に予習復習を1時間ずつという建前になっている。したがって、1週間の受講可能なコマ数は、物理的に決まってくる。ところが、1,2年生くらいは、すべてのコマを埋めるように受講計画をたてる。当然、予習復習はできない。にもかかわらず卒業に必要な単位をなんなく取得していく。あまりの安易な傾向に、文部科学省も剛を煮やし、年間取得単位数の制限条項を設けるよう、大学を指導しはじめた。
ここにきて、学生のほうも、うかうかとしていられなくなってきた。それぞれの授業でさまざまな工夫がなされるようになり、学生側にもそれなりの努力(予習復習)が求められるようになってきた。

コラム「日本で一番勉強しないのは大学生!」******
 内閣府「第2回青少年の生活と意識に関する基本調査」(2000年)によると、学校外での勉強時間について、「家でほとんど勉強してない」と答える割合を、1995年と2000年とで比較すると、小中高大のいずれでも増加し、しかもその割合は、中学生より高校生、高校生より大学生となるにつれて増加し、2000年では、高校生では、39.7%、大学生では47.5%となる。
********

●学習への動機づけの低さ
最近は、高等学校での進路指導がかなり充実してきている。大学に入るにも、その先の職業までにらんだ進路指導になってきている。むろん、徹底した進学指導だけに絞っているところもあるが。
また、大学のほうも、オープン・キャンパスなどを実施して受験生に、模擬講義までして情報開示をしている。したがって、かなりの情報とそれなりの思いと覚悟を胸に秘めて大学のしかるべき学部・学科に入学してくるはずである。
しかしである。学生の学習意欲(動機づけ)は総じて低いのである。
30年前に推薦入学を筑波大学では全国に先駆けて実施した。当時、講義室にいくと、前列の席で目をらんらんと輝かしているような学生がちらほらいて目立ったが、だいたいが推薦入学の学生であった。最近は、どこもかしこも推薦入試をするようになったためか、そんな学生もあまりいなくなったような気がする。
講義室全体が最初から学びの場としては暗いのである。「さー勉強するぞ!」という気迫に乏しいのである。
教員は、まずは、この雰囲気を払拭することからはじめなければならない。
まずは、単位認定をどうするかをある程度まで明らかにする必要がある。学習目標を定めるのである。ただし、あまりすべての情報を開示してしまうと、そのことだけを目ざしての学習になってしまうので、好ましくない。試験成績、出席数、レポートなどできるだけ多彩で包括的な単位認定の仕方を工夫したほうがよい。
その上で、講義室の雰囲気を明るくする工夫をする。一番簡単なのは、隣どうしでの自己紹介である。それも何の細工もなくやると、30秒もしないうちに終わってしまう。もっとまずいのは、お互いによく知っているどうしだったりすることがあると、自己紹介は不要となってしまう。
そこで、斉藤孝氏推奨の「偏愛マップ」を使っての雰囲気作りと対話促進といった細工をする。

コラム「偏愛マップで講義室の雰囲気を変える」****
 斉藤孝による偏愛マップ法による相互コミュニケーションの活性化の手順を紹介してみる。
1)5分間、自分の好きなことを、キーワードでA4の紙に、関係の深そうなものは近くに配置して、マップ風に描き出す(全員)
2)2人一組になり、お互いのマップを見せあいながらお互いをよく知り合う。これを別のペアーでもやってみる
「追加実習」
 嫌いなもののマップを描き、同じことをしてみると、どうなるであろうか。
************

その上で、授業上の工夫についてのメッセージを伝える。その中に、学生の積極的な学習行為を促す工夫、たとえば、関連する具体事例のレポート提出、隣どうしでのちょっとした対話などを講義の中で求めることを伝え、随時実践する。
 こうした努力をして、学生の動機づけを高めないと、どれほど内容の良い授業をしてもついてきてもらえないのが、実情である。大学進学率50%弱。大学は教育機関として大衆化したのである。




電気代が1万円をきった!!

2020-06-25 | 心の体験的日記
特に節約したわけではない。
クーラーを使わなくて済んだ気候だったからだろう。
2万円を超えないといいなーとおもっていた4月ころ。
しかし、これから来る猛暑を生き抜くには、クーラー節約志向はだめ。

老人のケチは、ほどほどに




声をださないと、声が出なくなる

2020-06-25 | 癌闘病記
教師という商売は、まずは、声が出てなんぼの商売。
それを50年やってきた。
それが、ここ3年、声を出すことが極端に少なくなった闘病生活にはいった。
声量が減った
タイミングよく声がでなくなった<<電話応答が怖い
ボキャブラリーが減った

歌でも歌って状況改善をはかるも、
飽きたのか、全然その気にならない。
らくらくホンもさわりもしなくなった。

外に出て声をかけたいが、変な老人に見られるもねー

コロナが収束したら、老人会にはいろうーかなー



危険予知」安全・安心の心理学

2020-06-24 | 安全、安心、
05/9/13
危険予知————安全を先取りする

●安全を先取りする
危険に遭遇してからでは間に合わない。かりに間に合っても、うまく対処できないこともある。そこで、あらかじめ想定できる危険の芽は摘み取ってしまおうというのが、危険予知の考えである。いわば、安全の先取りである。
むろん、こんなことが完璧にできるわけではない。人間の予知能力には限界があるし、状況のほうも時々刻々と変化し危険を潜在化してしまうからである。それでも、やらないよりはまし、さらに上手にやれば、危険回避には強力な方策の一つになることは間違いない。

●危険予知力を構成するもの
 危険予知力を構成する要素には「危険察知力」と「危険回避力」の2つがある。
 まず、危険察知力から。
 状況の中に潜在する危険を察知し、それへの対処をあらかじめ的確に予測できる力である。これも、さらに2つからなる。
一つは、しかるべき状況に入る前のオフライン危険察知力である。仕事をする前、スポーツをする前などに、想定内の危険を指摘できる力である。次章で取り上げるKYT(危険予知訓練)では、もっぱらこちらの予知力の養成を行う。危険との時間的、空間的距離が大きいのが一つの特徴である。
2つは、状況の中でのオンライン危険察知力である。今現在自分がいる状況の中で危険を発生する可能性を事前に察知する力である。最近では、現場力*の一つとして、その劣化が指摘されている。危険との時間的、空間的距離が小さいのが特徴である。
 危険察知力に加えて、危険回避力も大事である。
 必要に応じて想定される危険に応じて、それをどう回避するのがよいか、万が一、危険に遭遇してしまった時の適切対処を考えることができる力である。
オフライン危険察知での危険回避力としては、次の2つ。
・あらかじめ想定される危険の発生を押さえる対策を取る
・危険情報を共有することで危険回避行動を取る
オンライン危険察知での危険回避力としては、次の2つ。
・その発生を認識して周囲に報知する
・行為の中止、状況の進行停止も含めた危険の発生を押さえる適切な緊急行動をとる

●危険予知力を支える基盤能力
 危険予知は、すぐれて人の推論能力に依存しておこなわれる。その推測能力を支えるものとしては、次のようなものがある。
①危険についての知識
 どこにどんな危険が潜んでいるかについて、知識として知っているかどうかは、危険予知の質の基礎をなす。たとえば、雨中で夕方にどんな交通事故が多いのを知識として持っているかどうかである。当然、知識の有無によって、危険予知の内容は異なり、したがって、実際の運転も代わってくる。
②危険についての体験
 危険体験はヒヤリハット体験も含めても、それほど多くはない。多いとすれば、それは、自分か回りに何か問題があるので早急な点検が必要である。
危険体験は多くはないが、それでも、皆無という人もまれであろう。そこで、数少ない危険体験を危険予知に有効に活かす方策を考えることになる。
予期図式という考え方がある。危険予知に関する予期図式とは、過去の危険体験の結果として、眼前の危険を察知してそれに対処するための構造化された知識のまとまりである。この予期図式は、オンライン察知力と回避力の鍵となる。
予期図式は、しかし、教えられて身につく知識ではない。一種の勘のようなものである。長年にわたり、その状況(現場)で体験を通して作られる現場力の一つである。
③危険想像力
危険予知は、推論に加えて、これから起こるであろう危険についてあれこれと想像してみる力も必要である。状況を限定してもそこで起こるであろう危険のすべてをあらかじめ予知することは無理であるが、それでも想像力を働かせて、あれこれと危険について思いをめぐらしてみることは、無駄ではない。知識の活性化にも役立つし、危険に対する感受性を高める効果も期待できる。
④状況認識力
オンライン危険察知には、状況認識力は必須である。いつもと同じなのか、どこかに危険信号がないかを瞬時に見きわめる力である。予期
図式は知識駆動であるが、状況認識力は状況駆動である。いつもと機械の音が違う、何か臭う、といったような個別感覚ベースの認識と、さらに、状況全体をパターン(ゲシュタルト)としてとらえる認識とがある。

 




笑っていいのかなー」素人政治談議

2020-06-24 | 社会
北朝鮮の最近の動向。
やんちゃ坊主がもっと俺のほうを向け!!」とだだをこねているようにしかみえない。
ミサイルを飛ばせば、反撃が怖いので、
代わりに、なんの効果もない宣伝ビラの配布報復や宣伝拡声器の設置。そして、毒舌チームの罵詈雑言。
文政権もまじめに対応する、
日本のマスコミもまじめにニュースショウでとりあげるので、
ますますのやんちゃぶり。
北はほくそえんでいるのではないかなー

ほっておけばそのうちおさまるよ、と言ってあげたいくらい。

とても不真面目、不謹慎な談議で、すみません。





食べられない人々

2020-06-24 | 社会
世界には、食べたくとも食べるものがなくて食べられない人々がたくさんいる。こういう人々に食料を与えるのが政治の課題であり続けている。

一方、食べられものが目の前にあっても食べられない(たべてはいけない)人々もいる>>肥満人口

潤沢な食べものが入った冷蔵庫を前に、全然食べる気がおきない頭に
突然、こんなトピックが頭に浮かんだので、記事にしてみた。

それにしても8億の飢餓人口とはねー



「参考」UNICEF HP
世界の飢餓人口、8億2,000万人以上
3年連続の増加に国連5機関が警鐘栄養不良は南アジアとサハラ以南アフリカに集中
肥満も依然増加傾向

10年前の今日の記事「親と教師の元気がまずは大切」

2020-06-24 | ポジティブ心理学
教師へのマスコミ定番パッシングも相変わらずです。
精神疾患に悩む教師の数も増加の一途
子どもの心がつかめない親
理不尽なクレームで教師を痛めつけるモンスターペアレントの跋扈

元来、明るく元気なはずの子ども
彼らが一日の大部分を過ごす学校と家庭
それを取り仕切る教師と親
彼らが心を病み、不機嫌になってしまっては、
せっかくの子どもの明るさと元気も萎えてしまいます。
教師、親に加えて子どもまで不機嫌になってしまっては
日本の未来はありません。 


過剰安全———安全にコストをかけ過ぎる」安全・安心の心理学

2020-06-23 | 安全、安心、
05/11/26
過剰安全———安全にコストをかけ過ぎる


●危険から隔離する
最近のプラットホームは、新幹線のように、線路とホームの間に仕切りドアが設置されるようになってきた。道路でも歩行者と車の分離がなされるようになってきた。危険から人を隔離する設備である。安全のためには好ましい環境である。
しかし、お金がかかっているであろうことは、容易に推測できる。安全をお金で買う象徴的な設備である。多分、その効果は、年に1人か2人のホーム転落者、事故被害者を救うくらいであろう。だからこその必要なコストと考えるか、それくらいの危険率ならもっと安上がりでと考えるか。これがここでの話である。

●安全にかけるコスト
大は原子力発電所から小は家庭まで、安全にはそれなりのコストをかけている。リスク工学に従うまでもなく、どれくらいのコストをかけるかは、危険の発生率と程度の見積もりによることになる。
保険業界には、そのあたりを査定するための精緻な数学的公式があると思われるが、一般には、そんな面倒な計算はしない。直感的な見積もりに従って、安全のためのコストを計算して実践している。
直観的な見積りなので、そこに関与する要因はきわめて心理的である。家庭で言うなら、「最近、犯罪が増えているから鍵をもう一つ」「地震が多いので家具留めを追加しよう」「寝る前の安全確認をもっときちんと」となるが、どこまでコストをかけて安全対策をすれば十分かの判断は、その人の体験や犯罪恐怖や災害不安などにかかっている。

●安全のコスト・パフォーマンス
安全を保持するには、それなりのコストをかけなければならないのは当然のことである。しかし、企業論理、あるいは損得論理からすれば、コストをかけたらそれによるパフォーマンスを考えるのも、これまた当然である。これが、コスト・パフォーマンスという考えである。安全コストの計算には、このコスト・パフォーマンスの考えも強く入っている。
一般的に言うなら、安全が長期間にわたって持続しているときには、コストあたりのパフォーマンスを高く見積もる。つまり少ないコストで安全を保とうとする。安全が脅かされると、あるいは脅かされる不安が高まると、パフォーマンスを度外視してでも安全のためのコストを注ぐことになる。
このあたりはシーソーゲームのようなものである。コストとパフォーマンスのバランスが崩れると、安全が脅かされるか、次に述べる過剰安全という事態になる。
もっとも、安全だけは、こうした考えからはずすべし、という極論もないわけではない。行政分野では、コスト意識が希薄なので、こうした考えが受け入れられやすい。これも過剰安全を押し進めることになる。

●安全が過剰
 空港での身体検査は、テロ防止対策のために一層その厳しさを増している。そこに設置されている機器もさることながら、チェックの仕事にかかわっている人々の多さには驚く。また、道路工事には最近は必ず警備員がつく。
いずれも安全のためのコストを押し上げているが、統計をみるまでもなく、その効果(パフォーマンス)は上がっていることは容易に推測がつく。
しかし、一方では、それほどまでにお金をかけてそこまでやらなくともという感じも抱くことがある。
ホーム全体を覆ってしまったり、セキュイティ対策のため送金額の上限を定めたり、複雑な手順を踏まないと使えないパソコン、何段階ものチェックシステムなどなど。
これらすべてを過剰安全と言うわけではない。ただ、安全対策は、想定される危険を念頭に置いて立てられるので、その想定範囲や想定される危険の程度の見積もりが、安全対策を講ずる側と、それを守らされる側とで必ずしも一致しないことが多い。銀行などの例にみられるように、危険の発生が責任問題、保障問題と直結するような場合には、安全対策を講ずる側の見積もりがかなり高くなりので、過剰安全ではないかとの思いを、守らされる側は持つ。
 
●やや過剰かなくらいが丁度良い
安全であるほど安全対策には目がいかない。したがって、コストもかけない。そこをねらうかのようにして、危険が突然襲いかかってくる。
したがって、安全対策はやや過剰かな、と思われるくらいで丁度良い。それによって発生する不便は、それこそ、安全のための心理的、行動的なコストとして我慢するしかない。
 ただ、過剰安全が危険ゼロを目ざすまでになると、世の中が円滑に動かなくなる。挑戦心が殺がれることにもなる。もっと恐ろしいのは、安全帝国主義と呼ぶにふさわしい事態の発生である。安全を錦の御旗に、有無を言わせぬ権力をふるうような事態である。行政権力の中にこうした傾向があるで、警戒したい。(K)