祇園社や祇園祭と藤原氏の関係はどうなのか、を見ていきます。そして、次号以降で小鍛冶伝承と祇園会が結びついた背景も考えます。
●平安京の春日社としての祇園社
鎌倉期あたりに編纂されたと言われる「社家条条記録」(『増補 続史料大成 第四十四巻(八坂神社記録二)』(明文堂)1978) によると、祇園社の前身の観慶寺(別名・祇園寺)の創建伝承に、藤原基経(時平と唯平の父)の土地を寄進したという伝承が残っています。 そして、平安末期に編纂された「今昔物語集」の三十一巻二十四にはの「祇園成叡山末寺語」では 「今昔祇園は本山階寺(興福寺・藤原氏の氏寺)の末寺にてなむありける と昔祇園は興福寺の末寺だったと書いています。それがやがて、比叡山の末寺になるというのが、この物語のストーリーです。「日本紀略」では天延二年(974)に祇園が天台別院となったとしており、逆に言えばそれまでは興福寺の末寺だったことになります。藤原氏の氏社である春日社は、興福寺系統の神社でした。都の東側という位置も春日と祇園社では共通します。つまり、祇園社は平安京版の春日社であるとも言えるでしょう。 では、興福寺の末寺の時代、祇園社ではどのようなことが行われたのでしょうか。 ↑2018年再建中だった興福寺の金堂
●祇園社での祈り ・忠平の奉幣
藤原時平の弟・藤原忠平の日記『貞信公記抄』延喜二十年(920)閏六月二十三日条 「為除咳病、可奉幣走祇園之状、令真祈申、又令鑒上人立□送願」 咳病を取り除くために祇園社に奉幣したとあります。その11年前に時平、7年前には道真追放一派の右大臣源光が泥沼に溺れこの世をさっていました。咳病もまた、道真の祟りとして考えられていたのかもしれません。 しかし、その三年後、延喜二十三年(923)三月二十一日、道真追放時から当時も在位していた醍醐天皇の皇子で、そして時平の甥でもある保明親王がこの世を去ります。これらの怨霊の猛威を恐れたのでしょう、太宰の権帥として左遷された道真は、その年の四月二十日、追放前の官位である右大臣にもどされました。道真死後二十年のことです。 しかし、怨霊の猛威は止まりません。二年後は保明親王の子・頼康親王も幼くしてこの世をさりました。そして、延長八年(930)。有名な清涼殿(醍醐天皇の住まい)落雷事件が起きます。
天神縁起絵巻承久本
その年に醍醐天皇もこの世を去り、後に作られた天神縁起などでは、醍醐天皇もまた地獄の業火に焼かれることになります。
↓延喜帝(醍醐天皇)さえも地獄の業火に(英賀神社本 永正本)
参考文献および、本記事以上の全ての絵の写真の引用 「日本の美術 299 絵巻=北野天神縁起」 (至文堂) 1991
・東西賊乱の東遊走馬十列
『日本紀略』天慶五年(942)六月廿一日条
「六月廿一日癸酉。奉東遊走馬十列於祇園社。東西賊乱御賽」
とあるように、「東西の賊乱」をおさめるための祈願が、成就した祭礼「御賽」をおこなっています。 西の賊乱は藤原純友の乱、そして東の賊乱は平将門の乱です。 平将門の乱後まもなく成立したとされる「将門記」では、「新皇」を名乗った将門に対して道真の霊がしたことが残っています。 「平将門其位記左大臣正二位菅原朝臣霊魂表者右八幡大菩薩」 訳があっているかは分かりませんが、「平将門にその(新皇)の位記を左大臣菅原道真の霊魂が八幡大菩薩の名の下に表した。」少なくとも新皇の位記に道真が関わっていることはわかります。 道真の怨霊が関わっているとされる将門の乱平定に関する祭や、道真猛威を奮っている時代の祇園社の隆盛は、祇園社が道真の怨霊を意識した祭礼を興福寺末寺時代に行なっていたことが見てとれます。 では、上記の祇園社で道真の怨霊の平定がなされようとしたことは、小鍛冶の相槌伝承や長刀制作伝承、「小狐」の道真怨霊平定伝承の時代まで意識されていたのでしょうか。 続きは次号よりあとになります。次号、次々号は少し短めになます。
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読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。
北円堂は一度だけ拝観させていただいたことがあります。鎌倉彫刻の凄さを感じました^_^
時間があるときにみたいと思います。