●祇園祭二つの船鉾の船頭
祇園祭には神功皇后の三韓遠征の行きを現した船鉾、帰りを現した大船鉾があります。夏頃にその工芸の見事さを記事にしました。今回は「なぜそれが使われているのか」について考えます。
その題材は船の頭についているものです。では写真を見て見ましょう。
↑船鉾の鷁
↑大船鉾の龍頭
なぜこのような龍と鷁が船頭に選ばれたのでしょうか。前の記事では平安時代には龍頭と鷁頭を一対にして航海の安全を祈る習慣があったと書きました。しかしこれらの船鉾、大船鉾の鷁と龍頭が作られたのは江戸時代後期。なぜこのような鷁と龍頭が復活したのでしょうか。
たしかに神功皇后の三韓遠征図などには龍頭の船が描かれていたりもします。しかし、綺麗に揃う根拠としての文書を見つけたので紹介して見ます。
●「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」の牛頭天王伝承
安部晴明が編集したと伝わり、じつは後の世の祇園社関係の方が書いたと考えられているようです。この中には祇園社の牛頭天王の伝承も記されています。詳しくは割愛しますが、この記事の主題に該当する部分だけ脇田晴子「中世京都と祇園祭」(中公新書)1999を参考にして、お話しします。
ざーっくり言うと、祇園社の祭神でもある牛頭天王は、嫁さんを求めて旅しているときに、蘇民将来から用意してもらった船が「龍頭鷁首に似た船」だったそうです。
船鉾、大船鉾ともに祇園祭の前祭、後祭の巡行でそれぞれ一番後ろを行く鉾です。このような重要な鉾だからこそ、牛頭天王の船に似せて作り替えられたのかもしれません。