「鳴くよウグイス平安京」・・・学生の頃、歴史の
年号を覚える時に語呂あわせで覚えた人も多いのでは?
そう‘鳴くよ’とは西暦794年の事で、今の京都に
平安京という都が移された年のことです。
以来、千年以上の長きにわたり日本の都であった京都。
その誕生にはいかなる理由があったのでしょう。
京都は遷都前‘山背の国’(やましろ)と呼ばれていました。
山背とは今の奈良県大和・平城京の後背地を意味していました。
時の天皇・桓武天皇は巨大になり過ぎた奈良仏教と僧侶の
政治への介入を嫌って、新天地への遷都を計画、
山紫水明の地で水陸の便のいい山背国が選ばれました。
ここまでは歴史の時間に習いましたね。
でも理由はぞれだけではなかったというのです。
それだけの理由なら平城京から最初に遷都された長岡京はなぜ?
10年足らずで遷都が必要だったのでしょうか?
平安京の遷都の裏には‘呪い、怨霊’の姿が見え隠れするというのです。
元々、皇位から最も遠い系統であった桓武天皇は、即位するまでに多くの
肉親たちを踏み台にしていきたと伝えられています。
平城京から遷都した長岡京は桂川流域に位置し、遷都後何故か?
度重なる大水害に見舞われました。
また、自分の側近を暗殺した罪で弟・早良親王(さわら)を獄死させた
事で、早良の怨霊に夜な夜な悩まされ、挙句に自分の夫人や母、皇后が
立て続けに突然死し、息子も原因不明の病気に襲われました。
絶大な武力と権力を握っていた桓武天皇は決して気弱な人ではなかったのですが、
こうも立て続けに天災や不運が重なると今ままで踏み台にしてきた人達の
怨霊の祟りでは?と不安になるのも無理もないこと。
そんな呪われた都からは早く逃れたいとの思いから、山背国に
遷都を計画し、自身の平安を得ようと‘平安京’と名づけたそうです。
平安京を造営するに際し、あらゆる宗教者を総動員して呪術の防御システムの
結界を張り廻らしました。
主に古代中国の風水が用いられ、碁盤の目に街を整備し、
街そのものを結界で繋いだのが今の京都なのです。
結界を結んでも効力がなれば、御霊神社や寺院を建て呪いを沈めてきたのです。
京都に今でも神社仏閣が多いののもその名残りなのです。
魔界と戦い封じる為に造られた街、それが京都誕生の真相でもあります。
そう思い京都を歩くとまた、ちがった楽しみ方が出来るのでは・・・
*写真は京見峠からみた京都の風景です。
年号を覚える時に語呂あわせで覚えた人も多いのでは?
そう‘鳴くよ’とは西暦794年の事で、今の京都に
平安京という都が移された年のことです。
以来、千年以上の長きにわたり日本の都であった京都。
その誕生にはいかなる理由があったのでしょう。
京都は遷都前‘山背の国’(やましろ)と呼ばれていました。
山背とは今の奈良県大和・平城京の後背地を意味していました。
時の天皇・桓武天皇は巨大になり過ぎた奈良仏教と僧侶の
政治への介入を嫌って、新天地への遷都を計画、
山紫水明の地で水陸の便のいい山背国が選ばれました。
ここまでは歴史の時間に習いましたね。
でも理由はぞれだけではなかったというのです。
それだけの理由なら平城京から最初に遷都された長岡京はなぜ?
10年足らずで遷都が必要だったのでしょうか?
平安京の遷都の裏には‘呪い、怨霊’の姿が見え隠れするというのです。
元々、皇位から最も遠い系統であった桓武天皇は、即位するまでに多くの
肉親たちを踏み台にしていきたと伝えられています。
平城京から遷都した長岡京は桂川流域に位置し、遷都後何故か?
度重なる大水害に見舞われました。
また、自分の側近を暗殺した罪で弟・早良親王(さわら)を獄死させた
事で、早良の怨霊に夜な夜な悩まされ、挙句に自分の夫人や母、皇后が
立て続けに突然死し、息子も原因不明の病気に襲われました。
絶大な武力と権力を握っていた桓武天皇は決して気弱な人ではなかったのですが、
こうも立て続けに天災や不運が重なると今ままで踏み台にしてきた人達の
怨霊の祟りでは?と不安になるのも無理もないこと。
そんな呪われた都からは早く逃れたいとの思いから、山背国に
遷都を計画し、自身の平安を得ようと‘平安京’と名づけたそうです。
平安京を造営するに際し、あらゆる宗教者を総動員して呪術の防御システムの
結界を張り廻らしました。
主に古代中国の風水が用いられ、碁盤の目に街を整備し、
街そのものを結界で繋いだのが今の京都なのです。
結界を結んでも効力がなれば、御霊神社や寺院を建て呪いを沈めてきたのです。
京都に今でも神社仏閣が多いののもその名残りなのです。
魔界と戦い封じる為に造られた街、それが京都誕生の真相でもあります。
そう思い京都を歩くとまた、ちがった楽しみ方が出来るのでは・・・
*写真は京見峠からみた京都の風景です。