今年のノーベル平和賞が日本時間の
7日午後に発表されたことは皆さん
ニュース等でご存知のことと思います。
今年は軍事目的の核拡散防止並びに
平和目的の核エネルギーの安全運用
に努めてきたことが評価された
IAEA(=国際原子力機関)と
IAEA・エルバラダイ事務局長の
受賞が決まりました。
ノーベル平和賞、この賞の事を聞くと私は
忘れる事の出来ない人物の事を思い出します。
その人の名は‘マザーテレサ’。
この人物こそ、私の人生観を大きく変え、
その後、最も影響を受けた人物です。
マザーにつては、今更私が説明するまでも
なく、その人生を貧しい人、病める人の為に
ささげ続けた現代の聖女と呼ばれていた
ことはあまりにも有名です。
私とマザーの出会いは、私がまだ新聞記者を
していた頃、ある人の取材を通じて知ること
になりました。恥ずかしながら、記者当時は
宗教や奉仕活動方面にあまり関心がなかった
もので、マザーの名前は知っていても
その人がどのような活動をされている方か
あまり詳しく知らなかったのです。
取材した方は年に何回もマザーの活動を手伝う
ボランティアとして、インドを訪れている
人で、写真や記録フイルムなどを見せて
頂く機会があったのです。
インド・カルカッタ・・・世界の貧困と
飢えの縮図のような街で、ただひたすらに
飢えに苦しみ、周囲から見放されて、
迫り来る死の恐怖におびえる人々を
献身的にお世話するマザーや
「神の愛の宣教師教会」のシスター達の
姿を見たとき、殺伐とした生活を送っていた
当時の私のカラダを激しい衝動が走りました。
彼の話やフイルムを聴き見ていくうちに
その衝動はいつしか和らぎ、今度は
清らかな水が乾いたスポンジに吸い込まれる
ような感覚に変わり、胸の奥に仕舞い込んだ
‘熱いもの’が沸き、心が揺り
動いたのを今でも覚えています。
私の見たマザーの持ち物といえば、質素な
白いサーリ(召使が着ている物)と草履だけ。
1979年のノーベル平和賞を受賞した
時も、この姿で檀上に上がり、
こうスピーチしています。
「私自身、そのような賞に値しません」
「でも貧しい者たちの代表としてこの
賞を受けることにしました」と。
恒例となっていた受賞パーティも、
マザーの意向で中止。「そんな費用が
あるなら貧しい人の為に使って欲しい」
という徹底したものでした。
飢えと病で道端で朽ち果てていく人々。
飢えから親に捨てられる赤ん坊。
ハンセン病で虐げられ生きる人々。
このような人達に、ただ、愛情と強固な
信仰心だけを心に持ち、奉げ続けるマザー。
人はマザーのそんな姿を見てこう言いました。
「幾ら奉仕をしても、政治や経済の仕組み、
社会を変革しなければ、何も変わらない」と。
そのような批判にもマザーは笑って答えます。
「私はただ、ある人のお世話をして、できれば
もう一人お世話するだけです」と。
本当に苦しんでいる人を救えるのは
豊かさや制度でもない。一人から一人。
母親のようなやさしさ、一対一の手渡しの
愛情なのです。
「私が貧しい人に与えているのでない。
貧しい人達が私に生きる素晴らしさを
与えてくれているのです」
「与えて下さい。心が痛むほどに・・・」
この言葉を聞いた時、私には流れてくる
涙をとめることが出来ませんでした。
その瞬間、私の胸の扉が開かれ、心は
確かにマザーの下へ飛んでいました。
インドでは何も持たない彼女達シスター
が、本当に楽しそうに笑っています。
人間の極限状態の場にその身を投げ出し
ながらも毎日、幸せそうです。
豊かになり、余計な物を持ちすぎた私の様な
日本人には、人として本当に必要なモノに
鈍感になってしまっていると感じました。
全てを捨てて、今の仕事について早いもの
で10年以上が過ぎようとしています。
今日のノーベル平和賞を見て、マザーに
触れた時の心が甦りました。
日々忙しい日常に流されて、またもや鈍感に
なっている自分を再認識し、見つめ治した
今日でした。
7日午後に発表されたことは皆さん
ニュース等でご存知のことと思います。
今年は軍事目的の核拡散防止並びに
平和目的の核エネルギーの安全運用
に努めてきたことが評価された
IAEA(=国際原子力機関)と
IAEA・エルバラダイ事務局長の
受賞が決まりました。
ノーベル平和賞、この賞の事を聞くと私は
忘れる事の出来ない人物の事を思い出します。
その人の名は‘マザーテレサ’。
この人物こそ、私の人生観を大きく変え、
その後、最も影響を受けた人物です。
マザーにつては、今更私が説明するまでも
なく、その人生を貧しい人、病める人の為に
ささげ続けた現代の聖女と呼ばれていた
ことはあまりにも有名です。
私とマザーの出会いは、私がまだ新聞記者を
していた頃、ある人の取材を通じて知ること
になりました。恥ずかしながら、記者当時は
宗教や奉仕活動方面にあまり関心がなかった
もので、マザーの名前は知っていても
その人がどのような活動をされている方か
あまり詳しく知らなかったのです。
取材した方は年に何回もマザーの活動を手伝う
ボランティアとして、インドを訪れている
人で、写真や記録フイルムなどを見せて
頂く機会があったのです。
インド・カルカッタ・・・世界の貧困と
飢えの縮図のような街で、ただひたすらに
飢えに苦しみ、周囲から見放されて、
迫り来る死の恐怖におびえる人々を
献身的にお世話するマザーや
「神の愛の宣教師教会」のシスター達の
姿を見たとき、殺伐とした生活を送っていた
当時の私のカラダを激しい衝動が走りました。
彼の話やフイルムを聴き見ていくうちに
その衝動はいつしか和らぎ、今度は
清らかな水が乾いたスポンジに吸い込まれる
ような感覚に変わり、胸の奥に仕舞い込んだ
‘熱いもの’が沸き、心が揺り
動いたのを今でも覚えています。
私の見たマザーの持ち物といえば、質素な
白いサーリ(召使が着ている物)と草履だけ。
1979年のノーベル平和賞を受賞した
時も、この姿で檀上に上がり、
こうスピーチしています。
「私自身、そのような賞に値しません」
「でも貧しい者たちの代表としてこの
賞を受けることにしました」と。
恒例となっていた受賞パーティも、
マザーの意向で中止。「そんな費用が
あるなら貧しい人の為に使って欲しい」
という徹底したものでした。
飢えと病で道端で朽ち果てていく人々。
飢えから親に捨てられる赤ん坊。
ハンセン病で虐げられ生きる人々。
このような人達に、ただ、愛情と強固な
信仰心だけを心に持ち、奉げ続けるマザー。
人はマザーのそんな姿を見てこう言いました。
「幾ら奉仕をしても、政治や経済の仕組み、
社会を変革しなければ、何も変わらない」と。
そのような批判にもマザーは笑って答えます。
「私はただ、ある人のお世話をして、できれば
もう一人お世話するだけです」と。
本当に苦しんでいる人を救えるのは
豊かさや制度でもない。一人から一人。
母親のようなやさしさ、一対一の手渡しの
愛情なのです。
「私が貧しい人に与えているのでない。
貧しい人達が私に生きる素晴らしさを
与えてくれているのです」
「与えて下さい。心が痛むほどに・・・」
この言葉を聞いた時、私には流れてくる
涙をとめることが出来ませんでした。
その瞬間、私の胸の扉が開かれ、心は
確かにマザーの下へ飛んでいました。
インドでは何も持たない彼女達シスター
が、本当に楽しそうに笑っています。
人間の極限状態の場にその身を投げ出し
ながらも毎日、幸せそうです。
豊かになり、余計な物を持ちすぎた私の様な
日本人には、人として本当に必要なモノに
鈍感になってしまっていると感じました。
全てを捨てて、今の仕事について早いもの
で10年以上が過ぎようとしています。
今日のノーベル平和賞を見て、マザーに
触れた時の心が甦りました。
日々忙しい日常に流されて、またもや鈍感に
なっている自分を再認識し、見つめ治した
今日でした。