保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

天竜川の事故を受けて。

2011-08-17 23:48:07 | 船頭
今日、三回目の操船終了後に天竜川の事故の事を聞きました。

我が家にはテレビがないので詳細についてはわかりません。

しかしながら、最悪の事態とのこと。

まずは事故で犠牲になられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

また、いまなお行方不明の方々のご無事を心よりお祈り致したく存じます。



今回の天竜川で発生した事故のことは、同じ川舟を生業とするものとして、
他者の出来事として捉えるのではなく、我が事に照らして重く受け止め、
さらなる安全運航体制の強化と操船技術の向上について、今以上に取り組み、
安心安全の川下りとして信頼していただけるように更なる努力精進してまいる
所存であります。


楽しい観光には、絶対的な安全性が不可欠です。


最高のサービスは安全であるという認識を胸に操船に当りたいと思います。


特に我々の仕事はわずかな失敗をも許されないのだという自覚を、船頭各自が
もう一度しっかり再認識することで、お越し下さるお客様に心から喜んでいただける
川下りを提供して参りたいと思う次第であります。


しかし、今夜は心が痛んで眠れそうにありません。

お盆特別企画最終稿、保津川で私の足を引っ張った‘もの’の正体とは?

2011-08-16 19:34:51 | スピリチュアル
京都ではもうすぐ「五山の送り火」が行われます。

お盆にお帰りいただいた「お精霊さん(おしょうらいさん)」と呼ぶ
ご先祖様の御霊を再び冥府へお送りする行事です。

お盆も今日で終わりということで、この保津川お盆特別企画も、
送り火とともにいよいよ今日が最終稿となります。

最後ということで、今日は私が保津川で実際に体験した
ことをお話ししたいと思います。

保津川下りの船頭の仕事で花形といわれる「さおさし」別名「さしこ」。

舟の舳先で迫りくる岩壁を一本の細い竹竿でかわしていく姿はまさに「匠の技」です。

私たち船頭にとってこの「竹竿」は命ともいわれ、とても大事な仕事道具です。

でも、まだ慣れない新人の頃は、そんな命ともいわれる大事な竿を、
川へ流してしまうことがよくあります。

そして、その日も舟の操船中に何気げなく川底に差した竿が
川の中に沈んでいる岩と岩の間に噛み、抜けなったのです。
こんな場合、竿を持つ手を素早く手前に起こし、抜き取るのですが、
その時はよほど強く噛んだのか?抜き取ることが出来ませんでした。
このままでは体ごと引っ張られ川へ落ちてしまう。 
仕方なく竿から手を離し、川へ刺さり突っ立つ状態で
竿を置いていくことになりました。

その日、2回目の操船中に同じ場所を通った時、竿の姿はなく、
少し下流の川岸に流れ着いているのがわかりました。

日ごろ、師匠の船頭からは「竿は船頭のいのち、粗末にしてはならない」と
強く教えられていましたし、事実、竿は貴重な仕事道具。
流してしまえば、どんなに時間が遅くても変わりの竿を作り、
用意しないと明日の仕事に間に合いません。

私は操船終了後、流れた竿を取りに行くことに決めました。
今ではひとり行く事はせず、最低二人で行くように言われていますが、
新人時代で付き添いをお願いする人はいません。
ひとりで車を運転して川沿いの山道を走りました。
竿が流れついた場所と思われる崖の上の道に車を停め、
その崖を下り、川岸へ向かいました。

下りてみると、竿は手を伸ばせば届くと思っていた「川岸」
ではなく、どう見ても2mは向こうの川に浮かんでいました。

これでは川へ入り、泳いでとるしか方法はありません。

時間は午後5時過ぎ、辺りは徐々にですが、薄暗くなってきていました。
水面もだんだん濃い緑色へと変色しているようにも感じました。
川の流れる音だけが聞こえ、人影ひとつない山深い渓谷のど真ん中。
目の前を小さな円を描きながら漂流する竹竿だけが、静かに秩序立った
川の風景にアクセントを付けている、そんな空間です。

靴のつま先が水辺に浸かりそうな川岸で、竿を見つめながら考えました。

私は泳ぎには自信があります。小学生の頃、伝統ある水術を教える
京都の踏水会で学び、琵琶湖遠泳も経験しています。
竿は川へ入ればすぐ手の届く場所にある。私は少し迷いましたが、
「思い切って入れば、ものの数分でかたが付くこと」。
私は意を決して服と靴を脱ぎ、川へ飛び込むことにしました。

川へ飛び込み、目の前に浮かぶ竿に手を伸ばそうとしたその時です!

急に足元にもの凄い圧がかかったと思った瞬間、
体が川底へ引きずられていくのを感じました。

「ヤバい!」恐怖感が体と脳裏全体を襲いました。

「なんなんだ、これは!」そばの岩にしがみ付きましたが、
再び足元が岩の裏へ引きづり込まれていくのを感じました。

どうやら岩の底の部分が丸く内に凹んでおり、そこへ足が吸い込まれていくのです。
そう、水圧のようなもので体が川底へ引きずり込まれる、そんな感じです。

私は水中で足をまっすぐ揃えて伸ばし、背筋を使い大きく後ろへ蹴り、
その瞬間、岩をつかんでいる手に渾身の力を込め、懸垂の要領で
身体を持ち上げ、岩の上へ這い上がりました。

「ふう~助かった・・・」本当にそう実感できました。

竿はその岩から手の届くところへ舞い込んできてていたので
掴むことができ確保できました。
確保した竿を、川底へ突き刺し、ちょうど走り高跳びの要領で
岩から川岸へ跳び移りました。
とりあえず脱いだ服で体をふき、素早く着衣して、山道に止めてある
車へ向かい崖を上がりました。
車に着いた頃には、かなり日が陰っていたように思います。

帰りの車の中で「もし、あのまま川底へ引きずり込まれたいたら、今ごろは・・・」
と思うと背筋に鋭い悪寒が走り、背中を冷たい汗が伝うのがわかりました。

このように「川には魔物が棲んでいます」上から眺めていると
何気ない穏やかな流れだと思っていても、川の中は複雑な流れが絡み合っています。
思いもよらない変則的な水圧もかかってきます。
川に入るときは、十分注意してほしいと思います。

この話にも後日談があります。

それから10年近くが経ったある日、このブログに載せる川の風景写真を
撮ろうと、舟の舳先でデジカメを構えていると、水面をなにか大きな物体
が流れていくを発見しました。
「なんだろう?」とカメラ越しに見ていると、
それがモノではなく・・・・ということが、すぐにわかりました。

なぜか?今でもわからないのですが、私は思わずカメラのシャッターを
切っていたのです。
そして、その場所とは、竿を拾いにいったあの川岸だったのです・・・

水圧だと思っていた、あの水の力は、別の何かだったのでしょうか?
川は魔物です。

そして、その写真は、今も私のPCのデーターの中に保存されています。

お盆特別企画 第三弾 ある渓谷を走る鉄道で起こった出来事・・・

2011-08-15 20:59:09 | スピリチュアル
時は明治後期・・・日本各地では鉄道線路が敷設されはじめ、、
日本近代産業発展の象徴と呼ばれ推進されました。

鉄道網は、山々や田畑を破壊しながら張り巡らされ、集落形態や
機能にも大きな影響を与えていくことになりました。

そして、それはこれまで地に封印され縛られていた因縁をも掘り起こす
ことになったのです。

呪縛から解き放たれた無数の念は、今もこの世を彷徨い続けている・・・


これはある山深い谷に敷かれた鉄道の話。

当時の近代技術の粋を尽くし、日本鉄道史にも残る鉄道線路が
深い谷山を削るように敷設されました。

谷合を流れる川を横断する巨大な鉄橋も、当時では最高レベルの
設計と施工方法で近代技術絢爛なる構造物でした。

さて、ここから本題です。

この鉄道完成に多大な力を注いだある偉人がいました。

その偉人、あろうことか、後年、自分が敷いたこの鉄道の脱線事故で
皮肉にもその生涯を終えることになったのです。
しかも、その象徴的構造物である鉄橋から川へ落下したことが
直接の死因というから何ともやり切れない。

事故後、懸命の捜索が行なわれましたが、どういう訳か?
彼の遺骸だけは見つかりませんでした。

結局「捜索は打ち切られ『行方不明者』として処理された。」
と、一部の文献には記載されています。

がしかし、本当は見つかっていたといわれています。
事実、死体の引き揚げに協力したという地元の男性の証言も
調書に記録されているといいますから、遺骸は見つかったのですね。

では、なぜ「死体は見つからなかった」という話がまことしやか
伝えられてきたのか?

実はこの死体発見が不可解な事情により見つかったということが
大きく影響しているともいわれ、また見つかった場所にも問題が
あるというのです。

この話によると、この鉄道線路の敷設工事中、路線計画ルートと
なる山裾の急傾斜地に小さな祠が発見されていました。
参道すらない山すそに建つ小さな祠は、もう長い年月、誰も参った
形跡すらない粗末なものであったため、線路敷設は計画通り進められ、
祠も移動させられたといいます。
その時、その祠の下から無数の白蛇が出てきたという証言もあります。

この祠の神様は「大山祗神(おおやまづみのかみ)」という日本を代表する
「山の神様」です。岩壁には「不動明王像」も彫られています。

偉人の遺族や関係者は「なんとか亡骸が見つかりますように」と京都市内の神社で
祈祷をしてもらったところ、神主は「これは大山祗神様の怒りだ」と告げました。
そこで、鉄道敷設で蔑ろになっていた「祠」をきれいに整備し直し、
参拝され、これまでのことを懺悔したところ、、不思議にも偉人の亡骸は
すぐに発見されたというのです。
それも、その祠の直下を流れる川縁に舞い込む様に沈んでいたと!


あれから約100年の歳月が流れました。

それ以降もこの鉄道では度々不思議な事が起こったといいます。

そして、私も昨年、この列車に乗車した時、はっきりと目撃しました!
こんなことを証言すると「おかしな奴」と思われるかもしれませんが、
見えたものは「見えた」と言うしかなく・・・

車窓から眼下の川を眺めていた時、対岸の石積みの上に
しゃがみ込み、こちらを見上げていた女の子の姿が・・・

その子はしばらく不思議そうに、そう「不思議そうに」こちらを眺めていて
私と目が合ったのです!そして・・・笑った・・・そう、確かに笑ったのです。


はっきり言いましょう。 夜、ここには無数の霊体の存在を感じます。

その場を通った時、冷たい風が私の頬を触れていくのを感じました。
これは、ただの思い過ごしなのでしょうか?


日本中の鉄道線路には、この様な話がいっぱいあります。

先日も北陸のある路線で、線路上に老婆が歩いているのを運転手が発見し、
急停車したが、間に合わず、接触事故を起したといいいます。
「やってしまった!」慌てた運転手が電車から飛び降り、
電車の下部を覗き込んだが、不思議なことに老婆の影も形もなかったいう。
これは翌日の新聞記事に掲載された実話です。

これと似た話は枚挙に暇がないほど、日本各地の線路であります。
一部、作り話や誇張される向きもないではないが、自然を無秩序に
破壊し、生きている生物や木など植物を虐殺したことは事実。

古来より自然信仰を尊ぶこの国の人々が、富国強兵路線を目指す余り
「人が中心」の西洋合理主義を輸入し近代化を果たしたことで、
「国の大地と地縛的な霊魂」が何らかのメッセージを
我々に伝えようとしているのでしょうか?

そこでは今も、多くの霊魂が彷徨っていると感じています。

お盆特別企画 第二弾! 伝承・二つの「うばがぶち」 どこだ・・・

2011-08-14 20:29:21 | スピリチュアル
保津川下りの舟に乗り込み乗船場を出発して、右岸の堤防沿いの浅瀬を行くと
しばらくすると堤防が分離され、古い「石積の護岸」横の早瀬から広い渕に
でてきます。この深く流れも緩やかなこの淵を「うばがぶち」と呼び、
ここが、昔からこわ~い伝説がある渕なのです。

この淵の右岸側を「姥ヶ渕」、左岸側を「乳母ヶ渕」。
どちらも「うばがぶち」と読みますが、それぞれ違うお話です。

先ず右岸の「姥ヶ渕」
各地方で語られる「姥ヶ火の鬼婆伝説」に似ていますが、
保津川ではもう少しリアルで空恐ろしい話なのであります。

昔この亀岡がまだ丹波国・亀山と呼ばれていた頃、夜中、この渕に
大きさ約一尺(約30センチメートル)の火の玉が現れるの「見た!」
という村人からの目撃証言が多く寄せられたといいます。

夜の保津川、灯りひとつない暗い渕に火の玉が飛び回る。
この光景を想像しただけでも「夜の保津川」を知る私としては、
もう十分怖いと感じますが、正体はどうやらある老女の亡霊だというのです。

古い伝承書『古今百物語評判』によれば、かつて亀山(現・京都府亀岡市)の
近くに住む老女が、子供に奉公先を斡旋するといって、親から金を受け取り、
その子供を保津川に流していたというのです。やがて天罰が下ったのか、
老女は洪水に遭って溺死したといいます。それ以来、保津川には怪火が
現れるようになり、人はこれをその老婆の霊で、姥ヶ火と呼び恐れたといいます。
そして、その姥ヶ火が人の肩をかすめて飛び去ると、その人は3年以内に
死んでしまったというから、なんとも怖い話ではありませんか?

さて、左岸側の「乳母ヶ渕」です。
こちらは、丹波亀山城藩主の青山某というお殿様の嫡男の乳母をされていた女性が、
その若君を川で遊ばせていたところ、間違って溺れさせてしまい、命を落とすと
いう事故が起こりました。
その乳母は若君を死なせてしまった責任を感じ、この渕で投身したといいます。
この悲話は亀山の村々に伝承されいつしか「乳母ヶ渕」と呼ばれる様になった
のです。

この渕で目撃される火の玉は、鬼婆の霊だけでなく、この悲劇の乳母の
無念の灯火でもあったのかもしれませんね。

そして近年、この渕である事件が・・・これはちょっと言えませんが、
それはとても悲惨で恐ろしい出来事でした。

怖い伝説が伝承されるミステリースポット「うばがぶち」
さて、お越し下さる皆様、その渕はどこなのか?おわかりになるでしょうか・・・

お盆特別企画、保津川にまつわる「不思議はなし」

2011-08-13 17:44:56 | スピリチュアル
日本は今日からお盆休暇に突入ですね!

保津川下りも昨日の混雑予報が的中して、なんと106隻の船が保津峡を
流れて行くという大盛況、この夏一番の大入りを発令いたしました。

さて、話は変わって、お盆といえば「お精霊」がお帰りになる日々。
そこで今日は、保津峡にまつわる「不思議はなし」を一つご紹介したいと思います。

保津川が流れる亀岡の農村に貧しい母娘がいました。
父親は長い闘病生活の上、亡くなり、その医療費等で借金を抱え
農家の日雇い仕事で細々と暮らす日々。

しかし、娘は近隣の村々にもきこえて美女で、求婚を求める男性が
あとを絶ちません。
ある日、大地主の息子が求婚を願いにやってきた。
母娘が借りていた医療代も肩代わりし、母親のために家を建てて老後の
暮らしも保障するという好条件を出してきた。

心が動いた母娘はこの申し出を受け入れ、婚約をした。

母親は娘に婚礼衣装で恥をかかせてはいけないと、京都市内中の
古着屋を回り、値ごろで見栄えのいい振袖を手に入れた。
長襦袢は自らの手で縫ってやった。

そして婚礼の日、花嫁衣裳の娘は運悪く道中激しい雷雨にあう。
何とか乾かせて挙式は終えたものの、お色直しで振袖を脱ごうとすると
縫い目がピリピリと音をたてて裂け、純白の長襦袢には振袖の染が
べっとり染みついていた。
母親は「劣悪品」をつかまされたのであった。
地主の親族たちは驚き、口々に話だし、あからさまな軽蔑のまなざし
を向けたことだろう。

新郎にも大恥をかかせる結果となった。

十日後、赤いしごきでつなぎ合った母娘の遺骸が嵐山の橋のたもとに
上がった。振袖は、亀岡近くの保津川の岩にたたんで置かれていた。
その上には「狐の嫁入り」と書いた紙が二足の女下駄で押えてあったという。

この話は後日談がある。
母娘の供養のためにと、村人がこの振袖を屏風に仕立ててもらおうと
上御霊神社近くの表具屋へ持ち込んだが、その二人はほどなく死に、
あと一人は行方不明となったという。

そして、京都の人に聞くと、上御霊神社の近くにはそんな「表具屋」は
存在しないというのだ・・・


保津川の激しい流れが岩を噛む姿を眺めていると、赤いしごきでつなぎ合いながら
入水した貧しい哀れな母娘が、そこから立ち現れてきそうな気がする・・・かも・・・


これのお話は劇作家の田中澄江さん作「雨にぬれた振袖」から。


この話に限らず、保津川の歴史の中には、このような不思議な話や
哀しい話がたくさんあります。

次回も続けて「保津川の不思議はなし」について紹介したいと思います。

お盆休暇に突入!保津川下りにも混雑予報が発令。

2011-08-12 20:50:08 | 保津川下り案内
さてさて日本全国、お盆ですね!

この休暇を利用して、お里へ帰る人、また家族で旅行に出かける人など
様々なお盆休みを過ごされることと思います。

保津川下りも毎年、この時期には大勢のお客さんがお越しになり
この夏一番のにぎわいをみせることが予想されます。

特に明日から16日の4日間は我々船頭もフル回転!体力、気力の戦いを
繰り広げることになると思います。

その傾向は今日もみられなんと84隻もの船が保津峡を流れていきました。

この調子なら明日は100隻越えもあるかもしれません。

まさに「保津川下り・混雑予報」が発令されそうな勢いです。

明日以降、正午頃から少し混雑が出て、待ち時間も出る可能性もありますが、
お時間の許される方は、新しくなった売店や保津川茶屋の抹茶わらび餅など
をご賞味いただきながら、お持ち下さると幸いです。

すぐに船頭も嵐山からUターンしてまいります。

保津川下りは通常午後3時半終了なのですが、トロッコ列車の亀岡駅から
保津川乗船場までやってくる直行バスが、道路状況等に影響により、
少し遅れることも予想されることから、4時を過ぎても出航することが
あります。嵐山に着くのが6時頃となりますが、まだまだ日が明るいので
夕方の予定に余裕のある方は最終船もねらい目です。
日が陰り、山々に吹く風も涼やかになるので‘涼’を求められる
方には絶好の夕涼み船となりますよ。
一度、お試しください。

なお、この期間中も個人での予約はお受けできませんので、ご了承ください。

さて、猛暑が続いております。

渓谷の山、川に吹く涼風とセミの鳴く声に耳を傾けながら、
舟に揺られながら、夏の思い出をおつくり下さい。

「保津川茶屋」この夏一番のおみやげ 「京風 抹茶わらび餅」

2011-08-10 11:14:08 | 保津川下り案内
保津川下りの乗船待合室に小さなお店を構える「保津川茶屋」。

このお店が今年の夏にお届けする新商品「京風 抹茶わらび餅」が
観光客の皆様に凄い人気となっております。

宇治抹茶を練り込んだ自家製のわらび餅に抹茶粉をまぶし
作り上げた「京都ならではのわらび餅」です。

従来のきな粉わらび餅と抹茶わらびの相性が抜群です。

抹茶のさっぱりした後味が、わらび餅の甘味を引き立て
しつこくなく上品は味わいです。


抹茶ときな粉という二色の色彩も鮮やかで、見た目からも
京情緒を感じながら味わえるわらび餅です。

保津川下りの船旅に持ち込めば、さらに京都の旅を体感と食感から
味わって感じて貰えること間違いなし!

今年の夏、保津川下りがお届けする、いち押しの「新商品」です。

是非、保津川下りの乗船場待合所でお求め下さい。

「抹茶わらび餅」のみ、また「きな粉わらび餅」のみの商品もございます。


「保津川茶屋」(乗船場待合室内)

「京風 わらび餅」 定価300円。
ソフトクリーム   定価300円。


京都のお精霊さん・「六道まいり」

2011-08-09 22:45:23 | シリーズ・京都を歩く
いよいよ‘お盆’が近づいてきました。

京都では16日の「五山の送り火」までお盆行事が目白押しです。

冥界から現世へお帰り下さる「ご先祖さま」にも‘おもてなし’の
心で接する京都の人の伝統的な宗教行事の始まりは「六道まいり」
で有名な「六道珍皇寺」の 盂蘭盆会 から。

平安時代、弘法大師の師匠にあたる慶俊僧都(きょうしゅんそうず)が開いた古刹・珍皇寺。

門前の「六道の辻」と呼ばれる四つ辻が現世と冥界との境目に当る場所とされ
京都では珍皇寺のことを「六道さん」と呼んで親しんでいる寺。

ここを入口から東山へ登った所が、吉田兼好の「徒然草」に出て来る鳥辺野の葬祭墓地
で、遠い昔は死人の殆どがこの地に運ばれ捨てられていたので「六道の辻」
と呼ばれたそうです。

「六道」とは「地獄・餓鬼・鬼畜・修羅・人間・天上」
という6種類の冥界の階級を指す言葉。

お盆に帰ってくる霊を「せめて、六道の辻までお迎えにいこう」
ということで始まった行事といわれています。


珍皇寺の境内にあるのが「鐘楼」は、鐘の音は冥土まで届き、死者の霊が
この世に呼び寄せられるという。
毎年盂蘭盆(うらぼん)の7~10日には精霊が宿るといわれる霊木・高野槙の穂枝を
参道で買い、本堂で故人の戒名を水塔姿に書いてもらって先祖の魂を呼び寄せる
「迎え鐘」を参拝者自身で突いて精霊を呼び寄せるのです。
精霊が宿るといわれる霊木・高野槙の穂枝を参道で買い、本堂で故人の戒名を
水塔姿に書いてもらい

鐘はお堂の中に封印され外からは見ることができませんが、お堂から垂れ出ている
撞木に繋いだ綱を引くことで鐘を鳴らします。
他の寺の様に‘叩く’というのではなく、綱を引くことで
鐘がなるという、まるで神社の鈴のようなつくりが面白いです。

鐘の音が冥土まで届くという珍皇寺には、冥土への入口がある
と信じられており、実際、ここから冥土と現世を往復していたと
いわれる人物が、参議を務めていた「小野篁(たかむら)」です。

篁は奇才と呼ばれる特殊な優秀さがあった人で、昼は朝廷の仕事
をして夜は冥界でえん魔大王の片腕官吏として働いたといわれる
「京都魔界列伝」には必ず登場する謎深い人物でもあります。

篁は夜になると境内にある井戸から冥界へ入っていたといわれ、
今もその伝説の井戸は残っています。

ちなみに出口は嵯峨の釈迦堂横の嵯峨薬師寺にあります。

珍皇寺境内にある「篁堂」という小堂には篁の像の隣にえん魔さまの像も安置してあります。

六道珍皇寺の鐘を鳴らし、ご先祖さまをお迎えする
行事で始まった京都伝統のお盆は、16日のお見送り
行事である五山の送り火まで続きます。

☆六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)
 京都市東山区東大路通松原西入ル小松町595
 「六道まいり」盂蘭盆会 7日(日)~10(水)
 期間中は重文本尊の薬師如来像の特別開帳や寺宝の地獄絵も
 公開されます。参道には露店も並び「幽霊飴」も売られます。

保津川花火大会をみて‘今’の社会を見る。

2011-08-08 19:17:38 | プロジェクト・保津川
昨夜は亀岡市が最も熱く盛り上がる夜「保津川平和花火大会」が
保津大橋周辺で開催された。

今年は日曜日にあたることから、花火が打ち上げられる保津川の大橋
一帯には、市内外から花火鑑賞を楽しむ大勢の人でにぎわった。

私は、「NPO法人プロジェクト保津川」が、花火鑑賞者の出す
ゴミを回収する活動「保津川エコ・ステーション」のボランティアスタッフ
として参加した。

このエコ・ステーションは、花火の楽しみのひとつである「夜店・屋台」会場
に分別スタイルのゴミ箱を設置して、飲食後に出たゴミを置き去りにするの
でなくゴミ箱にしっかりと捨ててもらう習慣をつけてもらうために実施する
もので、我々NPOが、主催する亀岡市商工会議所に提案し3年前から
行っている活動だ。
それまでは「ゴミは各自で持ち帰ること」という原則のもと、会場には
一切ゴミ箱を設置しなかったことで、毎年、花火大会の翌朝はゴミが散乱し
街がゴーストタウンの様相を呈していた。
「モラル」に訴えるだけでは物事は何も改善されない。
ゴミ箱を設置することで、今では殆どの鑑賞者が、5箇所設けた
どこかのステーションに持ってきて下さるようになった。
しかも「ペットボトル」「空き缶」「その他ゴミ」と分別して
捨てて下るまで、人の意識が高まったのである。
桂川府議もよく仰るが「動けば変わるのである」

従来のやり方で現状が何ひとつ進展しないなら、いつまでも思考停止状態を
続け、考えないというのではなく、新たなアクションを起こし実践してみることで
事態を改善するという「実例」を示せたものと自負するところである。

回収集計は1000Lゴミ袋が96袋も出た。種類はペットボトルとかき氷の容器
で7割以上を占め、この時期の屋台商品の売れ筋も把握できた感じだ。

さて、今年の保津川花火大会、観覧できるスポットが増えた。
そう、我々の仕事場である保津川下りの乗船場と堤防の法面だ。

今年2月の乗船場移転に伴い旧乗船場跡のスペースが空いた上に、
新たな乗船場や新社屋と川岸までの階段、新堤防の法面などが
河川改修工事により整備され、図らずしもそこが絶好の花火観覧席
として新たに創造される形となったのだ。

皆さん、よく知ったもので、営業が終了した保津川下りの乗船場には
椅子やテーブル、ピクニックシートなどを広げて早くも陣取り合戦が
はじまり大勢の家族連れやカップル、グループで打ち上げ2時間前には
隙間もないほどに埋め尽くされた。

最終船に行きそびれた保津川下りの舟もつないであるが、別に亀岡らしい
雰囲気を演出したわけではない。ただ単にお客さんの数が予想より少なったため、
舟の用意はしたものの出航できなかっただけ、ただそれだけなのだが・・・
花火が上がる頃には辺りは暗くなり、川畔は足場もわかり難くなり
「川に落ちたりしないか?」「法面から転げ落ちたりしないか?」
心配していたが、聞くところによるとやはり「けが人」もあったようだ。

関係者からは「来年度からは立ち入り禁止の規制も含め対策を考えなければ・・・」
などの意見もある様だが、本来は「何処で見るか」や「何か事が起こった時」
なども、規制ばかり掛けるのでなくあくまで自己責任で判断していただきたいもの。

折角いいスポットが新たに出来たのに「ここもダメ、あそこも立ち入り禁止」の
方向にすぐ傾くことは寂しい限りだ。
川の難が起こるとすぐに「川は危険だか近づくな」という発想と
同じように感じる。

これも何かあるとすぐに他者(管理者)に責任の転嫁や所在を追及する
という国民の「甘えの構造」に起因するものだろうが・・・
なんとも閉塞感をおぼえる話だ。

海外諸国のような原則「自己責任」という成熟した思考と意識が
日本はあまりにも低いと感じる。
その意識が、公共スペースでの礼儀や遊び方も知らない人種を
増殖しているような気がしてならない。

花火大会を少し異なる角度から見るだけで‘今’の社会を
少し垣間見ることができたと感じるのである。

今夜は保津川花火大会です。

2011-08-07 10:44:20 | 京都情報
今夜は亀岡市保津川河川敷で保津川花火大会が開催されます。


今年は世界平和祈願に加え震災復興への祈りを込めて開催します。


花火打ち上げは午後8時から。

5000発の様々な形の花火が、真夏日の夜空に鮮やかな‘しるし’を刻みます。


見る人、それぞれの思いを夜空に映す、花火の宴。

今夜、どうぞ保津川へお越し下さい。