連載小説「もう一つの風景(最終回)」
もう一つの風景
25
一眠りしろと勧める木田を振り切るようにしてKは病院を出た。
何事もなかったように街は眠っている。星も月もない、濃紺の空は、ビルの背後や、民家の背後から立ち上がり、球形の内側を這い上がる軌跡を造っていた。Kは自分がうつぶせに置かれた碗のなかに居るような気がした。歩けば歩くぶんだけ碗はずり下がり、果てしなく身体を覆い続ける様だ。
彼は当て所なく歩きだした。自分の影を追うように歩いた。
巨大な人影のように立ち竦む街路の木の横を、あかあかと照らし出された空っぽの電話ボックスの横を、時々通り過ぎていく車の横を、残飯をあさり、人の気配に遠ざかる犬の残像を睨みながら歩いた。
歩きながら、自分はひとりぼっちだと呟いた。誰にも優しくされたことがなかった。誰にも優しくしたこともなかった。
自業自得だと呟いた。
あの地獄から逃れた筈だった。
互いの欠点をあげつらうだけの男と女の生活。いつからそうなったのか分からない。結婚が打算だったからか、ただ人並みの生活の殻を求めていたためなのか。
ガスの吹き出す音が聞こえてくる。冷静にガスの栓を締め次に窓を開け、妻の死を確認した時、俺は何を思ったか。女とは簡単に死ねるものだ。そして、俺は開放された喜びをその深刻な顔の下に素早く隠しはしなかったか。後は演じればよい。時が忘却の幕を下ろすまで。
夥しい他人の時間の中で、自分の時間を失い、自分の時間の定義を忘れる。自分の時間も夥しい他人の時間の一コマにすぎないように思えてくる。
おまえは一時でも人を愛したことがあったか。それが、人の愛を渇望する。なんて喜劇だ。
Kは、誰も横切らない交差点で信号を待っているタクシーに手をあげた。
「悪いな、もう終わりなんよ」
人の良さそうな顔を窓から出して運転手は言った。
「頼むよ、困ってるんや」
Kは、腕を窓から差し込んで言った。
「適当に書いとってくれたらええんやから」
Kはタクシーチケットを渡した。
行き先を告げようとして、Kは口ごもった。誰もいない部屋に帰るのがたまらなく嫌な気がした。僅かな時間の後、明日がやってきて、一年一日のごとく自分が動きだす。車の外には誰もいない都会の静寂が流れている。煙草に火をつけた。
「今まで、仕事やってん。飯が食べたいんや。どっかやってるとこしらんか」
「今ごろやってる店かいな。オイルショックで深夜営業してるとこのうなったし」
空腹感はまるでないが、酒が欲しかった。
「運転手仲間の集まる店やったら一軒知ってるけどな」
「そこでええわ、行ってえな」
「阿部野やで、かまへんか。わしも、そこで飯くって会社へ帰るけど」
「かまへん」
「女も呼べまっせ」
運転手は、卑猥な笑いを浮かべた。
Kの目に霊安室の女の顔が浮かんだ。妻と同じ顔だと思った。その時下半身に小さな欲望がを感じた。Kはふかぶかとシートにもたれ掛かった。車は反動をつけるように、勢いよく動き出した。
「この時間に、酒のんでへん客乗せるんは珍しいことや」
運転手から話かけてきた。
Kは、前部座席のシートに掛かっている、タクシー運転手募集の広告を目の高さで見ていた。
「タクシー乗務員募集か? これ、あんたの会社のんか?」
「ああ、そうや」
「わしも、タクシーの運ちゃんになろか」
「あかん、あかん、しんどいだけや。やめときなはれ」
「せやけど、外へ出たら、うるさいやつもおらんし、気楽でええがな」
「まあな、それだけが取り柄や」
運転手はチラリとKの顔をみて人の良さそうな笑いを浮かべた。
Kは自分でも不思議な程饒舌だった。
昼間は車でひしめいている道路も閑散としている。車は滑るように、複雑な道を走り過ぎていく。
「都会ってこうして走ったら、遠いとおもとっても、意外と近いもんでしゃろ、もう、弁天町や、ちょつと、ゆっくり走りまっせ。道路に寝とるやつが時々おるよって」
電車の走らない高架の線路は都会にかかった細長い橋だ。夜は汚れものを隠し、光は生き物になっている。誰もがねぐらにおさまり、まだこない明日を信じている。Kは不思議な気がした。生きるということの正体は、知っているようで誰もしらないのかもしれない。まるで、樹液を吸い鳴くだけ鳴いて、次の瞬間には木から落ちていく蝉のようだ。鳴く意味も、樹液を吸う意味も、落ちる意味も知らない。一瞬々が、生の表現以外の何物でもない。
浮浪者が一人道端で座り込み、酒を呑んでいる。ライトに照らし出された男は、躊躇することなく、反射的に持っていた瓶を投げた。
運転手は意にかいした様子もなく男のそばを通り抜けた。
無視された男に代わって瓶の割れる音が、静寂な街に響いた。
Kの見知らない街が窓の外を流れていた。大阪に四十年住んでいても、知らない場所ばかりだ。車窓から覗く線路沿いの光景しか知らないのかも知れない。確かに、そういう意味で都会は深く広いのかも知れない。
車は商店街に入った。
「昼間は人ばっかりで、とおれんけど、今時はすいすいや。ゴミ箱あさりにくる、犬や猫ももう寝たんかしておらんわ」
犬、この街に犬の記憶がある。
路地で頭を割られていた犬。棒を振り下ろしていた男。
いつの頃だったのか、忘れている。夢の中の出来事かもしれない。殺されている犬にも、殺している男にも自分はなっていたように思う。
車が急に止まった。
「ここから先は車は入られへんよって、お客さん、降りてもらえまっか」
路地の中程に、明かりの点いている家が、一軒見えた。
「ほんまに秋やな、時間遅いと、季節がよう見えるわ」
運転手は大きなのびをして言った。
Kは、彼の顔半分に大きな痣があるのに初めて気づいた。
立て付けの悪い引き戸を開けると、店は意外にたてこんでいた。
不揃いなテーブルが四つ、カウンターの中に、中年の女がいた。天井の隅に消えたテレビが店内を見下ろしていた。一番端のテーブルに陣取っているのは、様々な制服を着たタクシーの運転手仲間だった。テレビの下で黙々と飯を食っている女は、年老いた売春婦に思えた。戸口には、派手な服を着た女が、大声で喋りながら、さかんに男の背中を叩いていた。
「ノンちゃん、どうや景気は?」
ノンちゃんと呼ばれた運転手は例のひとなつこい笑みを浮かべながら、
「あかんわ、もう、今日は店じまいや」
と、言って、背もたれを抱え椅子に逆に座り仲間と話始めた。仲間はKに一瞬好奇な目を向けたが、直ぐに、反らした。
Kは品がきに目をやりながら、尻を向けている運転手の前に腰を下ろした。
カウンターの中の女が注文を促す様にKをみている。
「酒もらおか」
「一級、二級?」
「特級や」
「特級? やめとき、水混ぜよるで」
尻を向けている運転手が痣のない方の顔を見せて言った。
「ノンちゃんしょうもないこといいなや」
女が初めて笑いを見せて言った。
「ほんまのこというてなにが悪いんや。二級に水混ぜて、特級やいうて、ばれたことないいうてたやないか」
「あほ、あれはな二級の燗冷ましに混ぜるんや」
「そうやそうや、二級の燗冷ましを特級の瓶に入れておいときよるんや。それにな、ちょつとだけ砂糖いれるんや」
仲間が口々に言う。
「あほいわんといて、お客さんほんまにしはるやんか」
Kは黙っていた。
「特級なんて、酒やないわい。なにもひがんでいうてんのちがうで」
後ろで、声がした、振り向くと、長身の男が、身を屈めるようにして、入ってきたところだった。かなり、酔っているのか足元がふらついていた。
彼は店内を見回し、一斉に見られたことを恥じるように身体を小さくした。
酔った身体を確かめるようにしながら、男はKのテーブルに近づいてきた。
「ここよろしおましゃろか?」
Kは黙ったまま身体を少し動かした。
自分と同じ年配だろうが、頭がかなり禿ていて、頭髪に白いものが目立った。
男は自分の位置を確かめるように、両手を伸ばしてテーブルの上に置いた。長くて細い指だ。箸よりも重いものを持ったことのない手だと思った。
男の目はすっと伸ばした指先に落ちている。小心そうな目をしているが、落ち着いた目の色をしていた。いらつきもなく、澄んだ目で自分の指先を見ている。男は自分が逃げ出した家の事を考えていた。思い詰めるという風でなく、ふと、思い付いたという風に指先に重ねていた。
運転手は、飯をかきこんでいる。一人二人と仲間は席を立った。
「ノンちゃん、おさきに」
男達は、決まって痣とは逆の肩を叩いて、店を出ていった。
顔の痣なんて、なんてことないと、人は言うだろう。だが、それは痣のない人間の言葉だ。時として、痣のない半分の方の顔を見せて笑っている彼の言葉だ。
「その痣、どうしゃはったんですか?」
指先を見ていた男が急に顔を上げてポッリと言った。
「生まれつきや」
運転手の目に、一瞬狂暴な色が流れ、直ぐに消えた。
「初対面で、赤の他人やのに、そんな事聞いたんは、おっさんが初めてや、夫婦げんかしても、嫁はんも言うたことないのに」
Kは酒をコップに注いだ。
「どや、一杯」
銚子を運転手の目の前に上げた。
「あほかいな、車やで」
彼は笑いながら手を振った。
「せやけど、うまそうやな。ちょっと車、会社へ入れてくるわ。お客さんかまへんか」
Kは呆気に取られて、出て行く運転手を見送った。彼は、ここが、Kの行き先だと思ったのだろうか?
カウンター越しに、柱時計が二時を回ったのが見えた。一晩変わった場所で、変わった時間を過ごすのも悪い気はしない。成り行きに任せて、時を枕に、ぼんやりとしているのが、今の自分に一番合っているように思える。眠気が全く襲ってこないのも好都合だった。Kは、二本目の酒を頼み、隣の男をチラッと盗み見た。
男は背筋を伸ばして、飯を食っている。酔っていると思ったのは、彼の錯覚だったのだろうか? その姿には、毅然としたものさえ感じられる。この男は育ちがいいんだ。箸の持ちかた、口の動かし方、俺のような下品な育ちではない。しかし、育ちが上等でも、下品でも、この場所で飯を食っていることには変わりはない。いや上品だからこそ、みじめさが強く浮き上がる。
だが、男はそんなことを一向に気にしている風には見えない。貧しい食事を楽しんでいるように思える。
「猪口一個、まわしたってんか」
Kはカウンターの中の女に言った。
「一杯どうでっか?」
猪口を男の前に置いて、Kは銚子を出した。
男は、Kの言葉に身体をビクリと動かした。悠然としているようで、小心なのかもしれない。二度と会わないであろう他人を一々観察している自分が、ふと、いやになった。
隣あわせて酒を呑み合うのに理屈は必要ないだろう。しかし、彼は、今何故ここで酒を呑んでいるのだろうか?
忘れてしまいたい過去と、なんの希望もみいだせない未来、自分はそれが、唯一の生きている証明のように苛立っていた。酒を呑むと少しずつ鱗が剥がれ始める。まず、今の職場を去ることが、既成の事実のように思えてくる。その時は、あの男を只で済ましておかない。惨めな笑い者にして、今までの復讐をしてやる。その為の方法を酔った頭で考える。全てが実現可能な簡単なことに思える。
しかし、その元凶は、あの白い建物だ。なんて陰気な職場だ。病人の吐き出す金に群がり、蛭のように血を吸う。病人の為になんて、少なくとも俺には関心のないことだ。俺の周りの何処に病人がいる。あるのは病人の吐き出した金と等価の書類だけだ。院長は俺たちを、必要経費だと呼び、必要は最小限度を理想とすると言ったという噂だ。
あの女は病院に復讐をしたのではないだろうか? Kはふと思った。その理由は考えないが、何故かそれが一番合っているように思った。
「えらいすんまへん」
男は杯を啜った。
「わしからも、一本つけさしてもらいますわ」
いつの間にか、男も新しい銚子を持っている。
「ねえちゃん、なんかつまみとってな」
男が言う。
「ここにあるもん勝手にとっていったらええやろ」
女がうるさそうに応える。
「そこまで行くのんおとろしいがな」
「あんた奈良の出か?」
Kが口を挟んだ。
「ええ、そうですねん」
光雄は、急に話しかけてきた小男の胸あたりに視線を落として言った。今日一日の日当を全て無くしてしまった後だったが、彼には奇妙な満足感があった。一日の汗の分が、一瞬に消えた時、後悔よりも、壮快さを感じた。自分の食べる分だけの金があればいい。それさえなくなった時は、路地の残飯をあさることも気おくれしなくなっていた。
なんやかやいうても生きていけるんや、死ぬ時の事を考えてもしやない。彼は、四六時中呟き続けていた。人がどう思おと構わない。そうも呟いた。
胸の奥に黒い固まりがある。その存在に気づく時彼は呟き続けた。
二人は無言で酒を交わし続けた。
お互い相手を語る言葉も、自分を語る言葉も失っていた。
酒が神経を麻痺させていく。つまらない明日を忘れさせる。
店の構造がKの目の中で普段の場所に変化していた。カウンターの向こうに三畳ほどの板の間があり、眠っている子供の頭が見えた。
カウンターに直に並べられたおかずの皿に、時々秋の蠅がたかるのだろうか、女は思い出したように蠅を追う手の動作を繰り返していた。その横に大きな鍋が湯気を立てていた。カウンターの上や壁に張られた品書きは、くろずみ、滲み、剥がれているものもあった。店は、静かになり、Kと光雄の二人になったらしい。
運転手は帰ってこない。やっと、逃げたのだと分かった。女に聞いても無駄だろが、
「運転手帰ってこんな」
と、話かけた。
「あたりまえや、今ごろは、夢のなかや、よっぱらいにいつまでもつきおうてられへんからやろ」
「どいつもこいつも」
Kが吐き棄てた。
「あいつの家どこやねん」
「しらん、せやけど、聞いてどうするんや」
「家に火つけたる」
「しょうもない、それより、もう店しまうよって」
女がカウンターから出てきた。
いつのまにか、男は膝に顎を乗せた犬の頭を撫でている。犬が何時店に入ってきたのか、Kは知らなかった。
男は、掌に小さな肉片を乗せ、犬の長い舌に、嘗めさせている。そして、片方の手が、執拗に犬の頭を撫で続けている。
「あんた、このへんに、泊まるとこあるか」
Kは言った。
男は、犬を撫でる手を止めずに、
「なんぼでもある。今やったら、公園に寝てもええ気候や」
と、言った。
二人は坂を下っている。
深い闇の中にどんどん落ちて行く気がする。底なしの闇に、どんどん落ちて行く気がする。
高い石塀に、手を添えて歩く。
「女郎が逃げんように、造ったんやて、なんで、今ごろまでのこってんのやろ」
光雄がKの背後で言った。Kは無言で歩き続けた。
「森之宮の、焼け跡と一緒なんやろか」 「おっさん、しょうもないこというてんと、はよ、寝るとこつれてえな。俺ねむたいんや、ものすごうねむたいんや」
Kは甘えるように言った。光雄は、男の背中が闇の中で小さく揺れながら、坂を落ちていくのを見ていた。この小男は怒りを身体一杯に含んでいる。また、それを爆発させないように、怒りを抱いたまま、誰も知らない彼の闇に落ちていく。
「わし、犬が好きや。餌やったら、尾を振ってくれよる。一日飼うたら、すぐになつきよる。かいしょなしやいうて、なじったりせえへん」
そう言いながら、光雄は道路を睨み、吸い殻を素早く拾って火をつけた。
「わしは、犬が嫌いや。とくに繋がれている犬みたら、吐き気がしょる。繋がれとる犬は、こっちが睨んでも逃げようとしよらん。俺は安全やから、勝手になんでもさらせいうよな顔しとる。俺は家の前に繋がれとる犬殺したったことある。朝起きた時の飼い主の顔見たかったわ」
喋りながら、あいつが犬を自慢していたのを思い出した。五つも年下の上司。あいつの犬の頭を砕いている自分の姿が浮かび上がった。
「つながれてる犬は逃げられへんの分かってるから、じっとしとるんや」
光雄が言った。
Kは振り向いて言った。
「俺ねむたいんや、ものすごうねむたいんや」
それ以後、二人は喋るのを止めた。
公園で眠る人間は、沢山いているだろうに、その気配が全くしない。
ちいさな明かりに、思い出したように浮かぶ薄い影を引きずりながら、二人は歩いた。闇の底から聞こえてくる、動物たちの啼き声は、風の音に混じり、どこか悲しげに聞こえた。それは、男たちの息の音に似ていた。動物園の高い塀に沿って、二人は、闇に落ちていくように歩いた。
平成二十八年三月六日(日) 了
お読みいただいてありがとうございました。
何なりとコメントをいただければ幸いです。
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一眠りしろと勧める木田を振り切るようにしてKは病院を出た。
何事もなかったように街は眠っている。星も月もない、濃紺の空は、ビルの背後や、民家の背後から立ち上がり、球形の内側を這い上がる軌跡を造っていた。Kは自分がうつぶせに置かれた碗のなかに居るような気がした。歩けば歩くぶんだけ碗はずり下がり、果てしなく身体を覆い続ける様だ。
彼は当て所なく歩きだした。自分の影を追うように歩いた。
巨大な人影のように立ち竦む街路の木の横を、あかあかと照らし出された空っぽの電話ボックスの横を、時々通り過ぎていく車の横を、残飯をあさり、人の気配に遠ざかる犬の残像を睨みながら歩いた。
歩きながら、自分はひとりぼっちだと呟いた。誰にも優しくされたことがなかった。誰にも優しくしたこともなかった。
自業自得だと呟いた。
あの地獄から逃れた筈だった。
互いの欠点をあげつらうだけの男と女の生活。いつからそうなったのか分からない。結婚が打算だったからか、ただ人並みの生活の殻を求めていたためなのか。
ガスの吹き出す音が聞こえてくる。冷静にガスの栓を締め次に窓を開け、妻の死を確認した時、俺は何を思ったか。女とは簡単に死ねるものだ。そして、俺は開放された喜びをその深刻な顔の下に素早く隠しはしなかったか。後は演じればよい。時が忘却の幕を下ろすまで。
夥しい他人の時間の中で、自分の時間を失い、自分の時間の定義を忘れる。自分の時間も夥しい他人の時間の一コマにすぎないように思えてくる。
おまえは一時でも人を愛したことがあったか。それが、人の愛を渇望する。なんて喜劇だ。
Kは、誰も横切らない交差点で信号を待っているタクシーに手をあげた。
「悪いな、もう終わりなんよ」
人の良さそうな顔を窓から出して運転手は言った。
「頼むよ、困ってるんや」
Kは、腕を窓から差し込んで言った。
「適当に書いとってくれたらええんやから」
Kはタクシーチケットを渡した。
行き先を告げようとして、Kは口ごもった。誰もいない部屋に帰るのがたまらなく嫌な気がした。僅かな時間の後、明日がやってきて、一年一日のごとく自分が動きだす。車の外には誰もいない都会の静寂が流れている。煙草に火をつけた。
「今まで、仕事やってん。飯が食べたいんや。どっかやってるとこしらんか」
「今ごろやってる店かいな。オイルショックで深夜営業してるとこのうなったし」
空腹感はまるでないが、酒が欲しかった。
「運転手仲間の集まる店やったら一軒知ってるけどな」
「そこでええわ、行ってえな」
「阿部野やで、かまへんか。わしも、そこで飯くって会社へ帰るけど」
「かまへん」
「女も呼べまっせ」
運転手は、卑猥な笑いを浮かべた。
Kの目に霊安室の女の顔が浮かんだ。妻と同じ顔だと思った。その時下半身に小さな欲望がを感じた。Kはふかぶかとシートにもたれ掛かった。車は反動をつけるように、勢いよく動き出した。
「この時間に、酒のんでへん客乗せるんは珍しいことや」
運転手から話かけてきた。
Kは、前部座席のシートに掛かっている、タクシー運転手募集の広告を目の高さで見ていた。
「タクシー乗務員募集か? これ、あんたの会社のんか?」
「ああ、そうや」
「わしも、タクシーの運ちゃんになろか」
「あかん、あかん、しんどいだけや。やめときなはれ」
「せやけど、外へ出たら、うるさいやつもおらんし、気楽でええがな」
「まあな、それだけが取り柄や」
運転手はチラリとKの顔をみて人の良さそうな笑いを浮かべた。
Kは自分でも不思議な程饒舌だった。
昼間は車でひしめいている道路も閑散としている。車は滑るように、複雑な道を走り過ぎていく。
「都会ってこうして走ったら、遠いとおもとっても、意外と近いもんでしゃろ、もう、弁天町や、ちょつと、ゆっくり走りまっせ。道路に寝とるやつが時々おるよって」
電車の走らない高架の線路は都会にかかった細長い橋だ。夜は汚れものを隠し、光は生き物になっている。誰もがねぐらにおさまり、まだこない明日を信じている。Kは不思議な気がした。生きるということの正体は、知っているようで誰もしらないのかもしれない。まるで、樹液を吸い鳴くだけ鳴いて、次の瞬間には木から落ちていく蝉のようだ。鳴く意味も、樹液を吸う意味も、落ちる意味も知らない。一瞬々が、生の表現以外の何物でもない。
浮浪者が一人道端で座り込み、酒を呑んでいる。ライトに照らし出された男は、躊躇することなく、反射的に持っていた瓶を投げた。
運転手は意にかいした様子もなく男のそばを通り抜けた。
無視された男に代わって瓶の割れる音が、静寂な街に響いた。
Kの見知らない街が窓の外を流れていた。大阪に四十年住んでいても、知らない場所ばかりだ。車窓から覗く線路沿いの光景しか知らないのかも知れない。確かに、そういう意味で都会は深く広いのかも知れない。
車は商店街に入った。
「昼間は人ばっかりで、とおれんけど、今時はすいすいや。ゴミ箱あさりにくる、犬や猫ももう寝たんかしておらんわ」
犬、この街に犬の記憶がある。
路地で頭を割られていた犬。棒を振り下ろしていた男。
いつの頃だったのか、忘れている。夢の中の出来事かもしれない。殺されている犬にも、殺している男にも自分はなっていたように思う。
車が急に止まった。
「ここから先は車は入られへんよって、お客さん、降りてもらえまっか」
路地の中程に、明かりの点いている家が、一軒見えた。
「ほんまに秋やな、時間遅いと、季節がよう見えるわ」
運転手は大きなのびをして言った。
Kは、彼の顔半分に大きな痣があるのに初めて気づいた。
立て付けの悪い引き戸を開けると、店は意外にたてこんでいた。
不揃いなテーブルが四つ、カウンターの中に、中年の女がいた。天井の隅に消えたテレビが店内を見下ろしていた。一番端のテーブルに陣取っているのは、様々な制服を着たタクシーの運転手仲間だった。テレビの下で黙々と飯を食っている女は、年老いた売春婦に思えた。戸口には、派手な服を着た女が、大声で喋りながら、さかんに男の背中を叩いていた。
「ノンちゃん、どうや景気は?」
ノンちゃんと呼ばれた運転手は例のひとなつこい笑みを浮かべながら、
「あかんわ、もう、今日は店じまいや」
と、言って、背もたれを抱え椅子に逆に座り仲間と話始めた。仲間はKに一瞬好奇な目を向けたが、直ぐに、反らした。
Kは品がきに目をやりながら、尻を向けている運転手の前に腰を下ろした。
カウンターの中の女が注文を促す様にKをみている。
「酒もらおか」
「一級、二級?」
「特級や」
「特級? やめとき、水混ぜよるで」
尻を向けている運転手が痣のない方の顔を見せて言った。
「ノンちゃんしょうもないこといいなや」
女が初めて笑いを見せて言った。
「ほんまのこというてなにが悪いんや。二級に水混ぜて、特級やいうて、ばれたことないいうてたやないか」
「あほ、あれはな二級の燗冷ましに混ぜるんや」
「そうやそうや、二級の燗冷ましを特級の瓶に入れておいときよるんや。それにな、ちょつとだけ砂糖いれるんや」
仲間が口々に言う。
「あほいわんといて、お客さんほんまにしはるやんか」
Kは黙っていた。
「特級なんて、酒やないわい。なにもひがんでいうてんのちがうで」
後ろで、声がした、振り向くと、長身の男が、身を屈めるようにして、入ってきたところだった。かなり、酔っているのか足元がふらついていた。
彼は店内を見回し、一斉に見られたことを恥じるように身体を小さくした。
酔った身体を確かめるようにしながら、男はKのテーブルに近づいてきた。
「ここよろしおましゃろか?」
Kは黙ったまま身体を少し動かした。
自分と同じ年配だろうが、頭がかなり禿ていて、頭髪に白いものが目立った。
男は自分の位置を確かめるように、両手を伸ばしてテーブルの上に置いた。長くて細い指だ。箸よりも重いものを持ったことのない手だと思った。
男の目はすっと伸ばした指先に落ちている。小心そうな目をしているが、落ち着いた目の色をしていた。いらつきもなく、澄んだ目で自分の指先を見ている。男は自分が逃げ出した家の事を考えていた。思い詰めるという風でなく、ふと、思い付いたという風に指先に重ねていた。
運転手は、飯をかきこんでいる。一人二人と仲間は席を立った。
「ノンちゃん、おさきに」
男達は、決まって痣とは逆の肩を叩いて、店を出ていった。
顔の痣なんて、なんてことないと、人は言うだろう。だが、それは痣のない人間の言葉だ。時として、痣のない半分の方の顔を見せて笑っている彼の言葉だ。
「その痣、どうしゃはったんですか?」
指先を見ていた男が急に顔を上げてポッリと言った。
「生まれつきや」
運転手の目に、一瞬狂暴な色が流れ、直ぐに消えた。
「初対面で、赤の他人やのに、そんな事聞いたんは、おっさんが初めてや、夫婦げんかしても、嫁はんも言うたことないのに」
Kは酒をコップに注いだ。
「どや、一杯」
銚子を運転手の目の前に上げた。
「あほかいな、車やで」
彼は笑いながら手を振った。
「せやけど、うまそうやな。ちょっと車、会社へ入れてくるわ。お客さんかまへんか」
Kは呆気に取られて、出て行く運転手を見送った。彼は、ここが、Kの行き先だと思ったのだろうか?
カウンター越しに、柱時計が二時を回ったのが見えた。一晩変わった場所で、変わった時間を過ごすのも悪い気はしない。成り行きに任せて、時を枕に、ぼんやりとしているのが、今の自分に一番合っているように思える。眠気が全く襲ってこないのも好都合だった。Kは、二本目の酒を頼み、隣の男をチラッと盗み見た。
男は背筋を伸ばして、飯を食っている。酔っていると思ったのは、彼の錯覚だったのだろうか? その姿には、毅然としたものさえ感じられる。この男は育ちがいいんだ。箸の持ちかた、口の動かし方、俺のような下品な育ちではない。しかし、育ちが上等でも、下品でも、この場所で飯を食っていることには変わりはない。いや上品だからこそ、みじめさが強く浮き上がる。
だが、男はそんなことを一向に気にしている風には見えない。貧しい食事を楽しんでいるように思える。
「猪口一個、まわしたってんか」
Kはカウンターの中の女に言った。
「一杯どうでっか?」
猪口を男の前に置いて、Kは銚子を出した。
男は、Kの言葉に身体をビクリと動かした。悠然としているようで、小心なのかもしれない。二度と会わないであろう他人を一々観察している自分が、ふと、いやになった。
隣あわせて酒を呑み合うのに理屈は必要ないだろう。しかし、彼は、今何故ここで酒を呑んでいるのだろうか?
忘れてしまいたい過去と、なんの希望もみいだせない未来、自分はそれが、唯一の生きている証明のように苛立っていた。酒を呑むと少しずつ鱗が剥がれ始める。まず、今の職場を去ることが、既成の事実のように思えてくる。その時は、あの男を只で済ましておかない。惨めな笑い者にして、今までの復讐をしてやる。その為の方法を酔った頭で考える。全てが実現可能な簡単なことに思える。
しかし、その元凶は、あの白い建物だ。なんて陰気な職場だ。病人の吐き出す金に群がり、蛭のように血を吸う。病人の為になんて、少なくとも俺には関心のないことだ。俺の周りの何処に病人がいる。あるのは病人の吐き出した金と等価の書類だけだ。院長は俺たちを、必要経費だと呼び、必要は最小限度を理想とすると言ったという噂だ。
あの女は病院に復讐をしたのではないだろうか? Kはふと思った。その理由は考えないが、何故かそれが一番合っているように思った。
「えらいすんまへん」
男は杯を啜った。
「わしからも、一本つけさしてもらいますわ」
いつの間にか、男も新しい銚子を持っている。
「ねえちゃん、なんかつまみとってな」
男が言う。
「ここにあるもん勝手にとっていったらええやろ」
女がうるさそうに応える。
「そこまで行くのんおとろしいがな」
「あんた奈良の出か?」
Kが口を挟んだ。
「ええ、そうですねん」
光雄は、急に話しかけてきた小男の胸あたりに視線を落として言った。今日一日の日当を全て無くしてしまった後だったが、彼には奇妙な満足感があった。一日の汗の分が、一瞬に消えた時、後悔よりも、壮快さを感じた。自分の食べる分だけの金があればいい。それさえなくなった時は、路地の残飯をあさることも気おくれしなくなっていた。
なんやかやいうても生きていけるんや、死ぬ時の事を考えてもしやない。彼は、四六時中呟き続けていた。人がどう思おと構わない。そうも呟いた。
胸の奥に黒い固まりがある。その存在に気づく時彼は呟き続けた。
二人は無言で酒を交わし続けた。
お互い相手を語る言葉も、自分を語る言葉も失っていた。
酒が神経を麻痺させていく。つまらない明日を忘れさせる。
店の構造がKの目の中で普段の場所に変化していた。カウンターの向こうに三畳ほどの板の間があり、眠っている子供の頭が見えた。
カウンターに直に並べられたおかずの皿に、時々秋の蠅がたかるのだろうか、女は思い出したように蠅を追う手の動作を繰り返していた。その横に大きな鍋が湯気を立てていた。カウンターの上や壁に張られた品書きは、くろずみ、滲み、剥がれているものもあった。店は、静かになり、Kと光雄の二人になったらしい。
運転手は帰ってこない。やっと、逃げたのだと分かった。女に聞いても無駄だろが、
「運転手帰ってこんな」
と、話かけた。
「あたりまえや、今ごろは、夢のなかや、よっぱらいにいつまでもつきおうてられへんからやろ」
「どいつもこいつも」
Kが吐き棄てた。
「あいつの家どこやねん」
「しらん、せやけど、聞いてどうするんや」
「家に火つけたる」
「しょうもない、それより、もう店しまうよって」
女がカウンターから出てきた。
いつのまにか、男は膝に顎を乗せた犬の頭を撫でている。犬が何時店に入ってきたのか、Kは知らなかった。
男は、掌に小さな肉片を乗せ、犬の長い舌に、嘗めさせている。そして、片方の手が、執拗に犬の頭を撫で続けている。
「あんた、このへんに、泊まるとこあるか」
Kは言った。
男は、犬を撫でる手を止めずに、
「なんぼでもある。今やったら、公園に寝てもええ気候や」
と、言った。
二人は坂を下っている。
深い闇の中にどんどん落ちて行く気がする。底なしの闇に、どんどん落ちて行く気がする。
高い石塀に、手を添えて歩く。
「女郎が逃げんように、造ったんやて、なんで、今ごろまでのこってんのやろ」
光雄がKの背後で言った。Kは無言で歩き続けた。
「森之宮の、焼け跡と一緒なんやろか」 「おっさん、しょうもないこというてんと、はよ、寝るとこつれてえな。俺ねむたいんや、ものすごうねむたいんや」
Kは甘えるように言った。光雄は、男の背中が闇の中で小さく揺れながら、坂を落ちていくのを見ていた。この小男は怒りを身体一杯に含んでいる。また、それを爆発させないように、怒りを抱いたまま、誰も知らない彼の闇に落ちていく。
「わし、犬が好きや。餌やったら、尾を振ってくれよる。一日飼うたら、すぐになつきよる。かいしょなしやいうて、なじったりせえへん」
そう言いながら、光雄は道路を睨み、吸い殻を素早く拾って火をつけた。
「わしは、犬が嫌いや。とくに繋がれている犬みたら、吐き気がしょる。繋がれとる犬は、こっちが睨んでも逃げようとしよらん。俺は安全やから、勝手になんでもさらせいうよな顔しとる。俺は家の前に繋がれとる犬殺したったことある。朝起きた時の飼い主の顔見たかったわ」
喋りながら、あいつが犬を自慢していたのを思い出した。五つも年下の上司。あいつの犬の頭を砕いている自分の姿が浮かび上がった。
「つながれてる犬は逃げられへんの分かってるから、じっとしとるんや」
光雄が言った。
Kは振り向いて言った。
「俺ねむたいんや、ものすごうねむたいんや」
それ以後、二人は喋るのを止めた。
公園で眠る人間は、沢山いているだろうに、その気配が全くしない。
ちいさな明かりに、思い出したように浮かぶ薄い影を引きずりながら、二人は歩いた。闇の底から聞こえてくる、動物たちの啼き声は、風の音に混じり、どこか悲しげに聞こえた。それは、男たちの息の音に似ていた。動物園の高い塀に沿って、二人は、闇に落ちていくように歩いた。
平成二十八年三月六日(日) 了
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