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24
「おっさん、忘れとってんな」
うっかりしていれば、行き過ぎてしまうような通路だ。時々荷物の搬入に、行きどまりになっている扉を開ける事があるが、そうでなければ、霊安室の場所さえ彼は知らなかっただろう。
病院には彼の知らない場所が無数にあるように思う。また、彼の知っている場所を知らない者もいるだろう。房子は、事務室の奥の、すえた匂いのするカルテ室を知らない。一部の医者は、臓物の標本を運ぶ男の事を知らない。患者は自分の臓器が炭酸ガスの装置の中で標本として生き続けるのを知らない。麻酔にかかった男は自分が切り刻まれる様子を知らない。
いやな場所のドァが開いていたもんだ。気づかなければ、通り過ぎたものを。Kは、ドァに声をかけた、
「出てこいよ。誰かいるんか」
通路に踏み入れた足が動こうとしない。大の大人がと苦笑するが、顔の筋肉が少しひきつっただけだった。
目を凝らして、人の気配を窺う。
Kの耳に、また、モーターの音が帰ってきた。彼は、気持を落ち着かせる為に、大きな呼吸を一つして通路に足を踏み入れた。ドアの中に深い闇が見えていた。そっと、ノブを押す。ドアはなにか柔らかい物を鋏み込んでいる。それは、弾力のあるものだった。
柔らかい物体の弾力。
Kは身体を斜めにして、部屋に滑り込んだ。その拍子に、ドァは音をたてて閉まった。ドアの裏側にドアの揺れに小刻みに揺れながら、女が浮いていた。
遠くで、Kを呼ぶ木田の声がする。それは、違う時間から聞こえてくるようだ。Kは煙草に無意識に手を伸ばしていた。指先が激しく震えるのが分かった。
ノブに手を伸ばした。女の足が頬に触れた。Kは、ゆっくりと、ノブを回した。そして、這いながら外へ出た。木田の声が、また、聞こえた。
「Kはん、Kはん」
Kは、訳の分からない声をあげなが、木田の声の方向に駆け出した。
「首吊っとるわ」
「どこでや」
「霊安室や」
「へえ、また似合いの場所でやな」
木田はノロノロと歩き出した。
「Kはん、医者呼んで来て」
「もう、死んどるわ。冷とうなっとる」
「それはどうでも、なんしか医者呼ばなあかんね。見付けるまでがわいらの仕事や。医者呼んだあとは、人にいわれるようにうごいたらええんや。せやけど、Kはん、えらい震えてまんな」
「そんなことあとで人にいうたら承知せえへんで」
木田を睨みつけて、言った。
「いわへん、いわへん、それより、はよう医者呼んできてえな」
そう言って、木田の姿はふっと、通路に消えた。
当直の医師は若い男だった。
「へえ、よりにもよって、霊安室でなあ」
医師は冷たくなった腕の脈をとり、見開いた目を木田の持っていた懐中電灯で、覗き込
んだ。
「縊死や。死亡は確認した」
医師が後ろを向くのと同時に、木田が医師の身体に隠れながら、右手を女の大腿の間に差し込むのをKはぼんやりと見ていた。
「首つりははじめてやな。あんまり、ええ死にかたやないな。学生実習で、これは首吊りやいうて騒いでた死体見たことあるけど、こんなにもろに見るのははじめてですわ。それで、この人誰?」
ついてきた看護婦がおもわずクスと笑った。
ドァの角に不安定に紐が掛かっていた。ずれて落ちなかったのが不思議な位置だった。首に掛けた浴衣の紐を二回結んでいることと奇妙な対照だった。
「こんな顔したはったんかいな。べっぴんさんやのに」
木田が言った。
「なんや、おっちゃん顔しらんだん」
看護婦が眠そうな目をして言った。
「しらんだ。病院中捜して、わしが疲れた頃には、この人も疲れたんやろな、病室に帰ったはったから」
警察の立ち会いや、家族への連絡やらで、Kは二時間以上も病院に留まった。
守衛室で家に電話をしたが、家族への連絡は取れなかった。どんな場所で電話のベルは鳴っているのだろう。受話器を耳に当てながら、単調な音の中に、女の家を思い浮かべようとしたが、なんの飾りもない黒い電話機しか彼の頭の中に浮かんでこなかった。何回も執拗にダイアルを回すKの背後で、老人は半分眠りながら言った。
「Kはん、明日、いや、もう今日か、だんなの会社に電話するよって」
「帰るわ」
「こんな時間にかいな」
「チケットくれや」
Kは言った。
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