「6年間育てた息子は、他人の子でした」というショッキングなキャッチコピーの映画を観た。
血のつながりとは何か、家族とは何か?その愛と絆の新たな形を描く、衝撃の感動作と銘打ったこの作品は、第66回カンヌ国際映画祭審査員賞受賞作品だ。
息子を取り違えられた二つの家族が、実の子か、育ての子かと苦しみ悩む。そしてついに辿り着いた「交換」という結論のその先に待つものは・・・という実に重いテーマだ。
一流大学を卒業し、大手建設会社に勤め、都心の高級マンションに暮らす、いわば人生に勝ち続けてきたエリート男性とその従順な妻。その一人息子が小学校のお受験をするシーンから始まる。一方、相手方の夫婦は地方で小さな電気店を営む。取り違えられた長男の下に2人の妹弟がおり、妻の父も加えた6人家族だ。
住む世界が全く違うように見える二つの家族が、病院からの一本の電話により交錯していく。
作家の重松清さんがパンフレットに「取り返しのつかないこと」というエッセイを書いている。映画を観た後、とても共感したので、以下、転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
世の中は「取り返しのつかないこと」であふれている。僕たちは誰もが、それぞれに「取り返しのつかないこと」を背負って生きている。・・・「取り返しのつかないこと」は「後悔」や「傷」や「罪」や「喪失」という形をとりながら、僕たちをさまざまに苦しめる。随分重い荷物である。肩の肉に食い込み、背骨を軋ませる。それを捨て去ってしまえるなら、どんなに楽だろう。
けれど、その重荷が背中から胸に迫る、奇跡のような瞬間がある。すると、「取り返しのつかないこと」は、やり直しの利かない唯一無二のものだからこそ、「かけがえのないこと」に変わる。背中にあったときにはあれほどつらかった重荷なのに、せつなさや悲しさは何も変わっていないのに、胸に回った時には、抱きしめずにはいられなくなる。
僕は、それが物語の力、フィクションの力だと信じている。是枝さん(本作の監督)のつくる物語はすべて「取り返しのつかないこと」が「かけがえのないこと」に変わる瞬間を描いているのではないか、と思うのだ。
(転載終了)※ ※ ※
重松さんはフィクションの力、と書いているが、真実は小説より奇なり、で実際に日々ある「取り返しのつかないこと」こそが「かけがえのないこと」なのではないか、と思う。
是枝監督の作品には「取り返しのつかないこと」を背負って歩く人生への謙虚な敬意を強く感じる、とも書いておられる。そのことによって、フィクションではあっても、見る側が、あなたならどうするのかという問いを強く突き付けられることになる。
パンフレットには脚本家の井上由美子さん談の「人生は『贈与』>『選択』」も載っているが、その中の“人生とは『選択よりも贈与である』、ととらえ直すことで、絶望の先に希望が見えてくる”の下りにも大きく頷いた。
自由意思で自分の人生をコントロールしている、というのは傲慢以外の何物でもない。時代も、人生も、命も全て受け入れていくもの。「受け入れる」というと消極的に思えるけれど、それは希望であり、生きていくこと自体が奇跡なんだ、ということを知っていく映画なのかもしれない、という談話にも唸らされた。
そう、受け入れることは決して消極的なことではない。むしろポジティブに生きるための術なのかもしれない、と思える。
そんなふうに病を受け入れ、共存しながら日々を有難く送らせて頂いている私がいる。
明後日は通院日。朝から検査が目白押しなので、軟弱だけれど、前泊の予定だ。
血のつながりとは何か、家族とは何か?その愛と絆の新たな形を描く、衝撃の感動作と銘打ったこの作品は、第66回カンヌ国際映画祭審査員賞受賞作品だ。
息子を取り違えられた二つの家族が、実の子か、育ての子かと苦しみ悩む。そしてついに辿り着いた「交換」という結論のその先に待つものは・・・という実に重いテーマだ。
一流大学を卒業し、大手建設会社に勤め、都心の高級マンションに暮らす、いわば人生に勝ち続けてきたエリート男性とその従順な妻。その一人息子が小学校のお受験をするシーンから始まる。一方、相手方の夫婦は地方で小さな電気店を営む。取り違えられた長男の下に2人の妹弟がおり、妻の父も加えた6人家族だ。
住む世界が全く違うように見える二つの家族が、病院からの一本の電話により交錯していく。
作家の重松清さんがパンフレットに「取り返しのつかないこと」というエッセイを書いている。映画を観た後、とても共感したので、以下、転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
世の中は「取り返しのつかないこと」であふれている。僕たちは誰もが、それぞれに「取り返しのつかないこと」を背負って生きている。・・・「取り返しのつかないこと」は「後悔」や「傷」や「罪」や「喪失」という形をとりながら、僕たちをさまざまに苦しめる。随分重い荷物である。肩の肉に食い込み、背骨を軋ませる。それを捨て去ってしまえるなら、どんなに楽だろう。
けれど、その重荷が背中から胸に迫る、奇跡のような瞬間がある。すると、「取り返しのつかないこと」は、やり直しの利かない唯一無二のものだからこそ、「かけがえのないこと」に変わる。背中にあったときにはあれほどつらかった重荷なのに、せつなさや悲しさは何も変わっていないのに、胸に回った時には、抱きしめずにはいられなくなる。
僕は、それが物語の力、フィクションの力だと信じている。是枝さん(本作の監督)のつくる物語はすべて「取り返しのつかないこと」が「かけがえのないこと」に変わる瞬間を描いているのではないか、と思うのだ。
(転載終了)※ ※ ※
重松さんはフィクションの力、と書いているが、真実は小説より奇なり、で実際に日々ある「取り返しのつかないこと」こそが「かけがえのないこと」なのではないか、と思う。
是枝監督の作品には「取り返しのつかないこと」を背負って歩く人生への謙虚な敬意を強く感じる、とも書いておられる。そのことによって、フィクションではあっても、見る側が、あなたならどうするのかという問いを強く突き付けられることになる。
パンフレットには脚本家の井上由美子さん談の「人生は『贈与』>『選択』」も載っているが、その中の“人生とは『選択よりも贈与である』、ととらえ直すことで、絶望の先に希望が見えてくる”の下りにも大きく頷いた。
自由意思で自分の人生をコントロールしている、というのは傲慢以外の何物でもない。時代も、人生も、命も全て受け入れていくもの。「受け入れる」というと消極的に思えるけれど、それは希望であり、生きていくこと自体が奇跡なんだ、ということを知っていく映画なのかもしれない、という談話にも唸らされた。
そう、受け入れることは決して消極的なことではない。むしろポジティブに生きるための術なのかもしれない、と思える。
そんなふうに病を受け入れ、共存しながら日々を有難く送らせて頂いている私がいる。
明後日は通院日。朝から検査が目白押しなので、軟弱だけれど、前泊の予定だ。