今年も2月1日から始まった都内の中学受験は一段落した頃だろうか。
14年前、受験生の母だった私は、受験が始まる直前に乳がんの再発、多発転移を告知された。そして第一志望校に息子を送り届けたその足で、今お世話になっている病院へセカンドオピニオンに出向いたのだった。
あれから14年。彼が熱望した第一志望校の合格は叶わず、別の学校に入学した息子は正直、大分しょげていた。私自身もかなり傷ついていた。
毎年2月の受験シーズンになる度に、乾きかけたかさぶたが剥がされるようにあれこれ受験生時代のことを思い出し、受験塾のリュックを背負った子どもの姿を見ると鼻の奥がツンとする日々を送った。
息子が思いもよらず東京を離れ、関西の大学に進学し、1年遅れにはなったが無事希望の業種に職を得て、日々生き生きと暮らしている姿を垣間見るようになって、ようやく中学受験という一大ドラマを客観的に受け止められるようになった。
一昨日、息子が家族LINEに「こういう台詞を言わなかった○○さん(私のこと、最近は私のことは呼び捨て、もしくは名前のさんづけで呼ぶ)のモラルに乾杯」のコメントを付したURLを送ってきた。
それは「中学受験で落ちた家庭はその後のモラルも大切」と、ある受験塾の塾長さんがTwitterで呟いたもので、「私の母親はストレス耐性が低くて、“△△(塾長さんの名前)には中学受験の代金として200万円くらい使っているのよ!?”と当時小学校6年生の私に面と向かって言っていました。そういう発言は、子どもが大人になってからも、ずっと覚えているものです。」というものだった。
いや、私自身はそこまでストレートにお金のことを話題にしなかったにせよ、言わなくていいことを言ってはいたような気がする。
学童保育を卒所後、放課後から私が帰宅するまでの受け入れ先を見つけるため、一番長く大人の目が届く所という目的で探したのが、受験塾だった。
ゆとり教育真っただ中の小学校の授業は、同じことの繰り返しで退屈だとぼやいていた息子が、思いのほか楽しそうに通ったこと、スポンジのようにあれこれ吸収してきて、なるほど、さすが、と感心するシステマティックな教え方をしてくれることに気を良くして、どんどん中学受験の世界に引きずり込まれていった。
塾の先生たちは当然ビジネスだから鴨葱の親子を手放すわけはなく、飴とムチをうまく使っていた。当然お金も時間も体力も気力も使ったし、学年が上がるにつれ、息子は塾通いのために色々我慢することも多くなり、親の方もどんどん引けなくなっていた。
第1志望校に合格出来るのは3分の1だというのに、息子が3分の2になるという現実をリアリティを持って受け入れられない。その結果、息子に可哀想な思いをさせることになってしまい、中学受験を息子に強いたのではないかとか、もっと違う選択があったのではないかとか、悶々とした時期もあった。
LINEでそう返したら、息子は「人生で一番勉強したって胸張って言えるし、努力が報われないこともあるっていうのを初めて知ったいい機会だったと思っているよ。その後6年ほどは腐ったけど」と返ってきた。確かに中学高校の6年間は、12歳まではあんなにキラキラしていた目の輝きが消えて、勉強にも身が入らず、心配した時期もあった。
1月30日生まれ、12歳になりたての、いい意味で子ども子どもしていた息子には酷な経験だったのだろうと今は思う。けれど、「でも立ち直ったと思っているし、2人にも感謝してる。何より今社会人になって、学生の頃も楽しかったけど、もっと、毎日楽しく生きてるよ」とのこと。
Twitterで呟いた塾長さんのお宅では、中受がきっかけでご両親が離婚されたという。そのくらい中学受験というのは家族を揺るがす大きな出来事であることは間違いない。
今、息子と振り返ってそのことを話せるということは、14年経って私自身がようやく中受の後遺症から立ち直れたということなのだろう。
14年前、受験生の母だった私は、受験が始まる直前に乳がんの再発、多発転移を告知された。そして第一志望校に息子を送り届けたその足で、今お世話になっている病院へセカンドオピニオンに出向いたのだった。
あれから14年。彼が熱望した第一志望校の合格は叶わず、別の学校に入学した息子は正直、大分しょげていた。私自身もかなり傷ついていた。
毎年2月の受験シーズンになる度に、乾きかけたかさぶたが剥がされるようにあれこれ受験生時代のことを思い出し、受験塾のリュックを背負った子どもの姿を見ると鼻の奥がツンとする日々を送った。
息子が思いもよらず東京を離れ、関西の大学に進学し、1年遅れにはなったが無事希望の業種に職を得て、日々生き生きと暮らしている姿を垣間見るようになって、ようやく中学受験という一大ドラマを客観的に受け止められるようになった。
一昨日、息子が家族LINEに「こういう台詞を言わなかった○○さん(私のこと、最近は私のことは呼び捨て、もしくは名前のさんづけで呼ぶ)のモラルに乾杯」のコメントを付したURLを送ってきた。
それは「中学受験で落ちた家庭はその後のモラルも大切」と、ある受験塾の塾長さんがTwitterで呟いたもので、「私の母親はストレス耐性が低くて、“△△(塾長さんの名前)には中学受験の代金として200万円くらい使っているのよ!?”と当時小学校6年生の私に面と向かって言っていました。そういう発言は、子どもが大人になってからも、ずっと覚えているものです。」というものだった。
いや、私自身はそこまでストレートにお金のことを話題にしなかったにせよ、言わなくていいことを言ってはいたような気がする。
学童保育を卒所後、放課後から私が帰宅するまでの受け入れ先を見つけるため、一番長く大人の目が届く所という目的で探したのが、受験塾だった。
ゆとり教育真っただ中の小学校の授業は、同じことの繰り返しで退屈だとぼやいていた息子が、思いのほか楽しそうに通ったこと、スポンジのようにあれこれ吸収してきて、なるほど、さすが、と感心するシステマティックな教え方をしてくれることに気を良くして、どんどん中学受験の世界に引きずり込まれていった。
塾の先生たちは当然ビジネスだから鴨葱の親子を手放すわけはなく、飴とムチをうまく使っていた。当然お金も時間も体力も気力も使ったし、学年が上がるにつれ、息子は塾通いのために色々我慢することも多くなり、親の方もどんどん引けなくなっていた。
第1志望校に合格出来るのは3分の1だというのに、息子が3分の2になるという現実をリアリティを持って受け入れられない。その結果、息子に可哀想な思いをさせることになってしまい、中学受験を息子に強いたのではないかとか、もっと違う選択があったのではないかとか、悶々とした時期もあった。
LINEでそう返したら、息子は「人生で一番勉強したって胸張って言えるし、努力が報われないこともあるっていうのを初めて知ったいい機会だったと思っているよ。その後6年ほどは腐ったけど」と返ってきた。確かに中学高校の6年間は、12歳まではあんなにキラキラしていた目の輝きが消えて、勉強にも身が入らず、心配した時期もあった。
1月30日生まれ、12歳になりたての、いい意味で子ども子どもしていた息子には酷な経験だったのだろうと今は思う。けれど、「でも立ち直ったと思っているし、2人にも感謝してる。何より今社会人になって、学生の頃も楽しかったけど、もっと、毎日楽しく生きてるよ」とのこと。
Twitterで呟いた塾長さんのお宅では、中受がきっかけでご両親が離婚されたという。そのくらい中学受験というのは家族を揺るがす大きな出来事であることは間違いない。
今、息子と振り返ってそのことを話せるということは、14年経って私自身がようやく中受の後遺症から立ち直れたということなのだろう。