ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2021.5.20 エンハーツ15クール目さらに減量11回目投与後8日目のこと ワクチン予約狂騒曲その3

2021-05-20 21:20:13 | 日記
 治療後1週間を経て、ようやく辛かった吐き気が収まり、食欲が出始めてきた。
 昨夜はミールキットのお助け夕食の後、久しぶりに食後のティータイムが復活した。初物の水羊羹と葛桜を頂く。上品で(小さくて)まだ足りないような口寂しい気がして(卑しい)、欠食おばさん状態である。

 入浴後まもなくして日付が変わり、そうだった、と思い出す。
 今日は夫の第1回のコロナワクチン接種日。ということは、2回目の予約を取らねばならない日である、と24時間オープンの予約サイトを訪れる。
 約束では1回目の接種当日以降に2回目の予約を取るように、とのことだったので、最短で今日の0時からなのかしら、と思って覗いてみたのだ。

 ところがどっこい、今日から21日後となる6月10日以降のカレンダーを見ると、初回と同じ会場(駅前のショッピングセンター)の空きがあるのは月末の2日間のみだった。それでは6週間近く開いてしまう。いかにもまずいのではないか。
 早くに接種した方たちの2回目予約で埋まったのか、それとも1回目の方がまだ終わっていないのか定かではないけれど、またしても出遅れた感でしょぼくれる。

 気を取り直して、別の会場(近くの小学校)をあたったところ、24日目の朝に予約が出来た。予約確認表をプリントアウトして夫に渡す。100点満点ではなかったけれど、無事2回分の予約が出来た。一件落着である。

 それにしても、2回分の接種が同時に予約出来て、間隔はぴったり21日、個別にかかりつけの先生のクリニックで、と相成った母は本当にラッキーだったと思う。
 これで夫と母の接種が終わってくれれば、ひとまず安心である。
 もちろん化学療法中の私はいつになるか、という問題は残るけれど。少なくとも年齢という要因では私よりハイリスクと言える2人が感染する、もしくは万一罹患しても重症化する可能性が小さくなっている筈なのだから。

 ということで日付が変わってからの就寝。
 今朝は腹痛で目が覚めた。一度お手洗いに行くと、ウサギさん状の便が少々。まだ起きるには早いのでしつこくベッドに戻ったところ、ほどなくして強烈な腹痛。これでお手洗いに戻ってからは大変だった。硬い便から普通便、軟便、泥便、下痢、水様便、粘膜のみと、ものの10分ほどで全ての形態を駆け抜ける羽目になった。当然ずっと腹痛で脂汗状態。お手洗いに座りっぱなしである。下手に動いて迷走神経反射でも起こして転倒し、また前歯を折るなんてことがあったら、洒落にならない。

 お腹を押さえ、エビのような恰好でヨロヨロしながら起きる。お腹は空っぽ、もう何ら出ないのに、ずっと腹痛である。
 こわごわと朝食を少しだけ入れる。トーストとヨーグルト、果物数種類とフレーバーティにヤクルト。
 ようやくお腹が空いて美味しく食べられるようになったというのに、久しぶりの下痢でまたしても予定が狂ってしまった。

 今日は定例の対面会議が、昼休みが終わらないうちから開始し、2つ目はWebで連続。お昼を買いに出るタイミングがない。昨日生協で届いた冷やし中華を持っていくつもりだったのだけれど、冷たいものを入れたら、またお腹を壊すのでは、とちょっと心配になる。

 通勤途上にお手洗いに駆け込まなければならないような事態にはならなかったので、胸をなでおろして自席に向かった。
 昼食は、熱い紅茶で冷たさを中和しながら冷やし中華を流し込み、無事会議も終了。その後また強烈な腹痛。またしても下痢かと思ったら、ミヤBMのおかげか普通便に戻っていた。ほっ。お腹はまたしてもペっちゃんこである。

 とりあえず今日の予定を終えて、お腹を温め、代謝をアップさせるためにヨガスタジオの岩盤浴タイムに。本日も貸し切り状態。ゴロゴロしながら仰向け、うつ伏せ、横向きと態勢を変えてウトウト。じんわり汗をかいてシャワーを浴びたら気分がサッパリした。週末からはヨガに参加したいものだ。

 ところで、本日休務日の夫は、予定通り1回目の接種を無事終えた。
 「アレ?もう打ったの」というくらい痛くなかったそうな。時間帯のトップに並んで最初に接種、15分ほど様子見ですぐには帰れなかったけれど、正味20分ほどの拘束時間だったそうだ。
 いろいろ言われているコロナワクチン接種、とりあえず歩みを進めているようではあるが、皆が安心して生活出来るようになるまでにどれだけの時間がかかるのだろうか。
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2021.5.19 エンハーツ15クール目さらに減量11回目投与後7日目のこと 医療が目指すものは私たちの幸せ

2021-05-19 21:33:32 | 日記
 何度かこのブログでも紹介させて頂いている、読売新聞ヨミドクター連載中の高野利実先生のコラム、本日の最新号である。
 今回はいつにもましてしみじみ拝読したので、以下、全文を転載させて頂きたい。
 必要以上にがんが治ることのみについて強く求め、自分で自分を苦しく、辛くしているかもしれない一人でも多くの方に読んで頂ければ、と思う。

※  ※  ※(転載開始)

Dr.高野の「腫瘍内科医になんでも聞いてみよう」2021年5月19日
医療・健康・介護のコラム 人間はいつか、がんで死ななくなると思いますか?

「人間はいつか死ぬ」という乗り越えられない事実
 私は、人類が人類である限り、がんという病気はなくならないと思っています。

 この世界に生まれた人間は、徐々に年老いて、病気になり、やがて死を迎えるというのが自然の摂理です。科学技術の進歩で永遠の生命が得られる日が来る可能性はゼロではないかもしれませんが、もしそうだとしたら、永遠の生命を得た存在は、もはや、人類とは呼べないのではないかと、私は思っています。

 人間とは、いつかは死ぬ存在であり、それは乗り越えられない厳然たる事実です。死を内在するからこそ、その存在に価値が生まれるというのは、古来多くの人々が語ってきたことです。がんという病気は、誰もがなりうるものであり、年齢を重ねるごとに、その頻度は増していきます。病気というよりも、もともとプログラムされた老化現象に近いものだという考えもあります。

「がんの根絶」よりも大事なもの
 いつかは死ぬということが自然の摂理だとしても、人間一人ひとりが、病気や死を恐れ、「長く生きたい」と願う気持ちもまた、自然なものです。その気持ちを支えながら、折り合いをつけていくのが、医療の役割なのかもしれません。

 人類の歴史の中で、医療は確実に進歩し、特に近年の発展スピードは著しいものがあります。かつては制御できなかった病気も制御できるようになり、人間の寿命も延びました。がんという病気に対しても、多くの技術や薬物療法が開発され、がんにかかっても、かつてより長く生きられるようになっています。このまま進歩が加速すれば、「いずれは、すべてのがんが制御できるようになるのではないか」「人類はがんを根絶できるのではないか」と思うのも、自然な発想なのかもしれません。でも、私は、「がんの根絶」が究極の目標だとする考え方には違和感を覚えます。「がんの根絶」が、本質的に困難だというのもありますが、仮に「がんの根絶」が達成しうるものだとしても、それは人類の目指す究極の目標にはならないと思っています。

 「がんを扱う医者なのに、がんの根絶を否定するとはなにごとか」と思われるかもしれません。患者さんの夢や希望を踏みにじるように聞こえるかもしれません。でも、私は、「がんの根絶」よりも大事なものがあると思っているのです。それは、「人間の幸せ」です。

 「がんの根絶」を究極の目標としてしまうと、がんの根絶ができていない今の医療は不完全なものであり、がんを治せないことはダメなことになってしまいます。この考え方は、がんを抱えながら生きている方々を追い詰めてしまうことにもなります。がんが治らないとしても、いつかは死を迎えるとしても、その運命の中でできることはたくさんあります。運命を否定してそれにあらがうのではなく、運命の大きな流れにある程度身をゆだねつつ、その中で幸せを考え、日々の人生を自分らしく生きていくことが重要で、それを支えるために医療があります。

 人間の幸せを考えずに、がんの根絶を目指すことに意味はありません。しかし、がんの根絶が達成できなくても、人間の幸せを考えることはできます。医療の究極の目標は、「人間の幸せ」にあるべきなのです。

「人間の幸せ」こそ医療の壮大な夢
 がんがあるかどうかで運命が分かれるように思われがちですが、実は、体の中にがんがあるかどうかの境目は、あいまいなものです。がんは誰もがなるものであって、すべての人がその種を持っているとも考えられます。根治したように見えても、種がまだ残っている可能性はあります。がんとうまくつきあいながら過ごしている人もたくさんいます。がんがあるのかどうかよりも、うまく過ごせているかどうかの方がよっぽど重要です。今後、がんがあってもうまく過ごせるように医療が進歩していけば、「がんの根絶」にこだわる必要もなくなってくるような気もしています。

 私は、高校生のとき、NHKスペシャル「驚異の小宇宙 人体」を見て、衝撃を受けました。その番組では、「人間の体は、年齢を重ねると、死に向かうようにプログラムされている」ということを淡々と伝えていました。医師を志していた私は、漠然と、病気を追い出し、死を避けることが医療の本質であると思っていたのですが、この番組を見て、「病気になるのも、死を迎えるのも自然の摂理である」という事実を突き付けられ、「医療とは、自然の摂理と相いれない行為なのかもしれない」という考えにぶつかったわけです。

 以来、私は、死を内在する人間に対して、医療がすべきことは何なのかを考えてきました。医療現場に出て20年以上たってもなお、答えを探し続けている状況ですが、そんな中で考えてきたことの一端を、今回は書かせていただきました。がんを完全になくすことはできないし、人間が死ななくなるようにもできない。たとえできたとしても、それが人類の目指すべき究極の目標ではない、というのが、現在の私の考えです。それは、決して、夢のない話というわけではなく、むしろ、もっと大切な夢につながっています。「がんの根絶」ではなく、「人間の幸せ」こそが、これからも医療が追い求めるべき壮大な夢です。

 大宇宙の悠久の時間の流れの中で、人間の力ではどうしようもできないこともありますが、その中で、一人ひとりの幸せを目指すことにこそ、医療の本質があります。人類が人類である限り、医療は、人類の幸せを目指すために存在し続けることでしょう。(高野利実 がん研有明病院乳腺内科部長)

(転載終了)※  ※  ※

 医療の進歩は目を見張るほどすさまじい。まさしく日進月歩である。日々多種多様の高度な研究が行われ、人類の幸せを願って切磋琢磨している。
 もしハーセプチンという治療薬がなかったら、間違いなく今頃私は生きていなかっただろうし、その後のカドサイラ、今使っているエンハーツもしかりである。

 それらの新薬の恩恵に預かれたということに対して感謝したい。けれど、それらの薬もいつかは効かなくなる日が来ることも覚悟しなければならない。
 それでも、その薬によって穏やかな日々が送れているならば、「次は、またその次は」と先走って探り続けることはしたくない。それは決して幸せなことではないだろう。人類も医療も、進歩はすれども万能ではないのだ。そして何より人は生まれたからには不死ではありえないのだから。

 今、なぜ、きつい治療を続けているのかと問われれば、そのことによってその先に少しでも用意されているであろう穏やかなおまけの(治療をしなければ得られることの出来ないであろう)幸せな時間を得たい、得られるだろうと思っているからだ(欲張りと言われればそれに違いない。)。

 けれど、それは決してこの病気の完治を望んでいるというわけではない。
 がんという病気と共存することになった私の人生は、(がんが)治れば勝ち、治らなければ負け、というそんな単純な試合ではない。
 完治だけを望み過ぎると自分がどんどん辛くなる。もう一度そのことをよく自覚して治療を続けていきたいと思う。
 そして、これから先、標準治療で尽くせる手がなくなった時には、ジタバタせず、心穏やかに「これまで私は十分頑張ってきた。今はその時が来たのだ。」と事実を受け容れたいと思う。

 さて、エンハーツ15クール目の治療から1週間が経った。相変わらず体調は優れない。梅雨の走りのような気候で頭も重く、痛い。胸骨周辺には鈍痛がする。湿度の上昇とともにマスクの息苦しさも増している。
 身体は座っていても、立っていてもとりとめなくバラバラでまとまらず、気持ちが悪い。

 そんな中、午後はびっちりとWeb研修があった。3,4人のグループワークがメインだったので、全員が講義を受けた後に行われた小グループに分かれてのワークは、PC画面上で出たり入ったり、とかなり忙しかった。
 慣れない方法に最初は皆戸惑っていたけれど、終わってみれば今やこういうのもありだな、といい経験になった。
 そんなわけで定時には退勤出来ずじまい。それでも少しずつ、週末に向かって上り調子であることを信じつつあと2日乗り越えたいと思う。

 帰宅すると、先週システムトラブルで一品も届かなかった生協のお届け品が玄関前にたっぷり置かれていた。えっちらおっちらと取入れた。
 夫が帰宅してからお助けマンのミールキットで夕食を作った。もうそれだけで十分頑張った感がある(レベルが低いのだ。)。

 さて、一昨日ワクチン接種1回目を終えた母は、昨日は腕が痛み、なんとなくだるくて何もする気がしなかったそうだ。が、48時間が経過した今日は痛みもなく、大丈夫だとのこと。明日はまたデイサービスに行ってくるという。この調子で2回目も無事クリアしてほしいものである。
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2021.5.17 エンハーツ15クール目さらに減量11回目投与後5日目のこと ぐったり

2021-05-17 21:00:00 | 日記
 暗黒の土日が過ぎ、週が明けて月曜日。
 風薫る5月はどこへやら、梅雨のような重苦しい空である。天気予報ではいつ雨が降るかわからないといった感じ。最高気温は25度になり、蒸し暑いでしょうという予報だ。

 夫は休務日なのにいつもどおりに起きてくれている。朝食はピンクグレープフルーツジュースでナウゼリンを飲んでから、昨日と同じ小さなパンケーキ1枚と清見オレンジひと房、シナノスイートひとかけ、とちおとめ半粒、ぶどう1粒。牛乳と冷凍マンゴーのスムージーは殆ど飲めない。

 和紅茶も美味しくない。ちょっとだけ口に入れてから職場に持っていくマグボトルに入れ直す。胃痛防止の青いヨーグルトを頑張って頂く。食後の薬一式は5種類。エルカルチン2錠は大きくて喉に引っかかるし、臭くて気持ち悪い。
 食後に、申し訳程度のうさぎさん便が若干排出出来たが、何となくすっきりしない。

 気持ち悪さ防止のウエストシェイプのないワンピースにレインコートを羽織って出かけた。
 木曜日に帰宅してから外に出るのは80数時間ぶりだ。前回よりはまだましなように感じるけれど、足元はふわふわして覚束ない。やっとの思いで自席まで辿り着いた。
 それほど気温が高くないからか、疲れ方も酷くない。これから暑くなってくると、日差しと上り坂とマスクの相乗効果で、治療後の通勤はきついだろうと思う(去年は途中で足が前に出なくなって、何度か道端に座り込んだことがあった。)。

 午前中は静かに時間が流れた。
 昼休みには頑張って駅前のファミレスまで歩いた。雨は落ちてこなかったけれど、予報通り湿度が高い。家でゴロゴロしているだけならお腹も空かないけれど、デスクワークとはいえいざ出勤してみるとさすがに空腹を感じる。
 昨日はテレビで食事をしている映像を見ると、あれもこれも美味しそうで食べられそうだったけれど、実際口元に持ってくるとイナフ、になってしまっていた。
 今日はそうでもない。動かないと食べられない、は真実である。

 もし定時迄保たなかったら早退もやむなしかな、と思っていたけれど、なんとか保った。けれど、帰宅したらもうがっくり。夫にドアを開けてもらって、手洗いうがい、着替えを済ませたらリビングで小一時間横になったまま動けなかった。

 母は無事1回目のワクチン接種が終わった模様。昨日までのあの不安げな様子はどこへやら。実に現金なもの。
 Duo通話を通じて明るい声で「予約時間の少し前に着いたのに誰もいなくてすぐに打って頂けた。(接種後)15分そのまま様子を見たけれど、家を出て30分で帰って来られた。全く痛くなくて、大丈夫だった。やっぱりH先生で良かった。安心だった。おかげさまでありがとうございました。」とのこと。

 もし具合が悪くなったら夜中でもいいので連絡するように、とホットラインの電話番号も教えてくださったそうだ。私と同い年のH先生(優しいお人柄でお年寄りに大人気)、有難いことである。
 まずは良かった、良かった。案ずるより産むがやすし、である。このまま副反応が出ず、3週間後の2回目も無事に接種出来ますように。

 一方、今日から東京、大阪で大規模接種会場の予約がスタートした。果たしてこの後、各自治体が64歳以下の予約を一斉に開始したら、一体どんな事態になるのだろう。
 これまでの混乱の轍を踏まないように、年齢区分を細かく分けたり、基礎疾患の有無で分けたり、システムがパンクしない方法が取れるのだろうか。
 段取りさえきちんと踏めば、急がば回れ・・・ではないかと思うのだけれど。

 明日は在宅勤務。
 明後日はWeb研修もある。その頃には大分復調していると良いのだけれど・・・。
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2021.5.16 エンハーツ15クール目、さらに減量11回目投与後4日目のこと 今クールもやはり・・・

2021-05-16 21:12:59 | 日記

 昨夜は前夜の二の舞だけは避けようと、とりあえず12時前にベッドに入った。就寝前に赤いドリンクヨーグルトを飲んだら気持ち悪い。どちらを向いてもどちらに寝返りを打っても。ミントスプレーを撒いても。
 それでもいつの間にか眠れたようだ。

 ウィークデーの起床時間に目が覚めてお手洗いに起きる。ベッドに戻るとすぐに腹痛。そういえば昨日はお通じがなかったけれど、今朝も腸が動いたのはその時だけ。腹痛だけが続いて便秘状態である。
 日曜日仕様のアラームが鳴った後、ノロノロしていたらいつの間にか1時間以上経ってしまった。夫が「まだ寝ているの?」と様子を見に来たけれど、午前中に宅配が来るのでそれまでは寝ていることにする。
 すると10分ほどして待っていた荷物が届き、中身が見たかったのでのそのそ起きた。夫が頂いたカタログギフトから頼んだ某スープ専門店の冷凍スープとパンのセット。これなら具合が悪くても食べられるかもしれないと思ってのチョイスだ。

 冷凍庫に収めてから朝食。ピンクグレープフルーツジュースでナウゼリンを飲んでから、小さなパンケーキを1枚と夏みかん、清見オレンジを1房、とちおとめ半粒、アンデスメロン一かけ。今朝はグラス半分だけメロンミルクスムージーを飲めた。
 普段は好きなフレーバーティを淹れてもらったけれど、味が当てられなかった。お腹はぐるんぐるんして生唾が出る。空腹を感じないし、味がわからない。それなのに、匂いだけは敏感で、食後のエルカルチンを口元に近づけただけでまたオエっと吐き気が酷くなる。

 食後はただひたすらダラダラ、ダラダラ。横になったままリビングでビデオやテレビを流し、動くのはお手洗いに立つ時だけのしょうもない生活。

 ただ横になっているだけなのに、夕方近くなっていきなり空腹で胃が痛くなった。ドラマでミートソースを食べているのを見て、発作的にレンチンボロネーゼパスタを頂いた。夫は傍らでお蕎麦を茹でておろしそばにしていた。昨夜、うどんのお供に玉子焼きを焼いて大根おろしを添えてくれたけれど、その大根がびっくりするほど辛かったのを思い出した。

 一昨日の在宅勤務日から丸3日間籠城蟄居。またしても靴も履かない、外にも出ない治療後の週末だ。スマホを見たら今日は25歩だそうだ。寝室からリビングの往復だけということか。

 関西が早くも梅雨入りと驚いていたら、とうとう今日は東海地方まで梅雨入りだという。5月半ばだというのに。例年より3週間も早いらしい。
 夕方にはこちらでも雨が降って気温が下がってきた。明日からもお天気が悪いという。
 少し気分転換をしたいと思っても、そもそも身体は思うように動かないし、アウトレットモールも映画館もどこもクローズだ。とにかく今月一杯の緊急事態宣言中はステイホーム、家にいるしかない。さすがの夫も、いつ雨が降り出すかわからないからと買い出しを諦めて1日家にいた。
 
 撮り溜めたドラマを只々飛ばし見していたら、早くもサザエさん症候群の時間だ。夕方近くに遅い昼食だったので、そうそう空腹にはならない。お腹が空いて胃が痛いけれど、食べたら食べたで吐き気がまとわりついて離れない。

 何か一つ動作を始めるのがとても億劫で、花瓶の始末や水切り等をするのも一苦労だ。
 結局掃除はパス。明日が休務日の夫が掃除機をかけてくれるというのでお任せすることにした。一昨日・昨日と洗濯機は廻したけれど、3日間で出来た家事といえば初日の夕食の支度とレンジ周りの掃除、昨日今日の洗い物とお風呂掃除だけ。
 何もしなくても1日は過ぎるのだ、と深いため息が漏れる。
  
 横になっているかウトウトしているしかない日曜日。母は明日がコロナワクチン接種の初回予約日だ。ご機嫌伺いのDuo通話をしたら、今はそのことで頭が一杯で、と言っていた。いつものクリニックで慣れた先生に打って頂けるのだから、安心だろうと思うのだけれど、どこまで気が小さいことか。

 夕食は予定通り今朝届いた野菜と岩塩のスープと石窯パン。冷凍唐揚げをチンしてレモン汁漬けにして。夫は自分で肉を焼いたりして別メニュー。
 そしてまた新しい1週間が始まる。明日は仕事だ。避けたいと思いつつも避けられない籠城蟄居の週末。またふわふわと頼りない足を必死に持ち上げながらの出勤になる。
 とにかくこの体調不良が収まって復調してくる兆しを感じるまでのあと数日は、ひたすら辛抱(タパス)あるのみなのである。 
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2021.5.15 エンハーツ15クール目、さらに減量11回目投与後3日目のこと ヨーガスートラ講座第2章2日目

2021-05-15 21:39:20 | ヨガ
 昨夜は早め寝なくてはと思っていた(記事にも書いた)筈なのに、寝不足だった夫が9時頃にはリビングでウトウトし始め、「眠いならさっさとお風呂に入ったら?」と声をかけているうちに、隣にいたこちらまでビデオを視ながら寝落ちてしまった。はっと目覚める度に1時間単位で時計が進んでいる。
 そして深夜2時。嗚呼、またしてもやってしまった。そこからノロノロと起き出し、先に入浴。夫は「お腹が空いた」などと言っていたけれど、構わずベッドに向かう。眠りについたのは3時をすっかり回っていた。

 あっという間に朝。4時間近くベッドにいただろうか。今日から曇りが続くという予報だったけれど、お天気は良さそうだ。目覚めるとやはり吐き気が襲う。落ち着くのを待ってから動き出すとギリギリだ。朝食の支度を整えて夫を起こす。鏡を見ると顔は相変わらず浮腫んでいる。火照りも酷い。嗚呼、不細工。 

 ヤクルトでナウゼリンを飲んでからドーナツを3分の2ほど、昨日と同じアンデスメロンを2かけ、いちご半粒、ぶどう2粒をお腹に入れる。和紅茶も飲み切れず、残りは講座を聴きながら頂くことにする。
 昨朝で治療後2日間のデカドロン4㎎とイメンド80㎎が終了し、今朝からは胃薬タケプロン、整腸剤ミヤBM、痛み止めのコデインに吐き気止めカイトリル朝食後と、疲労止めエルカルチン2錠が毎食後に加わった。
 エルカルチンはとにかく大きいし、以前はそれほど気にならなかった匂いがやけに気になって(魚のような生臭さが鼻に突く。普段に増して鼻が利くようになっている。)飲みにくい。なんとかヤクルトで流し込む。

 身支度を整え、オンラインヨーガ・スートラ講座受講のために書斎へ移動する。
 無事Zoomに繋げ、Sさんとご挨拶。ご子息のT君はますますお喋りが上手になって、ママに纏わりついている。すっかり夏らしく前髪の短いスタイルが可愛かった。
 次々に参加者の皆さんがPCの画面に揃っていく。今日から初めて参加される方もおられるようだ。T君の可愛らしい「おはよう」のご挨拶の後は出席確認。ॐ(オーム)の音を3回皆で唱えてクラスが始まる。

 続いて瞑想タイム。腹式呼吸から完全呼吸をすることで自分の周りにあるプラーナ(エネルギー)や智慧を取り込み、満たされる感覚を味わう。

 前回の続き2章2-1のおさらいからスタート。クリヤーヨーガ(行動の中のヨーガ)はタパス(辛抱)とスヴァディヤーヤ(内観)とイーシュヴァラプラニダーナ(神への祈り)から成る日常の行動である。
 今回からSさん特製、画面共有の資料が登場した。実に分かり易くノートが取りやすい。前回教えて頂いた「パンチャ・アグニ」(5つの火)を確認した後、3種類のタパス(辛抱)の説明がある。

 1サトヴィック(純性)、2ラジャシック(動性)、タマシック(暗性)がそれである。私たちが練習したいタパスは1。辛いこと(病気、けが等も含む)が起こってもスマイルをしながら軽やかな気持ちで進むこと、である。タパスをしているという力みなく自然にやっていくこと、辛いと思わずにさぁ、やりましょうと乗り越えることこそ、なのである。

 前回、こうしてきつい治療を続けているのは自分が生きていくために行うべきタパスだと書いたけれど、まだまだだな、と思う。これをすることで今、自分は磨かれていると感じながらもっと軽やかに臨みたいと改めて思う。
 ラジャシックは結果や見返りに期待して行うこと、例えば他人から評価されると思ってのボランティア等であるが、これは避ける。タマシックは誰にも言われていないのに自分をダメだと思い、自分で自分を罰するという悪魔的なタパスと言われている。これもお薦めしない。

 そのタパス(辛抱)には3つの区分がある。1からだのタパス、2言葉のタパス、3こころのタパスがそれである。
 1の、からだのタパスは清潔で衛生的に保ち、気怠さや倦怠感を追い払う。五感で自分をコントロールする。空腹でなければ食べず、見たいものがないのにTVやスマホを見るのを止める。
 2の言葉のタパスでは、意識して良い言葉を使う。言葉は鋭いナイフにも花を捧げるものにもなる。人のこころを悪い方に騒がせない言葉を選ぶことが大切だ。真実を話す時、正論は耳に痛いことがある。だからこそ優しい言葉をチョイスする。ヨーガを行って心が穏やかになるとその人の言葉は大きな影響を持つようになる。言われた側はそのことを真に受ける可能性が上がり、現実になりやすくなる。自分が使った言葉は必ず自分に返ってくる。だからこそ言葉には気を付けて、である。

 3つ目のこころのタパスには4種類がある。
 1マナップラサーダ、2ソウミャッターム、3モウナム、4アートマ・ヴィニグラハがそれである。
 1は、心の喜び、満足感を維持すること、常に心を心地よい状況に保つこと。
 2は、心を良い状態にしておきながら同時に冷静さを保つこと(浮かれすぎないこと)、つまりは智慧を持った(純粋で好奇心に満ちた)子どものような人になる、共存することがヨーガであるということ。
 3は、こころのお喋りを静かにして、こころに落ち着きをもたらすこと。
 4は、本当の自分(セルフ)に何度も戻ること。いくら練習してもこころが迷子になることはあるけれど、これはこころの性質であり、当然のことなので気に病まなくて良い。だからそのたびに何度も練習して本当の自分に戻る、それこそがヨーガである。

 おまけの話で「こころ」はどこにある?というお話も興味深かった。肉体の中のどこにあるのか、ではなく、ヨーガではこころの中に肉体が存在すると考える。肉体の周りにその10倍の大きさもあるプラーナ、その周りにやはり10倍の大きさでこころや思考が、さらにその周りに直観(真実の智慧)が、最後の外周が至福である。

 瞑想をして喜びに満ちた感じになると自分が大きくなったような感じがする経験があるが、肉体迄が自分ではなく、それをはみ出した大きな存在であることを感じられるからだという。逆に哀しみやがっかりした気分でいると、息苦しくちっぽけで縮んだ存在と感じる。本来ある大きさを押し込めているので息苦しく不幸な感じがする。人は皆、一人一人ははかり知れない素晴らしい大きな存在なのに、小さい所に押し込められるとそこから出ることも本来の大きさに戻って来ることも出来なくなる。そこから脱出するには別の視点に立って、自分を膨らませ、喜びに満ちた自分に戻る必要がある。

 2つ目の内観はタパス(辛抱)をしている時に一緒に行う方が良い。自分を冷静に振り返ることがないとエゴ(自分が練習していることを他者との区別に使う、自分の練習を武器のように使う)が強くなる。なぜそれをするのか、周りが言うから、誰かに言われるから、では達成しても嬉しくない。不要な物を整理して、本当にやりたいこと、大切なものを維持していかないともったいない。それをきちんと継続して行う。自分を見つめて知ることで精神的・感情的な不純物が減り、不安や怖れもなくなっていく。

 3つ目の神への祈り(イーシュヴァラプラニダーナ)も辛抱、内観と全て関連している。ここでいう神とは人格をもったものではなく、この世界の全てを作る純粋なエネルギーである。全てを司るエネルギーがあることを理解し、それに委ねる練習である。
 一旦全てを返し、全てを捧げる。すると私は何物でもない、でも私の中に全てがあったこと、私はこの世界の一部であり、この世界の全てだったことに気づく。「全てはうまくいっている」をベースに今は最善のことが起こっている、全て最善のことをやっている、と気づく。
 真の自分(セルフ)に戻るテクニックは「委ねる」こと。自分が真の自分(セルフ)と感じられない、繋がりを感じられない、欠点を病んだり、嫌悪感を持つと、神との一体感が断ち切られる感じがするが、神聖なものから遠ざけて切り離しているのは自分であり、神聖なものの方から私たちを切り離したりはしない。自分の中がとても静かで(だから留まっているのではなく)動きながら(活動しながら)も静かでいられること、両極端のものを合体して生きることこそヨーガの境地である。

 2章2-2でクリヤーヨーガは苦しみを弱めるためのものと学んだが、続く2-3で苦しみの原因である5つのものを示すスートラをSさんの後について復唱する。
 タパスを理解することはこれから学びを続けていく上で大変重要ということで、時間をたっぷりかけての説明となった。

 質問タイムでは次々と手が上がる。講座が終わった後のこの時間がとても好きだ。実践的なイライラの切り替え方法や怒りの発散方法を伝授して頂いたり、5つの苦しみの中に痛みが出てこないのは、何故?やオンラインミーテイングでの学びの空気感、リアルで逢う感じとどう違うか等まで広がり、実に興味深い。
 これで今日のクラスは終了。皆でॐ(オーム)を1回唱えてお開きだ。

 なんとなく名残惜しくて、退出ボタンが押せないのはいつものこと。結局、常連のJさんと今朝もまた残ってしまった。今の治療で体調不良中だけれど、この辛抱(タパス)がもっと軽やかにできるようになりたいと言葉にしたら、なんだか出来るような気がしてきた(単純)。

 満ち足りてとても穏やかな優しい気分でPCを切り、部屋から出た。外はいいお天気。風のそよぎ、樹々のざわめきも心地よい。せっかくのお天気、もったいないので、それほど溜まってはいなかったけれど、洗濯機を廻して、ベランダに干した。
 
 その後、夫はクリーニング屋さんを往復してきた。お昼を過ぎても空腹は感じなかったけれど(今朝のタパスの教えでは、無理して食べなくても良かったのだ。)、せっかく夫が買ってきてくれた小さな塩味のカップ麺を頂いた。塩気は分かったものの、味がよくわからない。結局スープだけ飲んで麺は半分も食べられなかった。

 夫が、この後Zoomのオンラインミーティングデビューだというので、サポートをさせて頂いた。予定では1時間のミーティングは倍もの時間がかかっていた。
 夕方には買い物にも行ってくれた。有難いことである。こちらはずっとリビングでダラダラウトウト。外の風が強くなったので洗濯を入れて畳んだだけ。
 夕食も夫がうどんを作ってくれた。半玉ほど頂けたかどうか。とにかくひたすらだるくて眠くて食欲不振である。

 せっかくヨーガ・スートラを学んだ日、少しでもこの穏やかさを持ちながら動いて行けたらいいな、と思っていても現実はままならないものである。
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