何度かこのブログでも紹介させて頂いている、読売新聞ヨミドクター連載中の高野利実先生のコラム、本日の最新号である。
今回はいつにもましてしみじみ拝読したので、以下、全文を転載させて頂きたい。
必要以上にがんが治ることのみについて強く求め、自分で自分を苦しく、辛くしているかもしれない一人でも多くの方に読んで頂ければ、と思う。
※ ※ ※(転載開始)
Dr.高野の「腫瘍内科医になんでも聞いてみよう」2021年5月19日
医療・健康・介護のコラム 人間はいつか、がんで死ななくなると思いますか?
「人間はいつか死ぬ」という乗り越えられない事実
私は、人類が人類である限り、がんという病気はなくならないと思っています。
この世界に生まれた人間は、徐々に年老いて、病気になり、やがて死を迎えるというのが自然の摂理です。科学技術の進歩で永遠の生命が得られる日が来る可能性はゼロではないかもしれませんが、もしそうだとしたら、永遠の生命を得た存在は、もはや、人類とは呼べないのではないかと、私は思っています。
人間とは、いつかは死ぬ存在であり、それは乗り越えられない厳然たる事実です。死を内在するからこそ、その存在に価値が生まれるというのは、古来多くの人々が語ってきたことです。がんという病気は、誰もがなりうるものであり、年齢を重ねるごとに、その頻度は増していきます。病気というよりも、もともとプログラムされた老化現象に近いものだという考えもあります。
「がんの根絶」よりも大事なもの
いつかは死ぬということが自然の摂理だとしても、人間一人ひとりが、病気や死を恐れ、「長く生きたい」と願う気持ちもまた、自然なものです。その気持ちを支えながら、折り合いをつけていくのが、医療の役割なのかもしれません。
人類の歴史の中で、医療は確実に進歩し、特に近年の発展スピードは著しいものがあります。かつては制御できなかった病気も制御できるようになり、人間の寿命も延びました。がんという病気に対しても、多くの技術や薬物療法が開発され、がんにかかっても、かつてより長く生きられるようになっています。このまま進歩が加速すれば、「いずれは、すべてのがんが制御できるようになるのではないか」「人類はがんを根絶できるのではないか」と思うのも、自然な発想なのかもしれません。でも、私は、「がんの根絶」が究極の目標だとする考え方には違和感を覚えます。「がんの根絶」が、本質的に困難だというのもありますが、仮に「がんの根絶」が達成しうるものだとしても、それは人類の目指す究極の目標にはならないと思っています。
「がんを扱う医者なのに、がんの根絶を否定するとはなにごとか」と思われるかもしれません。患者さんの夢や希望を踏みにじるように聞こえるかもしれません。でも、私は、「がんの根絶」よりも大事なものがあると思っているのです。それは、「人間の幸せ」です。
「がんの根絶」を究極の目標としてしまうと、がんの根絶ができていない今の医療は不完全なものであり、がんを治せないことはダメなことになってしまいます。この考え方は、がんを抱えながら生きている方々を追い詰めてしまうことにもなります。がんが治らないとしても、いつかは死を迎えるとしても、その運命の中でできることはたくさんあります。運命を否定してそれにあらがうのではなく、運命の大きな流れにある程度身をゆだねつつ、その中で幸せを考え、日々の人生を自分らしく生きていくことが重要で、それを支えるために医療があります。
人間の幸せを考えずに、がんの根絶を目指すことに意味はありません。しかし、がんの根絶が達成できなくても、人間の幸せを考えることはできます。医療の究極の目標は、「人間の幸せ」にあるべきなのです。
「人間の幸せ」こそ医療の壮大な夢
がんがあるかどうかで運命が分かれるように思われがちですが、実は、体の中にがんがあるかどうかの境目は、あいまいなものです。がんは誰もがなるものであって、すべての人がその種を持っているとも考えられます。根治したように見えても、種がまだ残っている可能性はあります。がんとうまくつきあいながら過ごしている人もたくさんいます。がんがあるのかどうかよりも、うまく過ごせているかどうかの方がよっぽど重要です。今後、がんがあってもうまく過ごせるように医療が進歩していけば、「がんの根絶」にこだわる必要もなくなってくるような気もしています。
私は、高校生のとき、NHKスペシャル「驚異の小宇宙 人体」を見て、衝撃を受けました。その番組では、「人間の体は、年齢を重ねると、死に向かうようにプログラムされている」ということを淡々と伝えていました。医師を志していた私は、漠然と、病気を追い出し、死を避けることが医療の本質であると思っていたのですが、この番組を見て、「病気になるのも、死を迎えるのも自然の摂理である」という事実を突き付けられ、「医療とは、自然の摂理と相いれない行為なのかもしれない」という考えにぶつかったわけです。
以来、私は、死を内在する人間に対して、医療がすべきことは何なのかを考えてきました。医療現場に出て20年以上たってもなお、答えを探し続けている状況ですが、そんな中で考えてきたことの一端を、今回は書かせていただきました。がんを完全になくすことはできないし、人間が死ななくなるようにもできない。たとえできたとしても、それが人類の目指すべき究極の目標ではない、というのが、現在の私の考えです。それは、決して、夢のない話というわけではなく、むしろ、もっと大切な夢につながっています。「がんの根絶」ではなく、「人間の幸せ」こそが、これからも医療が追い求めるべき壮大な夢です。
大宇宙の悠久の時間の流れの中で、人間の力ではどうしようもできないこともありますが、その中で、一人ひとりの幸せを目指すことにこそ、医療の本質があります。人類が人類である限り、医療は、人類の幸せを目指すために存在し続けることでしょう。(高野利実 がん研有明病院乳腺内科部長)
(転載終了)※ ※ ※
医療の進歩は目を見張るほどすさまじい。まさしく日進月歩である。日々多種多様の高度な研究が行われ、人類の幸せを願って切磋琢磨している。
もしハーセプチンという治療薬がなかったら、間違いなく今頃私は生きていなかっただろうし、その後のカドサイラ、今使っているエンハーツもしかりである。
それらの新薬の恩恵に預かれたということに対して感謝したい。けれど、それらの薬もいつかは効かなくなる日が来ることも覚悟しなければならない。
それでも、その薬によって穏やかな日々が送れているならば、「次は、またその次は」と先走って探り続けることはしたくない。それは決して幸せなことではないだろう。人類も医療も、進歩はすれども万能ではないのだ。そして何より人は生まれたからには不死ではありえないのだから。
今、なぜ、きつい治療を続けているのかと問われれば、そのことによってその先に少しでも用意されているであろう穏やかなおまけの(治療をしなければ得られることの出来ないであろう)幸せな時間を得たい、得られるだろうと思っているからだ(欲張りと言われればそれに違いない。)。
けれど、それは決してこの病気の完治を望んでいるというわけではない。
がんという病気と共存することになった私の人生は、(がんが)治れば勝ち、治らなければ負け、というそんな単純な試合ではない。
完治だけを望み過ぎると自分がどんどん辛くなる。もう一度そのことをよく自覚して治療を続けていきたいと思う。
そして、これから先、標準治療で尽くせる手がなくなった時には、ジタバタせず、心穏やかに「これまで私は十分頑張ってきた。今はその時が来たのだ。」と事実を受け容れたいと思う。
さて、エンハーツ15クール目の治療から1週間が経った。相変わらず体調は優れない。梅雨の走りのような気候で頭も重く、痛い。胸骨周辺には鈍痛がする。湿度の上昇とともにマスクの息苦しさも増している。
身体は座っていても、立っていてもとりとめなくバラバラでまとまらず、気持ちが悪い。
そんな中、午後はびっちりとWeb研修があった。3,4人のグループワークがメインだったので、全員が講義を受けた後に行われた小グループに分かれてのワークは、PC画面上で出たり入ったり、とかなり忙しかった。
慣れない方法に最初は皆戸惑っていたけれど、終わってみれば今やこういうのもありだな、といい経験になった。
そんなわけで定時には退勤出来ずじまい。それでも少しずつ、週末に向かって上り調子であることを信じつつあと2日乗り越えたいと思う。
帰宅すると、先週システムトラブルで一品も届かなかった生協のお届け品が玄関前にたっぷり置かれていた。えっちらおっちらと取入れた。
夫が帰宅してからお助けマンのミールキットで夕食を作った。もうそれだけで十分頑張った感がある(レベルが低いのだ。)。
さて、一昨日ワクチン接種1回目を終えた母は、昨日は腕が痛み、なんとなくだるくて何もする気がしなかったそうだ。が、48時間が経過した今日は痛みもなく、大丈夫だとのこと。明日はまたデイサービスに行ってくるという。この調子で2回目も無事クリアしてほしいものである。
今回はいつにもましてしみじみ拝読したので、以下、全文を転載させて頂きたい。
必要以上にがんが治ることのみについて強く求め、自分で自分を苦しく、辛くしているかもしれない一人でも多くの方に読んで頂ければ、と思う。
※ ※ ※(転載開始)
Dr.高野の「腫瘍内科医になんでも聞いてみよう」2021年5月19日
医療・健康・介護のコラム 人間はいつか、がんで死ななくなると思いますか?
「人間はいつか死ぬ」という乗り越えられない事実
私は、人類が人類である限り、がんという病気はなくならないと思っています。
この世界に生まれた人間は、徐々に年老いて、病気になり、やがて死を迎えるというのが自然の摂理です。科学技術の進歩で永遠の生命が得られる日が来る可能性はゼロではないかもしれませんが、もしそうだとしたら、永遠の生命を得た存在は、もはや、人類とは呼べないのではないかと、私は思っています。
人間とは、いつかは死ぬ存在であり、それは乗り越えられない厳然たる事実です。死を内在するからこそ、その存在に価値が生まれるというのは、古来多くの人々が語ってきたことです。がんという病気は、誰もがなりうるものであり、年齢を重ねるごとに、その頻度は増していきます。病気というよりも、もともとプログラムされた老化現象に近いものだという考えもあります。
「がんの根絶」よりも大事なもの
いつかは死ぬということが自然の摂理だとしても、人間一人ひとりが、病気や死を恐れ、「長く生きたい」と願う気持ちもまた、自然なものです。その気持ちを支えながら、折り合いをつけていくのが、医療の役割なのかもしれません。
人類の歴史の中で、医療は確実に進歩し、特に近年の発展スピードは著しいものがあります。かつては制御できなかった病気も制御できるようになり、人間の寿命も延びました。がんという病気に対しても、多くの技術や薬物療法が開発され、がんにかかっても、かつてより長く生きられるようになっています。このまま進歩が加速すれば、「いずれは、すべてのがんが制御できるようになるのではないか」「人類はがんを根絶できるのではないか」と思うのも、自然な発想なのかもしれません。でも、私は、「がんの根絶」が究極の目標だとする考え方には違和感を覚えます。「がんの根絶」が、本質的に困難だというのもありますが、仮に「がんの根絶」が達成しうるものだとしても、それは人類の目指す究極の目標にはならないと思っています。
「がんを扱う医者なのに、がんの根絶を否定するとはなにごとか」と思われるかもしれません。患者さんの夢や希望を踏みにじるように聞こえるかもしれません。でも、私は、「がんの根絶」よりも大事なものがあると思っているのです。それは、「人間の幸せ」です。
「がんの根絶」を究極の目標としてしまうと、がんの根絶ができていない今の医療は不完全なものであり、がんを治せないことはダメなことになってしまいます。この考え方は、がんを抱えながら生きている方々を追い詰めてしまうことにもなります。がんが治らないとしても、いつかは死を迎えるとしても、その運命の中でできることはたくさんあります。運命を否定してそれにあらがうのではなく、運命の大きな流れにある程度身をゆだねつつ、その中で幸せを考え、日々の人生を自分らしく生きていくことが重要で、それを支えるために医療があります。
人間の幸せを考えずに、がんの根絶を目指すことに意味はありません。しかし、がんの根絶が達成できなくても、人間の幸せを考えることはできます。医療の究極の目標は、「人間の幸せ」にあるべきなのです。
「人間の幸せ」こそ医療の壮大な夢
がんがあるかどうかで運命が分かれるように思われがちですが、実は、体の中にがんがあるかどうかの境目は、あいまいなものです。がんは誰もがなるものであって、すべての人がその種を持っているとも考えられます。根治したように見えても、種がまだ残っている可能性はあります。がんとうまくつきあいながら過ごしている人もたくさんいます。がんがあるのかどうかよりも、うまく過ごせているかどうかの方がよっぽど重要です。今後、がんがあってもうまく過ごせるように医療が進歩していけば、「がんの根絶」にこだわる必要もなくなってくるような気もしています。
私は、高校生のとき、NHKスペシャル「驚異の小宇宙 人体」を見て、衝撃を受けました。その番組では、「人間の体は、年齢を重ねると、死に向かうようにプログラムされている」ということを淡々と伝えていました。医師を志していた私は、漠然と、病気を追い出し、死を避けることが医療の本質であると思っていたのですが、この番組を見て、「病気になるのも、死を迎えるのも自然の摂理である」という事実を突き付けられ、「医療とは、自然の摂理と相いれない行為なのかもしれない」という考えにぶつかったわけです。
以来、私は、死を内在する人間に対して、医療がすべきことは何なのかを考えてきました。医療現場に出て20年以上たってもなお、答えを探し続けている状況ですが、そんな中で考えてきたことの一端を、今回は書かせていただきました。がんを完全になくすことはできないし、人間が死ななくなるようにもできない。たとえできたとしても、それが人類の目指すべき究極の目標ではない、というのが、現在の私の考えです。それは、決して、夢のない話というわけではなく、むしろ、もっと大切な夢につながっています。「がんの根絶」ではなく、「人間の幸せ」こそが、これからも医療が追い求めるべき壮大な夢です。
大宇宙の悠久の時間の流れの中で、人間の力ではどうしようもできないこともありますが、その中で、一人ひとりの幸せを目指すことにこそ、医療の本質があります。人類が人類である限り、医療は、人類の幸せを目指すために存在し続けることでしょう。(高野利実 がん研有明病院乳腺内科部長)
(転載終了)※ ※ ※
医療の進歩は目を見張るほどすさまじい。まさしく日進月歩である。日々多種多様の高度な研究が行われ、人類の幸せを願って切磋琢磨している。
もしハーセプチンという治療薬がなかったら、間違いなく今頃私は生きていなかっただろうし、その後のカドサイラ、今使っているエンハーツもしかりである。
それらの新薬の恩恵に預かれたということに対して感謝したい。けれど、それらの薬もいつかは効かなくなる日が来ることも覚悟しなければならない。
それでも、その薬によって穏やかな日々が送れているならば、「次は、またその次は」と先走って探り続けることはしたくない。それは決して幸せなことではないだろう。人類も医療も、進歩はすれども万能ではないのだ。そして何より人は生まれたからには不死ではありえないのだから。
今、なぜ、きつい治療を続けているのかと問われれば、そのことによってその先に少しでも用意されているであろう穏やかなおまけの(治療をしなければ得られることの出来ないであろう)幸せな時間を得たい、得られるだろうと思っているからだ(欲張りと言われればそれに違いない。)。
けれど、それは決してこの病気の完治を望んでいるというわけではない。
がんという病気と共存することになった私の人生は、(がんが)治れば勝ち、治らなければ負け、というそんな単純な試合ではない。
完治だけを望み過ぎると自分がどんどん辛くなる。もう一度そのことをよく自覚して治療を続けていきたいと思う。
そして、これから先、標準治療で尽くせる手がなくなった時には、ジタバタせず、心穏やかに「これまで私は十分頑張ってきた。今はその時が来たのだ。」と事実を受け容れたいと思う。
さて、エンハーツ15クール目の治療から1週間が経った。相変わらず体調は優れない。梅雨の走りのような気候で頭も重く、痛い。胸骨周辺には鈍痛がする。湿度の上昇とともにマスクの息苦しさも増している。
身体は座っていても、立っていてもとりとめなくバラバラでまとまらず、気持ちが悪い。
そんな中、午後はびっちりとWeb研修があった。3,4人のグループワークがメインだったので、全員が講義を受けた後に行われた小グループに分かれてのワークは、PC画面上で出たり入ったり、とかなり忙しかった。
慣れない方法に最初は皆戸惑っていたけれど、終わってみれば今やこういうのもありだな、といい経験になった。
そんなわけで定時には退勤出来ずじまい。それでも少しずつ、週末に向かって上り調子であることを信じつつあと2日乗り越えたいと思う。
帰宅すると、先週システムトラブルで一品も届かなかった生協のお届け品が玄関前にたっぷり置かれていた。えっちらおっちらと取入れた。
夫が帰宅してからお助けマンのミールキットで夕食を作った。もうそれだけで十分頑張った感がある(レベルが低いのだ。)。
さて、一昨日ワクチン接種1回目を終えた母は、昨日は腕が痛み、なんとなくだるくて何もする気がしなかったそうだ。が、48時間が経過した今日は痛みもなく、大丈夫だとのこと。明日はまたデイサービスに行ってくるという。この調子で2回目も無事クリアしてほしいものである。