散日拾遺

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聖夜

2013-12-25 08:37:48 | 日記
2013年12月24日(火)

  光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ:1-5)

 新共同訳は「理解しなかった」と訳す。歴代の聖書が苦慮する箇所である。

  光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。(文語訳)
  光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(口語訳)

 「悟らざりき」⇒「勝たず」⇒「理解せず」と二転した原語は ου κατελαβεν、もともと「理解する、悟る」と「うち勝つ」の両義をもつ動詞だから厄介なのだ。文脈からもどちらの訳もあるところで、英・独・仏など各国語の聖書も同様に苦心している。ルター氏がラテン語聖書のドイツ語訳を志したとき既に問題は存在した筈で、ルター訳がどちらを採ったかいずれ確認しておきたい。
 ラテン語訳は comprehendo という動詞をあてたのだが、ギリシア語からラテン語に訳した人(々)はどう考えていたのか。というのも comprehendo は κατελαβεν < καταλαμβανω に似て「理解する」と「うち勝つ」の両義に親和性をもつものの、子孫にあたる comprehend(英)、comprendre(仏)からも分かるとおり「包含する」を原義とする。そこから「理解する、悟る」と「取り押さえる、拘束する」の両義が派生するが、どちらかといえば前者が優位で、後者から「うち勝つ」を連想するほうがやや遠い話のように思われる。この理解が正しいとすれば、ラテン語訳の時点でひとつの解釈的決断が行われていることになる。
 「うち勝つ」という訳は、ラテン語からの転訳を避けてギリシア語原典に直接挑む時、より魅力的に浮上する選択肢なのではあるまいか。

 僕?僕は「うち勝つ」派だ。
 空間をとっぷり閉ざす巨大な暗闇の中で、一本のろうそくはいかにもはかなく見える。しかし、見つめれば目を眩ますほどに芯の強い一点の光源を、暗黒(くらき)はどうしても消し去ることができない。微かにも輝き続ける光源が、おし包む暗黒の力をいつの間にか押し返し、逆に暗黒をおし包んでこれを無力にする。
 大いなる正午が昇ってくる。

*****

 24日の夜、この日この時ばかりは、教会が外の人々であふれかえる。第一部は礼拝、第二部は昨年に続いてT女学院のハンドベルチームが楽しい演奏をきかせてくれた。教会員のFさんが指導する生徒達で、演奏後のFさんの挨拶に「遠方の子ども達もおりますので、失礼ながら『ひき逃げ』をお許しいただきます」とあって皆が顔を見合わせた。
 この夜、ベツレヘムの厩で生まれた幼子の、生涯の終わりを僕らは知っている。それが僕らの救いであることも、また知っている。司会の次男がそんなふうに祈りを結んだ。
 礼拝後のキャロリングはここ何年か休止中。玄関で振る舞われるココアが温かく美味しい。

 クリスマスおめでとう