散日拾遺

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医学の進歩と心の援助/ジュリアーノ・ジェンマ/お稲荷さん/明治のこころ

2013-12-01 23:55:51 | 日記
先週の振り返り日記:

2013年11月26日(火)

 午後からCMCCの公開講演会。
 内輪を含めて20人ほどの参加者はちょっと寂しいけれど、こちらも気兼ねなく思いきった話ができる。『医学の進歩と心の援助』という御大層なタイトルで、現今の急速な医学進歩の中で「カウンセリング」などはどうなっていくのかという質問に発したことだが、むろんどうもなりはしない。
 温故知新、1952年のクロルプロマジン革命が心理療法を排除するどころか、むしろそれらが開花するための地均しをしたことを、懐かしいH病院の古いカルテのことなど思い出しながら証言する。1793年にピネルが先鞭をつけながら、技術的な裏づけを欠いたために長らく実現しなかったことを、160年後に同じフランスの医師らが現実化したのだと放言しつつ、なるほどそうだと自分がまた頷いている。人前で話させてもらうのは、このように自分が得をする。
 帰り道は妙に疲れて珍しく電車で座りたいと思ったが(最近こういうことが増えている)、渋谷駅で人身事故だそうで山手線が止まり、煽りを食らって京浜東北線も早い時間にしてはけっこうな混雑である。後で聞けば、飛び込んだ女性は無傷で電車の下に入り、それを乗客らも手を貸して引っ張り上げたのだという。
 大井町線では、一歳児連れの若いお母さんの隣りに立った。男の子が、ただただ眠いばかりに駄々をこねる例の場面である。お母さん、賢くもじっと抱きしめてあやすうち、ほどなく子供がダウンした。
「眠かったんですね」と声をかけると、
「寝てくれると可愛いんですけど」と実感のこもった返事。
 お疲れさま、お気をつけて。


2013年11月27日(水)

 何日分かたまった代休の一日を消化する。
 一日寝ていたい気もしたが、「明治のこころ」展に行くなら今日しかないと連れ立って出かける。新聞屋さんから招待券を2枚ゲットしたのだ、無駄にできるものではない。
 最寄り駅で降りたときはもう昼食時で、イタリア料理店でまず腹ごしらえ。イタリアに関係あるのやないのや、少々節操なく貼られた壁の写真に、懐かしやジュリアーノ・ジェンマのカウボーイ姿が混じっている。マカロニ・ウエスタンの往年の売れっ子だ。
 『荒野の1ドル銀貨』『南から来た用心棒』『星空の用心棒』『怒りの荒野』、見たよ見たよ全部見た、テレビでだけどね。特に『怒りの荒野』でリー・ヴァン・クリーフと共演したのが良かったな。
 どうしているのかと帰って調べたら、何と今年10月に急逝していた。
 ↓ この写真がレストランの壁に貼ってあったものである。

 1938年生まれの満75歳、晩年は彫刻家としても活躍していたが、ローマ近郊で自家用車を運転中、対向車と正面衝突して亡くなったとある。野沢那智の吹き替えがぴったりだった。

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 わざわざ一駅となりの錦糸町から出発して、浅草橋までぶらぶら歩く。北斎通りの名は、画家がこの近辺で生まれたからのようだ。途中、スカイツリーが足元からてっぺんまで完全一望できる交差点があり、妙に得した気になった。
 さらに進むと道沿いに津軽稲荷神社、こちらはかつて津軽藩下屋敷の屋敷神だったらしい。さて、ここで気になったのは、お稲荷さんの狐も「阿」と「吽」になっているかということで、失礼して写メで撮影。結果は下の通り。
  
 撮影がヘタで、これじゃ分からないね。一見どちらも口を閉じているようだが、接近観察するとはっきり違いがあり、向かって右は歯を剥き出しているのに対して、左はまったく歯が見えない。このあと、野見宿禰(のみのすくね)神社でも確認したからどうやら間違いない。これがお稲荷さん流の阿吽と見える。 
 
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 さて肝心の「明治のこころ」展、多言は要らない、素晴らしいの一言に尽きる。
 モースという人がこれほどの知日家であり、こんなにも豊かな日本コレクションを遺しているとは知らなかった。それを僕ら自身のために感謝するというのも、明治10年前後の日本人の生活がいかに豊かなものであったかを、つくづくと知るからである。
 物の総量は少なく、前近代に偏っているかも知れない。しかし技術水準は驚くべく高く、利便性と美しさが絶妙な調和を醸し、それが人々の日常に見事に織り込まれているのである。そして何より、写真に写った人々の笑顔の朗らかな美しさ!


 これは朝日新聞にも特大サイズで載った写真で、そもそもこれを見て展覧会に行きたいと思ったのだが、どうだろうこの笑顔の競演は!子ども達はもちろんのこと、まわりの大人たちまで顔中で笑っているだろう、こんな屈託のなさがその時代にあったのだ。

 それで思い出したが、齋藤孝が最初に売れた本の中で紹介した『ボンジュール・ジャポン』という写真集がある。これは1882(明治15)年に日本を旅行したフランス人青年が撮影した写真のコレクションだ。モースの日本滞在・訪問は1877-1873(明治10-16)年にわたるから、完全に同時期のものである。この二つの情報源から浮かび上がる明治初期の日本、半植民地状態にあった黎明の日本の住民は、まるで無垢の楽園の人々のように思われる。
 『坂の上の雲』の司馬遼太郎の有名な言葉、「坂の上に一朶の雲があれば、それを見上げて登り続けたであろう」という明治人の規定に異議はないのだが、もしも人がそこに貧しさゆえの貪欲な上昇志向を見るとすれば、大きな間違いだろうと思う。
 この人々の笑顔がこんなにも輝いているのは、そこに感謝があるからだ。現に与えられているわずかなものを喜びをもって受け、困難に満ちた日々の営みの中に希望と楽しみを見出す叡智は、大きな感謝に支えられてはじめて存在する。

 ひとつ決めた。モースが驚嘆した日本人の生活の簡素さ、そこにすっかり戻ることはできないまでも、せめて少しでも倣(まね)ぶことにしよう。没後に万巻の書と立派な琴のほか、何も遺っていなかったという耶律楚材(やりつそざい)に近づくことを目標にしよう。