散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ほたえな!

2016-08-28 07:45:16 | 日記

2016年8月28日(日)

 ついでながら、"Be still." の訳として考えられるもののうち、個人的にいちばん好きなのは・・・

「ほたえな!」

 僕の誤解でなければ、坂本龍馬も口にしたと思われる土佐弁である。「ほたえる」は関西一円に広がる表現のようだが、ところによっては「じゃれる、ふざける、戯れる」の意味が勝って、少しニュアンスが違ってくるらしい。なので敢えて土佐弁と言っておく。

 これについては『教えて!goo』の2009年のやりとりが面白い。中に京都在住の人の回答(No.4)として下記のものがあり、腑に落ちる感じである。

***

 私自身はほとんど使うことはありませんが、上2つ(石丸注:「ほたえる」と「ちょける」)は親の世代がよく使っていました。その場面を例としてあげてみます。

 ほたえる:  男の子がプロレスごっこなどで家の中でドタバタしている時に母が 「これ!ほたえなさんな!」(~しなさんな=~してはいけません) と叱りつける。

 ちょける: ちょろちょろと動き回っていたずらをする幼児の孫に対して 「この子はまたちょけて…」など。

(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4717325.html)

***

 京都でもその用法となると、「土佐弁」(だけ)とも言えないのか。何しろ「プロレスごっこ」はいいですね。戦争ごっこの止まらない地上の人類を、主が天上から「ほたえな!」と一括、それで地がしんと静まる幻を、僕らはどれほど渇望することだろう。

Ω


Be still.

2016-08-28 07:31:41 | 日記

2016年8月28日(日)

 "Be still and know that I am God."

 「私の愛唱句なんです。詩編の言葉で、いつもこれに支えられてます。」

 意地悪なツッコミは喉元で抑え、ただ感心しておくことにする。英語で聖書を読むのを好む人はときどきいて、もちろん結構なのだけれど日本語訳より英語訳の方が基本的に価値が高いわけではないことは、念のため知っておきたい。「基本的に」と注釈を付けるのは歴史の長さだけでもひとつの「価値」にはなるからで、英語を用いて達成された文学的・神学的蓄積を考えればそれなりの敬意は払う必要がある。ドイツ語やフランス語はなおのことだろうが、ただ聖書原文を伝える素材としては各国語の翻訳に優劣などあるはずもなく、クイーンズ・イングリッシュからケセン語に至るまで平等な輪/和ができあがるばかりである。

 ただひとつ違いがあるのは、原文としての旧約ヘブル語・新約ギリシア語で、こればかりはオリジナルとしての非対称的な重要性をもっている。(教会と神学の展開に直接連動するラテン語もこれに加えるべきかな。だけど新約聖書をギリシア語とラテン語で読み比べると結構な違いがあり、これがまた猛烈に面白かったりする。これは別の話。)

 で、

 「いいですね、詩編の何編でしょう?後で見てみたいので」

 「さあ・・・」と相手がドギマギした。これが意地悪だっての、何編だっていいでしょうに。実際こんなのはネットの便利で瞬時に調べがつく。"Be still" まで入れると全体が出てきたりする。

 たとえばNIV(New International Version): Psalm 46:10

  He says, “Be still, and know that I am God;

    I will be exalted among the nations,

    I will be exalted in the earth.”

(https://www.biblegateway.com/passage/?search=Psalm+46%3A10&version=NIV)

 なるほど、詩編46:10ですね。で、わが新共同訳に戻って見ると・・・

「主はこの地を圧倒される/地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」(詩編46:9-10)

 え?

「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」(同46:11)

 "
Be still and know that I am God." に対応するのは、明らかに11節前半である。英語訳と日本語訳でナンバリングがズレてる!一瞬動揺し、それから思い出した。新共同訳は詩の冒頭にある注釈というのか何というのか、「指揮者にあわせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。」などというのを従来訳と違って「1節」と数えるので、節数が一つズレるのである。そうそう、そうだった。そもそも聖書の章・節立ては後世の付加であって原文にはないのだから大騒ぎすることもないけれど、微妙なミスコミが起きやしないか心配になる。こんなのは変えずにおくほうが良くないだろうか。

そして訳文のこと、"Be still (静まれ)" と「力を捨てよ」とは、相通じるけれど同じではないよね。

「汝等しづまりて我の神たるをしれ」(文語訳 46:10上)

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語訳 46:10上)

 ということは、節数のズレ同様に「力を捨てよ」の訳も、新共同訳がもちこんだ変更ということになる。さてそのココロは・・・となると、やはり原文が読めないと具合が悪い。

 ヘブル語は40年前に挫折して以来なかなか気が進まないんだが、そろそろやらないと時間が足りなくなりそうだ。う~ん、悩むな・・・

Ω