散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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読書無用論への「愛書狂」のコメント

2017-09-11 18:47:46 | 日記

2017年9月11日(月)

 「パブリッシャーズ・ビュー/白水社の本棚」181号(2017年7月15日)、「愛書狂」欄に小気味よい記事あり。転記する。

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 三月八日付け『朝日新聞』の「声」欄に、21歳大学生からの「読書はしないといけないの?」なる投書があった。某君は高校生までまったく読書習慣がなく、大学へ入って、必要から専攻する教育や社会一般の本を読んだが、「読書が生きる上での糧になると感じたことはない」。それが問題視される方がおかしいという。

 後日、これについてどう思うか、賛否の意見が寄せられ、議論はさらに再びくり返された。「大人は読書を押しつけないで」と同調する中学生、「人との出会いを求めるなら」と諭す中年など様々。私はこのやりとりを不毛に思い、冷たく見ていた。もちろん、投書した某君は、読書する必要などまったくなく、そのまま一生を終えればいいのである。ただ、気の毒な人だと思うが……

 読軎体験に見返りや理屈は要らない。幼い頃に一度その喜びを知れば、頭より先に、身体が欲して止まないというだけのことだ。本は情報を盛る皿ではなく、読書は何より、深い感動が根底にある体験である。「声」欄の某君は、幼少時に絵本や児童書、青春期に文学の洗礼を受けていないようだった。痩せた土地に、いくら水や肥料をやっても、芽は出ず、花は咲かない。

 先日地下鉄で、こんな光景に出くわした。男子小学生が、背が取れかかってボロボロの歴史漫画の本を、夢中になって読んでいたのだ。父親の本だろうか。降りる駅が来て、少年は起ちあがったが、本は手に開いたまま。彼なら大人になっても「読書しないといけないの?」と悩むことはないだろう。私は心の中で拍手を贈った。

(野)

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 「愛書狂」は一面下部のコラム、「天声人語」(朝日)、「編集手帳」(讀賣)、「余録」(毎日)に相当する。愛媛新聞なら「地軸」で、このネーミングはなかなか良い。「愛書狂」欄もこれらに劣らず軽快な切り口で毎回楽しみにしているが、今回面白いのは最終段落で紹介される小学生の読んでいたのが「歴史漫画」であることだ。「漫画か、嘆かわしい」ではないのである。

 これは大いに嬉しいことで、僕も両親に買ってもらった科学漫画の12巻本を、「背がボロボロになるまで」愛読した。むろん活字本も劣らず濫読して今に至るけれど、『鉄腕アトム』やなぜか『のらくろ』はじめ漫画から受けた影響また否みがたく、どちらも大事というほかない。ただ、冒頭の21歳大学生氏がコラムを読んだら、「自分が言ったのは活字本のこと、漫画なら大いに生きる糧になる/なった」と言わないものか確信がなく、ひょっとしたら「愛書狂」子が的を外したのではないかとやや心配である。

 ついでながら「狂」の字のこと。これを精神疾患/障害に使わないのは確立した約束事だが、こういう文脈では活躍の余地がある。似た境遇にあるのが欧米語の mania で、もともと古代ギリシア語で躁病ないしは精神の変調一般を指すものとして使われた。「躁病」の用法が今日に引き継がれているのに加え、「◯◯mania」という表現もまた生き残って、ちょうど「◯◯狂」という日本語に照応するものになっている。bibliomania がほぼ「愛書狂」に相当するが、どちらかというと稀覯(きこう)本をあさる猟書家を意味するらしく、愛書家を表すならむしろ bibliophilia かもしれない。

 いずれにせよ、この語を敢えて使う編集者の思い入れは相当なもので、世の中には似たような御仁があるものだと微笑ましいのである。

 Ω

 


selfish から水木しげるへ

2017-09-11 07:29:44 | 日記

2017年9月11日(月)

> selfishと東京
> さっき『東京物語』のラストを確認する為にネットを色々見てたところ、この”ずるい”の英訳(英語版字幕)がなんであったかも見つけてしまいました。selfish だそうです。なるほど分からなくもないような微妙に違うような。。。
> 東京物語の長男長女家族の冷たさは私は都市部、特に東京が持つ魔力ゆえじゃないかなぁと思っています。
> 東京が冷たいというより、東京で暮らしていると田舎で暮らしてる人が別世界のように感じられてしっくり来なくて、うまくコミュニケーションが取れず邪険になってしまったというようなイメージの記憶が私の感覚としてあります。東京物語では東京の生活がせわしなさすぎてという部分もあったようにも見えました。 
> この映画のタイトルが東京物語なのも、東京の魔力みたいなものがテーマだからかと勝手に思っております。
> 偶然ですが、東京(都市)とselfishに関連があるようにも思えます。

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 勝沼さん、再度のコメント感謝。

 これはもう、面白すぎる領域に入ってしまって、とても手がつけられません。 ブログ上ではこのあたりでいったん中断させていただき、あらためてじっくり語らいましょう。

 予感としては、「selfish は『ずるいんです』に近いけれどとても意を尽くしていない」「東京と selfish の関連は面白いが、田舎は田舎で selfish でもあり、selfish のありようが違うのではないか」「selfish な田舎が消滅しつつある現在、東京は田舎抜きで selfish な東京たりうか」といったことが浮かんできます。

 ええ、面白すぎます!

 時に selfish を訳し戻すと「利己的」ですよね、「ずるい」と「利己的」が完全等号で結べないのが話のミソだと思いますが、ちょうど転記しようと思っていた文章に図らずも「利己的」の語が出てくるので、ここに御紹介します。「二十歳の水木しげるが出征直前まで考え続けた、死ぬ意味/戦争の無意味」と帯に対処されています。切なくも面白すぎる名著です。

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 仏教は悟りをひらいて絶対境に入らむが為めに修行をする。

 修行とは何か。利己に非ずや。金剛力とは何ぞ。何んの為の金剛力ぞ。誰が為の金剛力ぞ。道元言ふ、法の為め。

 法とは何んぞ。法とは自己の裡に築かれた価値である。そのために自己を犠牲にすると言ふ……と言ふ事は、自己を幸にする。即ち、ある種の利己主義ではないか……ある人言ふ。法の力に依って萬人を救ふ。この故に吾を犠牲にす。之如何で利己主義か。心理学的に言って之と謂うも明白に利己主義なのである。

 彼はかくすれば快なる故であると。

 だらだらしているとキリストにすまないような気がする。

 彼はあれ程までに人間の事を思ってくれたのに……世人は泥棒をする、嘘をつく、人殺をする。

 「地の塩となれ」とは名言だ。真の基督教徒は、地上の塩位しかない。世が立っているのは義人がいるからだ。小数の義人こそ地の塩、即ち、神の国を造るおのである。

 神の国とは人類の理想である。その理想を現在から未来へ渡すのが義人である。

 そうして人類が神の国を造るまで伝へ伝へるのが義人なのである。義人とは基督教徒であるが、私は思ふ。真の基督教に非ざれば塩に非ずと。

 ニセ信者はかへって真の基督信者を殺してしまふ。私は馬鹿信者をみて基督教など言ふにたらぬものと考へたが、真の基督教徒をみて、成程地の塩だ尊敬するにたると思った。

 基督教は倫理であって学ではない。倫理、即ち人間の行ふべき道としては世界一の教へだ。

(水木しげる/荒俣宏 『戦争と読書』(角川新書) P.54-5, 昭和17年10月22日の日記から)