散日拾遺

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身代わり観音と感謝する力

2017-09-23 09:26:40 | 日記

2017年9月23日(土)

 初診の患者さんの荷物にお守りがぶら下がっていたので、どこのものかと訊くと「弘明寺」だという。8世紀の行基に遡るとされる古刹で、本尊はその時代に彫られた十一面観世音菩薩だが、京浜急行電鉄が設立百周年を記念して2001年に奉納したという身代わり地蔵菩薩がすっかり有名になっている。

 「身体の悪いところと同じ場所をタオルやハンカチでさすって祈願すると、その箇所を癒してくれる」との謂われは、全国に数多い「身代わり地蔵」「とげ抜き地蔵」の系譜である。つい最近知ったことに、小石川・源覚寺の「こんにゃく閻魔」も同系統の謂われを担っている。

 「源覚寺の閻魔さまの右目部分は割れて黄色く濁っています。それにはこんな言い伝えがあります。

 宝暦年代のころ(1751年〜1764年)、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願を行ったところ、夢の中に大王が現れ「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、ひとつを貴方に差し上げよう」と言われたそうです。満願の日に、老婆の目は治りました。以来、大王の右目は盲目となりました。老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断ち、それを供えつづけたということです。

 このことから、源覚寺の閻魔さまは「こんにゃく閻魔」と呼ばれるようになり、眼病治癒の閻魔さまとして人々の信仰を集めています。」

(http://www.genkakuji.or.jp/intro.html)

 僕は桜美林時代に、身代わり地蔵の心理構造について「共感呪術」という観点からエッセイを書いたことがある。それで思い出したが、こんにゃく閻魔と身代わり地蔵には微妙だが見逃せない違いがあり、身代わり地蔵では癒しを求める祈願者自身が、「タオルやハンカチでお地蔵様をさする」という行為が介在するところが重要なのだ。これはいわば、患部に自分の手を当てる作業(手当て!)を、患部をいったんお地蔵様に投影した上で行っているに等しく、外在化された自己治療ともいえる。理屈はさておき、癒しを求めるひたむきな気もちが貴いと感じられる。お地蔵様をさする時には治療者と病者の逆転すら起きており、そこで喚起されるお地蔵様への憐れみの心こそが、この信心の最大の御利益と言えるのではないか。

 こうした場合、宗旨が違うからナンセンスとは考えることができない。むしろ、「あなたが信じたとおりになるように」という言葉こそが思い出される(マタイによる福音書 8:13)。イエスはこのことを、異邦人であり支配者ローマの軍人である百人隊長に対して告げたのだ。

 「身代わり地蔵さんが、うつ病も治してくださるといいですね」

 そう言わないわけにはいかない道理である。

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 3つ前のブログで提示した架空の症例(30歳男性)のようなケースにおいて、不遇な生い立ちによって損なわれているのが外的条件にとどまらないことに注意を要する。虐待ないし放置されて育った人々の場合に最もつらいのは、「援助を提示されてもそれを受けとって活用することができない」ということだ。おとなや社会から守られたり励まされたりした体験がないために、今さら何かを提示されてもそれを信頼できず、それに期待することもできないのである。

 メラニー・クラインの『羨望と感謝』は彼女らしい晦渋な文章で消化するのにホネが折れるが、『感謝』が中心テーマに据えられていることの意義は深く了解される。感謝する能力こそ、病気の予後、それ以上に人生の予後を決定的に左右するカギなのだ。こんにゃく閻魔の縁起に現れる老婆の幸いをつくづく思う。この老婆は感謝する能力を豊かに与えられていた。身代わり地蔵の治療効果も、このことと深く関わるに違いない。

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