2017年9月14日(木)
明治の教養人には比すべくもなく、教わらないと訓読は苦しい。帰去来の辞がこの時に脳裏に甦ってきたというのも、「帰りなんいざ、田園まさに蕪れなんとす」という冒頭の訓読文に依るものだから、この際、全文の訓読を転記しておく。
訓読とか漢詩の朗詠とかは既に日本語の側の展開で(あたりまえだが)、カッコいいけれどオリジナルとの間には断絶/飛躍がある。それで結構と思っていたが、台湾の友人が家族で日本に遊びに来たとき考えが変わった。岩波文庫版の「唐詩選」を見せたら大いに喜んだのは予想の内として、利発なお嬢さんがその中のいくつかを中国語で朗唱したのである。小学校の授業で漢詩・唐詩の暗誦があるらしい(わお!)。それを聞くに、制御された字数と押韻の規則、四声のイントネーションに乗って繰り出される詩文はきわめて音楽的で、日本の子どもが童歌を歌うように嬉々、得意然として際限なく音をつむいでいく。中国文化圏では千年来これを楽しんできたのだと思ったら、中国語を一度かじらずには済まなくなった。二十年来の宿願をこの秋に遂げようという次第で、現代中国語の入門編が漢詩原文の鑑賞に役立つかどうかは、怪しいままである。
***
> 私は勉強というものは自分の役に立つ為という利己的な目的ではなく、自分がより社会の役に立つ為という利他的な目的で勉強する方がいいと思っていましたが、その先に石丸先生のように自分が楽しむ為に勉強するという極地があるのかもしれません。
いや、そんな上等なものではなくて。私の方は逆に、勉強に関してはいつも徹頭徹尾、利己的でした。ただ、利己的に楽しむ学びの内容に「みんなが仲良く幸せに暮らすにはどうしたらいいか」ということも含まれるから、利己的な学びの向かう先も大きく間違いはしまいというお気楽な観測があっただけで・・・学びの利己/公益性については最初に大学に入ったとき、友人たちと未熟なりに深刻な吟味をしたように思いますが、今どきはそんな言挙げをめったに聞かなくなりました。
「利他的な目的で勉強する方がいい」という勝沼さんのコメントこそ、ハッとさせられるものがあります。科研費申請の季節でもあり、もう少しそのことを考えないといけませんでした。汗顔の至りです。
> 酒は飲めぬが、気分は陶淵明になりたい
niania さん、投稿ありがとうございます。さてどちら様でしょう?あの方か、それともこの方かなと楽しく思い描いています。ラテン語を履修なさるのですか、この科目があるのに気づいていませんでした。私は独習しかしていないのです。イタリア語・スペイン語の後はこれに決めました。
ラテン語の学習には、運転免許を取る際にマニュアル・コースを選ぶのと似た意義があるように思います。免許取得後に運転する車はオートマがほとんどであるとしても、自動制御の裏側で何が起きているか、マニュアル経験があるとないとではその想像力にはっきりした違いがあるでしょうから。
漢詩の学びにも通じることで、小学校から半端な英語を導入する一方で、中高で漢文を教えない方向への舵きりに、何か良いことがあるとはとても思えません。広田先生の「滅びるね」がのど自慢の鐘(一発だけの)みたいに響いています。
***
<原文>
帰去来辞
帰去来兮。田園将蕪、胡不帰
既自以心爲形役、奚惆悵而独悲
悟已往之不諌、知来者之可追
実迷途其未遠、覺今是而昨非
舟遙遙以輕颺、風飄飄而吹衣
問征夫以前路、恨晨光之熹微
乃瞻衡宇、載欣載奔
僮僕歓迎、稚子候門
三逕就荒、松菊猶存
携幼入室、有酒盈樽
引壺觴以自酌、眄庭柯以怡顏
倚南窗以寄傲、審容膝之易安
園日渉以成趣、門雖設而常關
策扶老以流憩、時矯首而游観
雲無心以出岫、鳥倦飛而知還
景翳翳以将入、撫孤松而盤桓
帰去来兮。請息交以絶游
世与我而相遺、復駕言兮焉求
悅親戚之情話、楽琴書以消憂
農人告余以春及。将有事於西疇
或命巾車、或棹孤舟
既窈窕以尋壑、亦崎嶇而経丘
木欣欣以向栄、泉涓涓而始流
善万物之得時、感吾生之行休
已矣乎。寓形宇内復幾時
曷不委心任去留、胡爲遑遑欲何之
富貴非吾願、帝郷不可期
懐良辰以孤往、或植杖而耘耔
登東皋以舒嘯、臨清流而賦詩
聊乗化以帰尽、楽夫天命復奚疑
(古文真宝 後集)
<訓読>
帰去来の辞
帰りなんいざ。田園まさに蕪(あ)れんとす、胡(なん)ぞ帰らざる。
既に自ら心を以て形の役(えき)と爲す、奚(なん)ぞ惆悵として独り悲しまん。
已往(いおう)の諌められざるを悟り、来者の追ふ可きを知る。
実(まこと)に途に迷ふこと其れ未だ遠からずして、今の是にして昨の非なるを覺る。
舟は遙遙として以て輕く颺(あが)り、風は飄飄として衣を吹く。
征夫に問ふに前路を以ってし、晨光(しんくわう)の熹微(きび)なるを恨む。
乃(すなは)ち衡宇を瞻(み)て、載(すなは)ち欣び載(すなは)ち奔(はし)る。
僮僕(どうぼく)歓び迎へ、稚子(ちし)門に候(ま)つ。
三逕(さんけい)荒に就けども、松菊(しようきく)猶ほ存す。
幼を携へて室に入れば、酒有りて樽に盈てり。
壺觴(こしやう)を引きて以て自ら酌し、庭柯(ていか)を眄(み)て以て顏を怡(よろこば)しむ。
南窗(なんさう)に倚りて以て傲を寄せ、膝を容るるの安んじ易きを審(つまび)らかにす。
園は日に渉りて以て趣を成し、門は設くと雖も常に關(とざ)せり。
策(つゑ)もて老を扶け以て流憩し、時に首(かうべ)を矯(あ)げて游観す。
雲は無心にして以て岫(しう)を出で、鳥は飛ぶに倦(う)みて還るを知る。
景は翳翳(えいえい)として以て将(まさ)に入らんとし、孤松を撫して盤桓す。
帰りなんいざ。請ふ交りを息(や)めて以て游を絶たん。
世と我と相ひ遺(わ)する、復た駕して言に焉(なに)をか求めん。
親戚の情話を悅び、琴書を楽しみ以て憂ひを消さん。
農人余に告ぐるに春の及べるを以てし、将に西疇(せいちう)に事有らんと。
或いは巾車(きんしや)に命じ、或いは孤舟に棹(さを)さす。
既に窈窕として以て壑(たに)を尋(たず)ね、亦(また)崎嶇(きく)として 丘を経。
木は欣欣として以て栄に向かひ、泉は涓涓(けんけん)として始めて流る。
万物の時を得たるを善しとし、吾が生の行(ゆくゆく)休するを感ず。
已(や)んぬるかな、形を宇内に寓する復た幾時ぞ。
曷(なん)ぞ心を委ね去留に任せず、胡爲(なんす)れぞ遑遑(くわうくわう)として何(いづく)に之かんと欲する。
富貴は吾が願ひに非ず、帝郷は期す可(べ)からず。
良辰(りやうしん)を懐(おも)ひて以て孤り往き、或は杖を植(た)てて耘耔(うんし)す。
東皋(とうかう)に登りて以て嘯(せう)を舒(の)べ、清流に臨みて詩を賦す。
聊(いささ)か化に乗じて以て尽くるに帰せん。夫(か)の天命を楽しみて復た奚(なに)をか疑はん。
Ω