散日拾遺

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ルターが死の準備教育に先鞭をつけたこと

2017-09-19 10:04:50 | 日記

2017年9月17日(日)

 先週、関西のK先生と用事でお目にかかる機会があり、死の準備教育に関するアルフォンス・デーケン師の貢献など話題にしたところ、「古いところを紐解けば、マルチン・ルターが死の準備教育に先鞭を付けている」ことを教えてくださった。詩篇90篇の講解という形で展開されたとのことで、1978年に金子晴勇氏の翻訳が出ている。(『生と死について ー 詩篇90篇講解』創文社)

 古書をゆるゆる探すとして、まずは件の詩篇を転記しておこう。

 ルターと言えば、今年は宗教改革500周年にあたる。それにつけて思い出すこと、1980年代にドイツへ遊びに行ったとき、留学中の人々が「いずれ来る500周年」のことを語り出した。まだドイツが東西に分断されていた時代で、ルターにまつわる史跡などは東側に集中しているが、その東が当時は社会主義国である。お国自慢のドイツ人はとりわけ「ドクトル・ルター」が大好きで、それについては東も西もなかろうが、厄介なことにルター先生は1524ー5年のいわゆる農民戦争では体制の側に立って徹底弾圧を擁護した。マルクス・エンゲルスに『ドイツ農民戦争』の著書がある通り、社会主義の立場からは農民戦争は階級闘争の歴史的一里塚である。この時のルターはにっくき反革命の頭目に他ならず、ここに解き難い矛盾が生じてしまう。

 「2017年には、東独政府はこの件をどう扱うだろう?」というのが、興味津々の論点だった。その後10年を経ずして東西ドイツの壁が平和裡に解消されるとは、誰も予想しなかったこと。まさしく「瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去る」のである。

***

【祈り。神の人モーセの詩。】

主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。

山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。


あなたは人を塵に返し/「人の子よ、帰れ」と仰せになります。

千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。

あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草のように移ろいます。

朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。

 

あなたの怒りにわたしたちは絶え入り/あなたの憤りに恐れます。

あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。

わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。

人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。

御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて/あなたの憤りをも知ることでしょう。

生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

 

主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。

朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。

あなたがわたしたちを苦しめられた日々と/苦難に遭わされた年月を思って/わたしたちに喜びを返してください。

 

あなたの僕らが御業を仰ぎ/子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。

わたしたちの神、主の喜びが/わたしたちの上にありますように。

わたしたちの手の働きを/わたしたちのために確かなものとし/

わたしたちの手の働きを/どうか確かなものにしてください。

***

א  תְּפִלָּה, לְמֹשֶׁה אִישׁ-הָאֱלֹהִים:
אֲדֹנָי--מָעוֹן אַתָּה, הָיִיתָ לָּנוּ;    בְּדֹר וָדֹר.

ב  בְּטֶרֶם, הָרִים יֻלָּדוּ--    וַתְּחוֹלֵל אֶרֶץ וְתֵבֵל;
וּמֵעוֹלָם עַד-עוֹלָם,    אַתָּה אֵל.

ג  תָּשֵׁב אֱנוֹשׁ, עַד-דַּכָּא;    וַתֹּאמֶר, שׁוּבוּ בְנֵי-אָדָם.

ד  כִּי אֶלֶף שָׁנִים, בְּעֵינֶיךָ--    כְּיוֹם אֶתְמוֹל, כִּי יַעֲבֹר;
וְאַשְׁמוּרָה    בַלָּיְלָה.

ה  זְרַמְתָּם, שֵׁנָה יִהְיוּ;    בַּבֹּקֶר, כֶּחָצִיר יַחֲלֹף.

ו  בַּבֹּקֶר, יָצִיץ וְחָלָף;    לָעֶרֶב, יְמוֹלֵל וְיָבֵשׁ.

ז  כִּי-כָלִינוּ בְאַפֶּךָ;    וּבַחֲמָתְךָ נִבְהָלְנוּ.

ח  שת (שַׁתָּה) עֲו‍ֹנֹתֵינוּ לְנֶגְדֶּךָ;    עֲלֻמֵנוּ, לִמְאוֹר פָּנֶיךָ.

ט  כִּי כָל-יָמֵינוּ, פָּנוּ בְעֶבְרָתֶךָ;    כִּלִּינוּ שָׁנֵינוּ כְמוֹ-הֶגֶה.

י  יְמֵי-שְׁנוֹתֵינוּ בָהֶם שִׁבְעִים שָׁנָה,    וְאִם בִּגְבוּרֹת שְׁמוֹנִים שָׁנָה--
וְרָהְבָּם,    עָמָל וָאָוֶן:
כִּי-גָז חִישׁ,    וַנָּעֻפָה.

יא  מִי-יוֹדֵעַ, עֹז אַפֶּךָ;    וּכְיִרְאָתְךָ, עֶבְרָתֶךָ.

יב  לִמְנוֹת יָמֵינוּ, כֵּן הוֹדַע;    וְנָבִא, לְבַב חָכְמָה.

יג  שׁוּבָה יְהוָה, עַד-מָתָי;    וְהִנָּחֵם, עַל-עֲבָדֶיךָ.

יד  שַׂבְּעֵנוּ בַבֹּקֶר חַסְדֶּךָ;    וּנְרַנְּנָה וְנִשְׂמְחָה, בְּכָל-יָמֵינוּ.

טו  שַׂמְּחֵנוּ, כִּימוֹת עִנִּיתָנוּ:    שְׁנוֹת, רָאִינוּ רָעָה.

טז  יֵרָאֶה אֶל-עֲבָדֶיךָ פָעֳלֶךָ;    וַהֲדָרְךָ, עַל-בְּנֵיהֶם.

יז  וִיהִי, נֹעַם אֲדֹנָי אֱלֹהֵינוּ--    עָלֵינוּ:
וּמַעֲשֵׂה יָדֵינוּ, כּוֹנְנָה עָלֵינוּ;    וּמַעֲשֵׂה יָדֵינוּ, כּוֹנְנֵהוּ.

Ω


『バウドリーノ』読了

2017-09-19 09:38:10 | 日記

2017年9月16日(土)

 ここ数日は保育士会のことで頭が一杯だったので、帰宅後は完全に脱力のうえ、心置きなく『バウドリーノ』を読了した。歴史事実と伝説空想を重ね、そこに豊富な古典教養をびっしりと貼りつけた大作で、荒唐無稽と言えば一言で終わるが、心地よい荒唐無稽こそ小説の全てである。第3回および第4回の十字軍時代に場面を置いたのは秀逸な着想で、両者は1189年と1202年に起こされているからその双方を体験した人物が実際に相当数いたはずである。しかも、最初から最後まで神とも正義とも無縁の「十字軍」と称する愚行シリーズの中でも、第3回は神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサがシリアの川で溺死して立ち消えになり、第4回は聖地回復どころかコンスタンチノープルを劫掠して東ローマ帝国をいったん滅ぼすという顛末で、バカバカしさも極大に達している。

 一方でこの時期には「12世紀ルネッサンス」などと呼ばれる文化革命が西欧全域で進行し、拾っていけば興味深いテーマはいくらでも転がっている。シャルルマーニュがフリードリヒ・バルバロッサの思惑によって列聖されたことなどもその一つだが、エーコはこの奇策が主人公バウドリーノの虚言癖に近い自在な構想から生まれたことにしている。ところで、バウドリーノらの故郷の土地に、それまで存在しなかったアレッサンドリアという街が建設された下りについては、これこそエーコの自在な創作に違いないと決め込んでいたが、何と史実であるらしい。

 なるほど地図を確めれば、トリノ・ミラノ・ジェノヴァの北伊三都市が作る三角形の、ほぼ重心にあたる位置に Alessandria という街が実在する。ウンベルト・エーコはこの街の出身なのだそうだ。となれば、聖遺物や聖像をもってこの街にローマ・コンスタンチノープルをも凌ぐ名声を与えようと大望を抱くバウドリーノはエーコ自身の似姿に違いなく、その大ボラ吹きぶりも作家エーコの自画像に相違ない。はあ、大した魂消た・・・

***

 それにつけてもありがたいのは聖書に馴染みのあることで、この種の物語には聖書を踏まえた表現やら修辞やらが断りなしに頻々と出現するから、知らないと楽しめない部分が多いのである。たとえば下巻に、安息日でなければ渡れない石の川サンバティオンを、安息日であるが故に渡れないユダヤ人ソロモンのため、バウドリーノがソロモンの後頭部に一発かまして失神させ、皆で運んでやるという場面がある。

 「かくしてラビのソロモンは、イスラエルの息子たちのなかでただひとり、サンバティオン川を、眠ったまま、土曜日に横断したのだった。」(P.166-7)

 「イスラエルの息子たち」という表現は、「イスラエル」の名がそもそも創世記に登場するヤコブが天使と格闘した際に与えられたニックネーム(「神の戦士」の意)であり、その息子らがイスラエル12部族の祖になったとされることを踏まえたものだ。ヤコブの天使との格闘がヤボクの渡し場で行われていること(創世記32章)もこの場の連想にふさわしいが、そんなことをいちいち注釈に拾っていくのでは物語のスピードについていけない。

 ネストリウス派やアリウス派などの異端の系譜、「正統と異端」の別を生みだしたキリストと母マリアの神性・人性をめぐる大論争、さらには「聖霊は父のみから発出する(東方教会)か、父および子から発出する(西方教会)か」などいった厄介極まる神学問題(いわゆるフィリオクエ論争)も、この作品ではものの見事にネタにされて物語の愉快を増し加えている。

 そもそもバウドリーノ一行は、イエス自身の弟子集団同様に性格も思想も雑多な集まりで(これもエーコの狙ったことに違いない)、異を立てて争えば殺し合いになりかねない態のものである。そこで出会ったガヴァガイ、スキアポデスという一本足族に属する若者(?)の無心の返答が、「差異」に関するこだわりの毒気を抜く場面が面白い。

 「おまえたちが仲良くないのは、互いにちがっているからか?」と〈詩人〉がたずねた。

 「ちがっているって、どういうこと?」

 「そりゃあつまり、おまえはおれたちとはちがうし…」

 「どうして、私、あなたたちとちがう?」

 「こいつはいいや」と〈詩人〉は言った。「まず何よりも、おまえには一本しか脚がないじゃないか!われわれとブレミエスは、二本あるぞ!」

 「あなたたちもブレミエスも、片脚を上げれば、一本脚になる」

 「だが、おまえには、下ろそうにも、もう一本の脚がない!」

 「なぜ私、もっていない脚を下ろさねばならない?それならあなたも、もっていない三本目の脚を下ろさねばならないのでは?」

 そこでボイディが、なだめるように、ふたりの会話に口をはさんだ。

 「いいかい、ガヴァガイ、ブレミエスが頭をもたないことはきみも認めるだろう?」

 「頭がない?目、鼻、口があり、話したり食べたりする。それでも頭がないと言うの?」

(P.176)

 「ところで、巨人が片目しかないのは気づいたか?」

 「私もそうです。見てください、私、この目を閉じれば、片目になります」

 「こいつを殺したくなってきたから、おれを抱きかかえてくれ」顔を紅潮させた〈詩人〉が仲間たちに言った。

 「要するにだ」とバウドリーノが言った。「ブレミエスも巨人も悪く考える、スキアポデスをのぞいてみんな悪く考える、ということだな。おまえさんたちの助祭はどう考えているのか?」

 「助祭は考えません。彼は命令します」

(P.190)

***

 まるで落語である。ところで、スキアポデスは身体的な差異については至って鷹揚寛大だが、神学的な正邪の別となるときわめて厳格狭量なのだ。(彼らはネストリウス派である!)。案ずるに人の寛容と狭量はかなり相対的なもので、誰でもある面では寛大であり、他の面では狭量なのである。すべてにおいて寛大な少数者は聖人と呼ばれ、すべてに関して狭量な少数者は世を苦しめる。自分が何に関して狭量であるかを知るのが智恵、何に対して寛大であるかを知らずとも実践するのが人徳というものだろうか。スキアポデスのガヴァガイは神学的に相容れない遠来の友らのため、やがて進んで命を捨てることになる。

 例によってキリがない。石の川にかかる「虹」の場面を転記して、いったん置くことにしよう。

 台地の頂上に到達すると、眼下のサンバティオンが、まるで地獄の谷底に呑みこまれるように消えていくのが見えた。
 それは、半円形に並んだ十の岩屋根から、滝となって、終点の広大な渦のなかへ落下していった。花崗岩のたえまない噴射、瀝青の渦巻き、明礬の波、片岩の沸騰、岸壁と石黄の衝突。深淵から天に向かって吐き出される物質を、彼らはいわば塔の高みから見下ろしていたが、珪素の滴のうえに、日射しがあたり、巨大な虹ができていた。あらゆる物体がその特性に応じて輝きのことなる光線を反射し、ふだんは嵐のあとに空にかかる虹以上に色とりどりであり、また通常の虹とちがって、それらの色彩が消えることなく永遠に輝き続けるように見えた。

(P.164)

Ω