散日拾遺

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朝の雑録 ~ 専門職と時の無情と陶淵明

2017-09-25 06:45:58 | 日記

2017年9月25日(月)

 道なんぞを歩いているときに、ふと警句めいた言葉が頭に浮かぶということがある。例の三上(さんじょう)の機微に連なるものと洒落ておく。

 「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。乃ち馬上・枕上(ちんじょう)・厠上(しじょう)なり」(欧陽脩「帰田録」)

 馬上を途上とでも言い換えればね。詩人は欧・陽脩ではなく欧陽・脩だというのは、今でも欧陽(オーヤン)という中国姓があることから数年前に知ったのだが、欧陽菲菲という台湾出身の名歌手にもう少し注意を払っていれば、とっくの昔に分かってたはずだった・・・さっそく逸れたよ。

 何を思いついたかというと、二つあって。

 その一: 専門職の象徴的機能

 専門職というものはその専門性が求められるから職として存在するようになる、ここまでは分かりきった理屈だが、背景にはその社会で何が起きており、人々が何に価値を置くかを象徴的に表す意味がある・・・書いてみたらあたりまえ過ぎてバカみたいだ。このところ「保育」がマイブームで、保育士という資格と職種について思ったのである。倫理綱領三箇条はかなり強いインパクトを個人的にもらった。

 その二: 自ら老いずして子の成長を見ることはできない

 これまたあたりまえだが、考えてみれば厳しいことである。化学反応における共役関係みたいなもので、自分の老化と後生の成長(あるいは先達のさらなる老化)は常に必ず連動して起きる。この夏、中島みゆきの『慕情』を聞いた。「甘えてはいけない/時に情けはない」という箇所が最初は意味がとれず、二度目にわかって背筋が寒くなった。「歳月人を待たず」の強烈なバリエである。

 ところで、「歳月人を待たず」がこれまた陶淵明に由来すること、3分前に初めて知った。知らないことばっかりだ。これ、暗誦しようかな。

***

 『雑詩』 陶潜

人生無根蒂 (人生は根蒂無く)

飄如陌上塵 (飄として陌上の塵の如し)

分散逐風轉 (分散し風を追って転じ)

此已非常身 (此れ已に常の身に非ず)

落地爲兄弟 (地に落ちて兄弟と為る)

何必骨肉親 (何ぞ必ずしも骨肉の親のみならん)

得歡當作樂 (歓を得ては当に楽しみを作すべし)

斗酒聚比鄰 (斗酒 比隣(ひりん)を聚(あつ)む)

盛年不重來 (盛年 重ねて来たらず)

一日難再晨 (一日 再び晨(あした)なり難し)

及時當勉勵 (時に及んで当に勉励すべし)

歳月不待人 (歳月 人を待たず)

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