2017年9月10日(日)
書いたらとたんにコメントをいただきました。本当によく見ておられること。
「ずるいんです」にこもる意味は、どうやら Kokomin さんのインタビュー対象者と原節子演ずる紀子とでは、かなり違っていたようですね。しかし、それが現状を読み替える抜け道の道標になっている点で、不思議に共通するようでもあります。この「ずるい」は、たとえば英語などに翻訳するのがかなり難しそうですね。「甘え」との関連について考えてみることも面白いでしょう。
コメント内容については傾聴するばかりですが、「たまに上京する(もしくは私達が帰省する)時の田舎の祖父母がうざったいという孫の気持ちが痛いほどに共感される」とおっしゃるのは、私にはまった異次元の事態です。そしてそれは、世代の違い(私は団塊に10年遅れた世代、勝沼さんはそこからさらに半世代若い団塊Jr)だけでは説明がつかないだろうと思います。私と同世代の中にもこうした反応を示すものは多いし、『東京物語』が活写しているのは当然ながらさらに古い世代のことですから。
では何が違うのかと言われると、さしあたり答が思いつきません。たぶん、かなり重要な問題に関わっているはずだと思うのですが。
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・タイトル
『東京物語』はずるいゆえに素晴らしい
・コメント
『東京物語』は受け止め方にかなり個人差がある映画だと思いますので、あくまで私の受け止め方として。25年のタイムラグはあるのですが、実は私はこの映画にとても当事者として感じる部分があるのです。
ざっくり言うと『東京物語』は尾道に住む老夫婦(夫が笠智衆)が東京に住む子ども達家族にひたすら邪険にされる中、戦死した次男の嫁(原節子)だけが優しいという映画なのですが、私は団塊Jr世代で両親が田舎から東京に移り住んだ子どもとして、このたまに上京する(もしくは私達が帰省する)時の田舎の祖父母がうざったいという孫の気持ちが痛いほどに共感してしまうのです。
で、「ずるいんです」です。実はラストにこの台詞を言う原節子は微笑どころか激しい不安を訴えます。未亡人としている今に言い知れぬ不安を感じると。微笑を浮かべるのは笠智衆です。「それでいいんじゃよ」と応えて映画は終わります。
家族の絆は素晴らしいというのは幻想であると描いていたこの映画が、ラストに来て急にでも人はそんな家族に属していることで幸せを感じてもいいとして終わるのです。
この映画を見て私は救われた気がしました。家族は必ずしも素晴らしいものじゃなくてもいいし、そういう家族というシステムを拠り所にする弱さもあっていいと。二重の意味での救いがあるように受け止めました。この最後の「ずるいんです」がないと長男長女家族(とその子どもに自分を重ねた私)はただの悪者になってしまうんだけど、最後の「ずるいんです」で全ての登場人物が救われるんですよね。
素晴らしいものと思いすぎない、価値や意味を重くし過ぎない、少し穴があるくらいでちょうどいいというのが健康的な心の一つではないかと思うのですが、思えばヴォネガットの小説にもそういうメッセージがあったように思いますし、意味なく回すからこそ流行ったハンドスピナーともつながる部分があるように思えます。もちろん私も身をもって体験用に一つ持っています。
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