2018年4月6日(金)
「あまりよく眠れないが、そのことがさほど苦痛ではない」という言い方で現状をまとめる人が、朝から二人続いた。これは決してあたりまえのことではなく、この人々のこれまでの経過を思えばなおのことである。睡眠の不足という生理的事実以上に、「眠れていない」という認識やそこから生じる不全・不安感に悩む人が多い。そうした不安が、より以上に眠れなくなることへの不安へとつながり、これら諸々の不安が災いしていっそう眠りが遠くなる。
それで睡眠の心得には「寝よう寝ようとしないこと」という一条が、さまざまな表現上の工夫と共に見られるものである。「女と睡眠は追いかけると逃げる」などというのもあったが、むろん男性向けのものに違いない。反転させて「イケメンと睡眠は追いかけると逃げますから」と女性の患者さんに伝えてみたら、意味が分からないという顔をされた。「逃げませんよ、睡眠はともかく」というのである。失礼しました。
西の宇宙流などと渾名される苑田勇一九段は「美人は追うな」の名言で知られ、これは相手の石を取りたがって、やたら物欲しそうに追いかけるアマの悪癖を戒めたものだが、女性にはどんなふうに指導しておられるのだろうか。
そういえば昔、母がどこかで読み囓った話を教えてくれた。医者の経験談で、当直の際に「眠れなくて困っている」という患者さんがいると、「それでは夜間にベッドサイドをお訪ねしますから、それまできっと起きていてくださいね」と告げるのだそうである。実際に回診した時には、十中八九、安らかに寝息を立てているというのだ。眠れようとすると眠れない、起きていようとしたほうがかえってよく眠れるという経験則で、「眠りを追わない」のと考え方は同根である。
「眠らねばならないというこだわりを捨てる」と括れば、今朝の二人を含めて全体の筋が通るだろうか。「そういえば眠れてないな」ぐらいに自己観察し、そこまでで放置しておく、観察自我に軸足を置くことによって不安や葛藤を相対化するやり方で、これを会得するまでに要した長い道程がこの人々を淡く輝かせている。
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それとこれとは通じるかどうか。言い交わしたばかりの恋人が仕事で遠方に発ち、残された女性は毎日のように電話やLINEに時間を割いていたが、そうするにつれ泣く時間がどんどん増えていく自分に気づいた。熟慮のうえ、思いきってこれらの時間を大いに減らしてみたのだそうである。決して楽なことではないし、連絡を取らなくても相手が自分のことを考えていてくれるか、自分が相手を必要としていないという意味に取られはしないか、等々心配すればキリがない。
それでも勇気をもって断行したあたりが転換点になり、週一度の連絡を楽しみに自分の仕事に励み、プラスアルファの連絡があった時には想定外の嬉しさで得した気もちになり、最近は好調と笑顔で言う。発達心理学のジャーゴンを拝借して「分離不安を克服して対象恒常性を確立しつつある」と指摘したら、元来聡明な質だけあって「どんな本を読めばそういう話が書いてあるか」と聞いてきた。マーガレット・マーラーの名前で検索すれば、ごっつい本が出てきますよ、などと紹介したが、自分もちゃんと読んではいないのである。先に読んでそのうち教えてくれるかもしれない。
対象恒常性とはよくできた言葉で、発達ばかりでなく、たとえば喪の作業の理解に必須であるように思われる。現実の対象との別離をきちんと終えたとき、夥しい涙と引き替えに永続的な内なるイメージを獲得する、そのあたりのことである。
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順調に治っても良さそうなうつ病が妙に遷延し、何か語られていないことがあるに違いないと思っていた人が、ここ数回いくらか朗らかになってきたと思ったら、「これまで話せなかったんですけど」とある仔細を語ってくれた。しばらく会わなかった遠方の友人を訪ねてこのことを話し、数年ぶりに泣くだけ泣いたらずいぶん楽になったのだそうである。女性にとって泣くというのはコミュニケーションの必須のツールだから、それを封印する数年間はさぞかし鬱屈もしたであろう。初診から間もなく三年のつきあいなのだ。
ここに不思議がある。この女性のベランダのプランターに、昨秋あたりからバッタが一匹住み着いていたという。成虫で越冬するバッタがあるのかと気になったが、後で調べたらツチイナゴと呼ばれる一種だけ、確かに成虫で越冬するらしい。バッタもイナゴも姿は変わらない。
ともかく彼女にとって、ベランダの一隅でじっと冬を耐える一匹のバッタは慰めであり励ましでもあった。それが先般、遠方の友人を訪ねるために家を空ける朝、姿が見あたらない。気になったがそのまま出かけ、それっきり姿を見ないというのである。
春になって気温が上がり、野に向けて羽ばたいたのに相違あるまい。いっぽうまた、友に語る準備ができた女性を見、自分の役割を終えて去ったと考えたとして、何の不都合があるだろうか。
偶然という名の奇跡が日々起きることを、患者さんたちが絶えず伝えてくれている。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/ツチイナゴ より拝借)
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