2018年6月5日(火)
石垣島は、今では羽田から直行便で3時間弱の距離にあり、時間的には前橋といくらも変わらない。1977年には那覇から夜の船で移動した。ちょうど台風が来ていて欠航するものだと思ったら、現地の人々は平気な顔で客もあたりまえに乗り込んでいく。そんなものかと乗船し、おかげさまで無事に生き延びたが、その晩の二等船室は後から繰り返し笑い話にするぐらいよく揺れた。雑魚寝の床が大きく傾くのにあわせ、置いた荷物がツーと滑ってドシン、またツーと滑って反対側にドシン。
ふと気づくと同行の友人Yの姿が見えない。やがて青い顔をしてよろよろ戻って来、どこにいたかと訊くと船酔いがひどいので「甲板に出て外の空気を吸おうとした」という。「目の高さまで浪が来た」という言葉の意味が正確には分からぬまま、こちらの方が青くなった。
今は本島との往還も飛行機で、船のルートは廃止されたのではないかと皆がいう。受講者10名中、石垣島の在住者は4名、本島が4名、竹富島が1名で、残る1名は関西在住の男性、この人は毎年のように石垣島開催の授業を選んで受講し、ついでにしばらく滞在していくようである。放送大学面接授業の正しい活用法である。
竹富(てーどぅん)は小さな美しい島で、77年には沖合いからの眺めを柄にもなくスケッチしたりした。青い海のテーブル上に濃緑の薄布を伏せたように伸びる島影、青と緑を分かつ一条の白が島の全周を取り巻く砂浜である。「沖縄」は「沖合いに縄のように伸びて横たう」島の謂と聞くが、それならどこよりも沖縄らしいのが竹富だろう。ここに寄らずに西表に向かったのは限られた滞在日数を節約するのが目的で、当時は船の便も少なかったのだ。今は高速船でわずか15分、7:30から18:00まで30分毎の運行だから、石垣に来て竹富に渡らぬ理由がない。
などと偉そうに言ったが、今回はこんなに主体性がなくていいのかと思うぐらい、S先生の経験情報に丸乗りした。「竹富逃すべからず」からして、そもそもS説である。毒喰らわば皿までも、「まず水牛車に乗り、それから自転車借りてまっすぐ海岸へ」との指示を忠実に履行した。以下、写真をして語らしむ。
具志堅用高(逆光・・・)が沖縄出身なのは超・常識だが、ほかでもないここ石垣の人である。1955年生まれ、1976年に世界タイトルを奪取し、1981年にかけて13回の連続防衛を果たした僕らの世代の英雄だ。デビュー当時、試合後のインタビューで「日本のために頑張った」と語るのが、痛々しいようだった。
白く軽快な高速船、「ばいじま」は「南の島」の意味とある。
遠く見えたが看板に偽りなく、ぴったり15分で到着する。石垣の窓口で「水牛車付き切符」を買う時、名前を聞かれて不思議に思ったが、竹富の港のマイクロバスの乗り口で「イシマルさんですね」と呼びかけられて合点がいった。港からものの5分で島の中央の集落に着き、水牛車の申し込みでもまた「イシマルさんですね」。今度はこちらも「石垣の受付から連絡が来てるんですね、どうやって?メール?」などと尋ねてしまう。女性が面食らった様子で「電話・・・」と答えた。そうなの、ほんと? FAXやメールではなくて?
方法はどうあれ、ひとりひとり名前を確認するのは手間なようでも、リスク管理上きわめて有用と思われる。感心したのだと伝わったかな。そう言えば石垣港で乗り込む時、切符を切ってくれた若い担当者の名札が翁長(おなが)さん、「知事さんと同じ名前だね」と言ったのは満腔の敬意を表してだった。屋良朝苗(やら・ちょうびょう)さん以来、沖縄県の歴代知事の御労苦に心から頭が下がる。
さて水牛だ。黄色いシャツのお兄さんに、後続のウシ君が水をかけてもらっているのを見て、ふと水牛はなぜ「水」牛かという疑問が浮かんだ。水辺に棲むから水牛なのに違いなく、水辺に棲むことのブラスもあればマイナスもあるだろうが、いわゆる「牛」族の中に好んで水辺に棲むグループと草地に棲むグループと、行動レベルでの棲み分けがあっても良さそうに思われる。それでおさまらず、別種を形成するに至った仔細は何なのか? ヒトの場合、水辺の生活に特化した「水人」と草地を好む「野人」が、交配不能な別種に別れるということは起きなかったわけで。
などと考えるうちに、早くもズイ、と「牛車」が動き出した。「力もち!」と歓声が上がる。10人を超える乗客などものの数ではないらしい。ところがわずか数歩でもう止まってしまった。すかさずお姉さんの解説が入る。
「この子は富(トミー)君、人間なら30代の男ざかりですが、生まれは北海道です。涼しいのが好きで、木陰に入るとすぐに休んじゃうのです。」
以下、よくこなれた気をそらさぬ解説ぶりで、体重1トンのトミー君をなだめたりハタいたりしながら、30分ほどのドライブをそつなく演出してくれた。動物との信頼関係は疑うべくもない。合間に三線(さんしん)に乗せて『安里屋ゆんた』と『涙そうそう』、前者はもともと竹富の歌だという。よく通る声が他所の産とも思えず、下車後に訊けば出身は福岡、19の歳からここに居着いたという。高校卒業と同時に竹富に就職したのか、天晴れ見事な進路選択である。英語の方はどうなのかな、名解説を海外からの観光客にも聞かせたいものだ。
ブーゲンビリアの花咲く道、白い砂は随時浜辺から運んで道に敷くのだそうだ。平坦な竹富島には常時流れる川がない(!)、その代わり雨が降ると道が川になり、砂は容易に流れてしまう。ちょうど昨日も大雨が降ったところ、竹富の白砂のイメージを保つべく、エントロピーに逆らってひっきりなしに砂を運びあげているわけだ。
左端にかすかに写ったトミー君の動線に注意、たったいま手前の道から右折したところである。我々の乗った車両を右側のサンゴ石塀(これも竹富自慢)に当てないよう、十分大回りしている ー 内輪差をとっているのが分かるだろう。道筋はいちいち指図されるまでもなく覚えているし、何とも賢いものだ。
賢いとはいえ、そこはそれ水牛の矜持というものがあり、頻繁に立ち止まってはイバリを発する。お姉さん素早く飛び降りてバケツを置き、「マーキングしてるんです」と解説する。そのうち大用に及び、「トミー君、歩きながらしないでください、トミー君、こら、トミー!」と忙しい。島内の水牛は現在ほとんどが雄で、紅一点の川平(カビラ)は人気の的、カビラ嬢が先を歩いているとトミー君は駆け足であっという間に追いついてしまうので、同じシフトには入れてもらえないそうである。ヒトも水牛も実に根っこは変わらない。
時間の限られていることとて、下車後ただちに自転車を借りる。アシストなしの一般車は最初の1時間が300円、またがって気が付いた、Yシャツに長ズボンなんて間抜けな出で立ちは竹富島内に僕だけだ。通勤カバンをカゴに押し込み、場違いはお愛嬌として、北回帰線近くの6月の太陽がまもなく正午の天頂に昇ってくる。帽子も被らず熱中症にでもなったら末代までの笑い物だ。とっとと駆け出し、大汗かいて見所を駆け抜けた。
西桟橋、正面は西表、さぞや夕陽が美しかろう。
コンドイ浜、リゾートホテルの計画があるのか。
カイジ浜、星砂はここで見られる。
・・・文字通りいっさんに駆け抜けて戻ったが、既に脳天がきれいに焼けている。41年前とは頭皮の防御システムに大差があるのを忘れていた。翌朝ブラシをかけたら、妙にヒリヒリした。
復路の船上から。
空港で締めくくりのソーキそば。
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距離が近くなって訪問者が増える。訪問者が増えればなおさら交通が整備され、それでまた訪問者が増える。外国人観光客も増え、白人の姿も多いがアジア系はもっと多い。「歓迎光臨」という看板がそこら中にあり、考えてみれば八重山から沖縄本島は400kmかなた、台湾はその半分ほどの隔たりしかない。そんな八重山が東京から近くなったと感銘を受けたが、帰京後にある若い女性に「羽田から直行便で3時間弱」と言ったら、「3時間もかかるんですか」と返ってきたので驚いた。東京-大阪間でも2時間半はかかるのにと思うが、この人の感覚ではジェット機で3時間も飛べば当然海外、このあたりに世代の違いが表れるのだろう。
物理的に近くなれば心理的にも近くなる。近くなれば親しみが増すが、畏敬や驚異は減じざるを得ない。石垣の繁華街は既に他の観光地とほとんど変わらず、だからこそ外国人が安心してやってくる。竹富はさまざまな工夫で心理的・霊的な価値の下落を防ごうとしており、リゾートホテルへの反発にもそうした面があるのだろう。自転車を借りる際に一つ念を押されたのが、鳥居の中には決して立ち入らないように、とのことであった。神社一般の感覚とは違って(本来は違わないのかもしれないが)、竹富では島民以外、聖域には立ち入らせないという。適切な注意であり大事なことだと思うが、禁じられれば必ず破りたがる者があろうかと案じられる。
福岡から移住した水牛使いのお姉さんは、既に立ち入りを許された島の民なのだろうか。竹富の人口は2015年に165戸365人とあり、1992年の251人を底として穏やかな増加が続いているという。小・中一体の島の学校は児童・生徒数が31名まで増え、18名の教員に指導されつつ、iPadや電子黒板を使って元気に学習しているとのこと、彼女が誇らしげに語ってくれた。
穏やかな、ゆるやかな、末永い発展を切に祈る。
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