散日拾遺

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上毛かるたと西条かるた(後)

2018-06-16 09:41:01 | 日記

2018年6月15日(金)

 実は知人の中に群馬県の人があり、面接授業で久々に前橋を訪れると知って上毛かるたを一式プレゼントしてくれた。それでいまこの時に話題にしたのである。既述の通り堂々たる内容で、群馬の歴史とか上州人の意気地とかいったことを思う。ただ、恐らくはどこの県でも似たようなものを作れるのではないだろうか。日本という国のそれぞれの地域には、それだけの豊かさが十分ある。あり、これに関しては徳川泰平の300年がそれなりの意味をもったのではないかと思う。

 で、帰省の際に上毛かるたを父に見せたのが4月29日。父もまた、へえ、そんなものがあったんかいなどと珍しがっていたが、逆に面白いものをもちだしてきた。『西条の歴史かるた』というのである。父は全国規模の転勤族だったが、祖父もまたローカルな転勤を余儀なくされた人で、父は高知県内で生まれ西条の小学校に通った。松山から直線距離で40km東の西条市に今でも知人友人がぽつぽつあり、その一人が送ってくれたのだという。

 それこそ県外の人にはピンともプンとも来ないだろうが、愛媛県人には首肯されるところがある。西条は人口11万人の小都市ながら、石鎚山への登山口にあたり、勇壮なダンジリなど小ネタに事欠かない個性的な土地柄である。そもそも幕藩体制下では西条藩という一藩を為していた。県民性に先立って藩民性というものを考える必要があり、その方がよほど自然や経済の実情に合致しているとは以前述べたところ。とりわけ一藩一県の徳島や二藩一県の高知と違って、中小八藩を糾合してできた愛媛の場合、旧藩の文化に遡ることなく県を論じても意味が薄い。八藩とは、西条藩、小松藩、今治藩、伊予松山藩、新谷藩、大洲藩、伊予吉田藩、宇和島藩である。(当ブログ 2013-08-08「県?藩?もっと古いもの?」)

 『西条の歴史かるた』などという発想が生まれるのも「愛媛」に解消されない西条固有の文化事情が存在し、かつそれを意識する人々あればこそであろう。

『西条の歴史かるた』 西条史談会刊(平成12年)
箱に描かれているのは「天正13年 野々市ヶ原」

 44枚のカルタを眺めてみると、まずはこの地域の歴史の古さ長さがわかる。「八堂山の弥生期高地遺跡(や)」は別格として「櫟津(いちいづ)・飯積神社(つ)」と「石岡(いわおか)神社(ゆ)」は仲哀天皇ないし神功皇后に由来する。弘法大師伝説(と)は全国どこにでもあるとして、真導廃寺(な)・伊曾乃宮(も)・前神時(へ)などは奈良・平安期に遡るものだ。

 この古さは何の不思議もないことで、瀬戸内海は大陸に直結する北九州と畿内とを結ぶ古代の大動脈、温暖な気候も相まって沿岸はきわめて早くから拓けていた。とりわけ西条は芸予諸島の近畿側最終拠点にあたり、額田王の歌った熟田津(にきたつ)の所在についても、堀江・和気・三津浜といった松山北辺と推定する通説に対して、西条に違いないと主張する有力な(?)異論があったりする。

 中世には、わが北条から出て道後を本拠とした河野氏が伊予一円を支配したが、鎌倉以前からの名家も戦国期を通して徐々に衰退し、1585(天正13)年には長曾我部氏の軍門に降った。しかし、同じ年の夏には秀吉が長曾我部攻めの布令を発する。実働部隊は小早川隆景率いる3万の毛利勢、この時、現在の新居浜・西条あたりを治めていたのは金子氏で、河野氏を介して毛利に降る選択肢もあったというが、現実には長曾我部と結んで徹底抗戦の道を選んだ。しかし、秀吉派遣の大軍を相手にたかだか2千の兵では非勢覆い難く、奮戦むなしく金子城(新居浜)が落とされる。追い詰められた金子勢は高尾城(西条)に自ら火をかけ、野々市の原で最後の決戦を挑み激戦の末全滅した(上掲写真参照)。一連の戦いを「天正(の)陣」と呼ぶ。

 この天正陣にまつわる札がかるたに多い。「千人塚天正の陣の古戦場(せ)」をはじめ「尊清が書き残した澄水記(そ)」「天正の御霊を送る揚げ花火(て)」など。「植え継いで梛の木残る徳常寺(う)」は梛(なぎ)の木に言よせて、天正陣ではなばなしく討ち死にした徳常寺の怪力僧・任瑞(にんずい)を偲んでいる。高峠城はもともと河野氏の城だったが天正陣で焼失(た)、吉祥寺もことごとく焼失したものの本尊の毘沙天が救い出されて現在地に移ったという(ひ)。西条の長い歴史の中で、今でもクライマックスは天正陣なのかもしれない。

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 江戸時代に入って立てられた西条藩は、当初は一柳(ひとつやなぎ)家が治めた。一柳氏は本姓が越智で、そこから窺われる通り河野氏の庶流というが、これはどうも怪しいらしい。三代目の直興(なおおき)の時に失政があり、これに抗した人々の義が2枚のかるたに記されている。

 当時、年貢は米と決まっていたが、山間地区は米がとれず銀納を願い出た。しかし許されず、遂に中奥山村の庄屋・工藤治平が五か村の庄屋と語らい血判連署の嘆願書を差し出した。これが不届きとされ、庄屋らは十分な取り調べも経ずに処刑された。「(ぬ)ぬかずいて義民を偲ぶ治平堂」とはその故事を指す。

 義の人は百姓だけではない。「(ち)忠烈の四士が眠る常福寺」、四士とは、当主直興の行状を諌めて死んだ真鍋次郎兵衛、岩崎五兵衛、平野文蔵、太田玄兵衛の四人のこととある。上記の銀納事件(1664年)などを憂えての諌死だったろうか、その後、直興は藩政不行き届きとして領地を没収せられ、加賀・前田家へお預けとなった。1665(寛文5)年のことで、一柳家による第一次西条藩は三代・三十年足らずで改易による終わりを迎える。

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 1670(寛文10)年、紀州藩初代藩主である徳川頼宣の三男、松平頼純が3万石で西条藩に入封した。紀州藩の支藩として紀州徳川家が絶えた場合に備える役目を負うたのである。事実、2代頼致は紀州藩主徳川吉宗が将軍となったため紀州徳川家を継いだ。西条松平家は参勤交代を行わない定府の大名であるなど、何かと格の高さが窺われる。ところが明治維新ではいち早く新政府に恭順を示し、官軍として戊辰戦争に参戦している。明治2年(1869年)の版籍奉還と同時に最後の藩主松平頼英は藩知事となり、華族に列せられたというから分からないものだ。

 試みに並べてみると、

 西条藩   松平氏(親藩)・・・紀州藩の支藩
 小松藩   一柳氏(外様)・・・西条藩の一柳氏とは同胞関係。こちらは小藩ながら概ね善政が敷かれた。
 今治藩   松平氏(親藩)・・・伊予松山藩を宗家とする。西条藩同様、明治維新では官軍に与した。
 伊予松山藩 松平氏(親藩)
 大洲藩   加藤氏(外様)・・・勤王の気風強く、明治維新では官軍に与した。
 新谷藩   加藤氏(外様)・・・大洲藩の支藩(「にいや」と読む。)
 宇和島藩  伊達氏(外様)・・・仙台の伊達家につながる
 伊予吉田藩 伊達氏(外様)・・・宇和島藩の支藩

 県の中央から東側に親藩、南側に外様が並んでいる形だ。支藩関係や徳川氏との関係など考慮してまとめると、

・ 西条
・ 小松
・ 松山・今治
・ 大洲・新谷
・ 宇和島・吉田

 これだけ整理してもやっぱり錯綜している。とはいえ、紀州徳川家を本家とする西条藩の位置には独自のものがあり、そのあたりの気位が「かるた」にも表れるものと考えてみたくなる。

 なお、個人的に最も心騒ぐのは「(さ)実朝の七重の塔や金剛院」、実朝の五十回忌(!)の追善供養として、夫人の本覚尼が金剛院光明寺に七重の塔を建立したというのである。美しい建物だそうだが、それにもまして鎌倉将軍の供養塔が伊予路の西条に建てられることに、軽い戦慄のまじった不思議の念を感じる。交通不便なその時代、東人の悼む心を瀬戸内の何が招き寄せたか。そして半世紀にわたって亡夫を偲び続けた本覚尼の心ばえよ。

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あ アンチモン世界に知られる市之川

い 石鎚山は西日本一の神の山

う 植え継いで梛の木残る徳常寺

え 永久に守り伝えよ新居系図

お 大手門三万石の陣屋跡

か 加茂川の流れを変えた常真さん

き 金木犀日本一の王至森(おしもり)寺

く 黒仏さんと呼ばれる仏通禅師像

れ けんらんのだんじり祭り伊勢音頭

こ 光昌寺胎内仏もつ観音像

さ 実朝の七重の塔や金剛院    

し 人材を多く育てた擇善堂

す 杉茂る加茂の山には経塚群

せ 千人塚天正陣の古戦場

そ 尊清が書き残した澄水記

た 高峠の城主の館 土居構

ち 忠烈の四士が眠る常福寺

つ 津に着いて櫟津の岡お飯積さん

て 天正の御霊を送る揚花火

と 遠浅の磯に湧き出る弘法水

な 奈良二彩出土の真導廃寺跡

に 庭の美は室町中期保国寺

ぬ ぬかずいて義民を偲ぶ治平堂

ね 寝起きした密元法師の岩窟跡

の 野萩咲く千手観音秋都庵

は 花の武丈 加藤庄屋が植えたとか

ひ 毘沙門天六十三番吉祥寺

ふ 札の辻藩の高札揚げた場所

へ 遍路らの鈴の音ひびく前神寺

ほ 奉納額四十七士のお碇さん

ま 満福寺 義人荒瀬の墓所

み 民芸館お堀に映えるなまこ壁

む 椋大樹源五をまつるおたちきさん

め 名水のうちぬきが湧く城下町

も 森深く鎮まる大社伊曾乃宮

や 弥生期の高地遺跡や八堂山

ゆ 由緒ある石岡神社の祭ヶ丘

よ 四百年の藤の大木禎祥寺

ら 乱世の歴史を秘めた福武城

り 立左衛門禎瑞拓いた名奉行

る 累代の藩主をまつる東照さん江

れ 連枝として隅切葵の西条藩

ろ 労作の和煦(にこてる)書いた西条誌

わ 湧きかえり歓声ひびく乙女川

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