散日拾遺

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大気と小気/副鼻腔の存在意義/姿勢が悪い!

2014-05-07 08:43:48 | 日記
2014年5月7日(水)

 久々にすっきり目覚めたのは、天気が好いからだ。
 気分が天気に左右されるということが、青年期にはまったく分からなかったが、ここ数年は否定のしようもない。それはそれで、「年取るのも悪いことばかりではない」の類に属する。自分の中の「気」が、天然の「大気」と連動しているのは当然で、大げさに言えばこのような形で、大宇宙の一部である自分を知るのだ。そう思ったら、環境保護にも本気にならずにはいられない。
 外なる環境が破壊されたら、内なる環境も必然的に滅びる、そのことを理屈で知るのではなく体感するわけだから。

***

 きっかり1週間、Y先生処方の抗生物質を飲み続けて、副鼻腔炎はようやく完治したようである。そしたら今度はアレルギー鼻炎が戻ってきて、どうも今年は鼻で難渋する。
 それでというのも変だけど、副鼻腔というケッタイな構造がなぜ存在するか、本当のところはよく分かっていないのだ。
 骨のような支持器官は、中空にしたほうが力学的な強度は増し、外部からの衝撃に対する弾力性も増す。中空にすれば重量を減らすことができ、逆に言えば重量当たりの機能性は向上する。
 そうした整形外科学的な有用性は確かにあるというが、それが「must」というほどの説得力をもつのかどうか。その程度のことなら、副鼻腔をもたない変異型が存在しても構わないような気がする。
 この件の進化を適者生存説で説明するなら、「副鼻腔をもつ群のほうがもたない群よりも生存に有利であったため、前者が汎化した」と考えなければならない。そんな「たいそうな」問題だろうか?
 ここでもまた、個体レベルでの適者生存説は、説明力に大きな限界があると考えたくなる。「進化上の選択は、個人ではなく集団を単位として進行する」という今西の指摘は、もっともなもののように思われる。

 副鼻腔についていえば、共鳴箱としての働きによって「声」の響きを演出する役割が見逃せない。副鼻腔がなかったら、鼻づまりのようなくぐもった声しか出ないんだろう。マリア・カラスもパバロッティも、副鼻腔あればこそというわけだ。

 
 東京逓信病院・耳鼻科のページから拝借(正面図なので蝶形骨洞が描かれていない)
 http://www.hospital.japanpost.jp/tokyo/shinryo/jibi/fukubikuuen01.html

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 礼拝中ふと気づくんだが、基本姿勢の悪い人が多すぎる。
 僕も猫背になりがちで人のことは言えないんだが、いま言いたいのは足の配りのことである。
 祈祷や讃美歌の際は、両脚を左右対称・均等に踏ん張って、背を伸ばすのがジョーシキだ。
 そのジョーシキが相当崩れている。特に男性、みっともない!

 「気をつけ」も「左右対称」ではあるし、気持ちはそれに近いんだが、カカトを合わせて堅く立つとかえって腹に力が入らない。だから足は心もち開き、上半身は寛がせた方が朗読や歌には望ましい。
 ただしその際、一方の足に荷重して腰や背が捻じれるということは、機能的にも審美的にも(あるいは生理学的にも心理学的にも)ゼッタイにありえない。これは「きをつけ」に対する「やすめ」の姿勢であり、弛緩・休憩の体の構えだ。心からの祈りや腹からの声が、それで出ようはずがない。美しくないし、見苦しい。

 その「ありえない」姿勢で祈ったり歌ったりする姿が、これはハッキリ中年以下に多いのである。高齢の人々は、体が不自由なのでない限り、まずこんなダレた姿勢はとらないものだ。僕らあたりが変曲点かな。神学校では、ぜひきちんと指導していただきたいものだ。

 斎藤孝さん、最近は少々売れすぎだが、最初のヒット作は今も必読の一書である。
 『身体感覚を取り戻す ― 腰・ハラ文化の再生』NHKブックス 893

 美しい立ち姿が街角に満ちるようなら、それだけでひとつの文化と言えるに違いない。

 

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