2016年12月31日(土)
「薪を指さす」は、老子が没する際に友人の秦失(佚)が言った言葉だそうな。
「窮(つ)くることを薪を為(すす)むるに指さすも火は伝わるなり。其の尽くるを知らざるなり。」(『荘子』養生主篇)
薪をくべ、(それが焼き尽くされる様子から)「尽きる」ことを示してみるが、火は後に残って伝わっていく。すなわち火は尽きることなく、生命は不滅である、ということらしい。つい今し方W君からメールが来て、別の友人とのやりとりでDNAが個体を乗り換えつつ続いていくことを伝えたとあった。ドーキンスの所説など思い出して落ち着かないが、それも越年にふさわしい感じがする。永続する「火」とは何のことか。
「修祜(しゅうゆう)」の「修」は「脩」とも書き、「祜」は「祐」すなわち「祐」だから天の助け(天佑)を意味する。あわせて「禍福生死など、天の支配するものを自己のものとして修めること」とある。
「永綏(えいさい)」の「綏」はやすんずること、「楽しいかな君子、福履之を綏んず」という詩経の句が引用され、そのような種類の「やすんず」が「綏」らしい。「吉劭」の「劭」は「美しく徳高い」の意。
「指薪の故事を思い、神佑を自分のものとするならば、永く心安らかにおり、幸福で徳高くいられるであろう」
だそうだ。
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生命を火に譬えるのは仏典でも見た記憶があるが、あちらは「火が消えた時、誰も火はどこへいったかとは問わない。そのように生命は燃えている間は存在し、消えた後は存在しない」という平易にして衝撃的な意味合いで用いられていたように思う。「燃やす素材は尽きたとしても、火は尽きることがない」というのは、同じ「火」に注目しながらほぼ正反対の強調点を見いだして、それこそある種の「綏」をもたらすようであるが、これが老荘から出ているのが面白く感じられる。とはいえ問題は、「私」という意識はどこまでも焼き尽くされる素材の側にくっついているところにあり、火が永遠に燃え続けたとしても「私」はそこにいないということが悔しいのである。
「私」は永遠と関わりがない。その苦しさが誰にとっても課題なのだ。
苦しさを紛らわしつつ年の暮れ (桃蛙)
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