2023年5月1日(月)
夢についての体験様式は人それぞれだが、僕はというと筋を語れるような意味の通った夢を見た例しがない。フロイトの『夢判断』を読んだとき、置き換えだの圧縮だの、例によって精緻に深読みされたメカニズムの数々に驚き入りながら、これはまぁ別世界・別人種の物語と思ったものである。
しかるに今早暁、いったん覚めて二度寝の短時間に見た夢は、その種のメカニズムが見事に働いた筋の追える一幕芝居になっていた。
そこで僕は壮年の男性の胸ぐらをつかんでがなり立てていた。相手はどうやら同じ職場の他部署に属する人間らしい。その彼が羊頭を掲げて狗肉を売りつける式に、ほとんど詐欺まがいで厄介な仕事を押しつけたやり口を難じているのである。
これは事実それらしいことが最近あったのだが、軽くたしなめれば十分な程度のありがちな話で、実際こちらの気持ちをきちんと伝えて和解ずみのことである。それを何でこんなに怒るかと、寝ぼけ眼を何度かこするうちに理由が分かった。職場とはまったく別の社会領域で、ある女性が示しつつある不誠実な(と僕には思われる)コミュニケーションのあり方に、自覚する以上の強い不満を抱いていたのである。
女性の胸ぐらをつかんで怒鳴りあげるわけには、夢の中でもいかない。ここに置き換えがあり、そして二つの文脈が一つに圧縮されていたわけなのだ。
さてさて剣呑なこと、無自覚な強い感情はしばしば大事な場面で判断を誤らせる。夢がそのことを教えてくれたのだが、こんな風に夢に助けられたのはこの歳になって初めての経験である。
人生にはまだまだ知らないことがあるらしい。
Ω