2016年9月2日(金)
毛施淑姿/工顰妍笑、ほかでもない、美女の話である。
毛は毛嬙(モウショウ)、施は西施 (セイシ)、淑姿は読んで字の如くだが、下の句の方は・・・「工顰」は「巧みに眉を顰(ひそ)める」こと、「妍笑」はなまめかしく微笑むこととある。字面を見ていて何となく腑に落ちるのが、ヘブライ文字と違った漢字の親しみというものだ。
中国で美人というと「楊貴妃」と答えるのが相場になっているが、何しろ3千年だか4千年だかの歴史の長さである。そこから厳選された四大美人というのがあって、時代順に西施が筆頭、後は王昭君・貂蝉 (チョウセン)・楊貴妃と並ぶ。このうち三国志演義などに出てくる貂蝉は架空の人物だが、王昭君と楊貴妃は正史に深く関わる人物だから、脚色はあっても実在性は疑いない。さて、西施はどうなんだろう?
西施といえば決まって引き合いに出される話を、李注も挙げている。西施は越の女で、端正な美しさは比べるものがなかった。胸の痛みが起きるたびに門のところで胸を抱き、眉を寄せて立っていた。その姿はますますなまめかしく、見ようとするものが 門前にむらがるほどだったという(ヒステリー発作?)。いっぽう隣家に一人の醜い女がいた。西施の真似をして胸が痛いとウソを言い、門によりかかって胸を抱き、眉を寄せて立った。見るものは顔を掩い、唾を吐いたという。ほぼ同様の話が『荘子』天運篇にありと注記。
「越の女」とあるが、この越は「呉越同舟」の越、つまり呉と激しく争い「臥薪嘗胆」の故事を生んだ春秋五覇の越である。西施自身が呉との争覇戦に深く関わっており、十八史略などの伝えるところはあらまし以下のようであるらしい。(十八史略をちゃんと読んでいないので、「らしい」としか言えない。)
西施こと施夷光は貧しい薪売りの娘として産まれたが、生来の美貌は隠れもなく、谷川で洗濯している姿を見出されて越宮廷に召された。(川で足を出して洗濯する姿に魚が見とれて泳ぐのを忘れたというので「沈魚美人」の画題にされるが、一節には大根足が欠点であったともいう。)他の美女らと共にみっちりスパイ教育を施されて呉に献上された西施は、みごとに夫差を籠絡・骨抜きにし、その功あってか越が呉を滅ぼし会稽の恥をそそぐことになる。
その後の西施の生涯に諸説あり、最も人口に膾炙したものは、越王勾践夫人が彼女の美貌を恐れ(あるいは嫉み)、夫が夫差の二の舞にならぬよう西施を生きながら皮袋に入れ、長江に投げ込んだとするものである。その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々が「西施の舌」であると噂したことが今に言い習わされているという。異説では、 スパイ作戦の発案者でもあった范蠡に連れられて越を出奔し、無事に余生を送ったともいう。
范蠡はハンレイと読み、戦前教育で育った世代なら熟知の人物である。後醍醐天皇が隠岐に流されるとき、忠臣・児島高徳(こじま・たかのり)が密かに庭に忍び込み、「天勾践を空しうすることなかれ /時に范蠡なきにしもあらず」と書き置いて去った。意味が分からぬ鎌倉方の中で、帝一人はこれを理解して意を強くしたという。范蠡は忠臣の鏡だが、なかなかの謀略家でもあったわけだ。用済みになった西施のその後を庇護したかどうかで、人となりもずいぶん違った印象を与えそうである。
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すっかり漢字アタマになって出かけたところ、昼休みに『おくのほそ道』を読んでいて思わず笑いのけぞった。
「象潟(きさがた)や雨に西施がねぶの花」
こういう偶然はどうして起きるものだろうか、芭蕉先生が西施を知って引用することに何の不思議もないけれど、僕という地点から見れば人生の他ならぬこの一日に、かつは『千字文』かつは『おくのほそ道』で「西施」の名に触れるということを、どう受けとめたら良いか分からない。
分からないことだらけだ。
Ω