2014年2月25日(火)
先週はメモがずいぶんたまっていた。これは20日(木)の分。
「いま現に流行っている本は読めない」とか書いたが、チョー新しいのも読みましたよ、というところで。
御茶ノ水の仕事が夕方終わった後、明治大学の前の坂を下って三省堂へ、そこで立ち読みするのが大事な日課・・・ではない、週課になっている。先週はCATの集まりが高田馬場なので、それまでに薄い本を一冊読んじゃおうと思って手にとって、途中で止められなくなって買っちゃいました。
美味しそうな対談を組んで、その録音起こしから新書をお手軽に作っちゃうという、ウチダ先生の(御本人によれば、集英社担当編集者の)商法に乗せられるのもシャクだが、面白いから仕方ないね。
対談のお相手は中田考(なかた・こう)氏で、この人は(我が国の)「イスラーム学の第一人者」と帯に銘打たれており、たぶんそうなんだろうが、御自身がイスラム教徒だというのが大事なところ。
年齢は僕より少し若いんだが、東大のキャンパスでかすった年代である。あの頃、人の取らない科目にせっせと手を出し、その中に「旧約聖書ヘブル語」というのがあったが、3週間ほどであえなくコケた。(念のためにいえば、その頃は教会に出入りしておらず、自分が信徒になるとは夢にも思っていなかったので、この科目にエントリーしたのは全くの好奇心からだった。)
いっぽう中田氏は、氏の語るところに依れば新設されたイスラム学科の第一期生となり、イスラームについて一年間勉強した後、4年に進む際に自身が入信したという。前日には、これが今生の食い納めとばかり、トンカツを腹一杯食べた由。ちなみに、この学科の卒業生で入信したのは、これまで彼一人だそうだ。
いつも思うんだが、およそ人の営為について、外からあれこれ言うことには必ず見落としがあり誤解がある。特に宗教などについて、自身がそれにコミットしていない人間が外から見ることには、非常な隔靴掻痒 ~ それも鋼鉄製の靴を外から掻くような ~ が常につきまとうもので、しかしいわゆる「コメンテーター」とか「ウォッチャー」とかは、そのような自分の限界がないもののように偉そうに語るから始末に負えない。
むろん、そこに属している者には、ちょうどこれと対を為すような「属する者」ゆえのバイアスがあるのだけれど、バイアスを伴う情報が存在することと、情報そのものが存在しないこととでは、まったく意味が違う。そういう意味で、中田氏についてさしあたりほとんど何も知らないとしても、自身が若い頃に入信し(僕がキリスト教に入信したのと非常に近い時期だ)、以来30年余も信徒であり続けたきた人の発信ならば、耳傾けて損はない。
で、読み始めたら面白いですよ、これ。何しろ聞き手がウチダ・タツルだから、どっちが聞き手だか分からなくなっちゃうところは随所にあるんだが、それも含めて面白い。
ひとつ要望するなら、「一神教」をテーマに話すとすれば、次は然るべきキリスト教徒を引っ張り込んで鼎談にしてほしいかな。ウチダ氏はレヴィナス先生の学徒としてユダヤ教に共感をもつ理解者の位置取りなので、もうひとり呼んでくれば足りる。人選次第で、さぞ面白いものになるだろう。
以下は例によって、備忘としての抜き書き。
これがいつも、思いのほか時間を食っちゃうのだ。
【第1章 イスラームとは何か?】・・・啓発的!知らないことばっかりだ。
P.48
N: 百円の水を五百円で売る人間が(水を)『どうぞ』って言うんですから、不思議と言えば不思議かもしれません。日本では「ケチ」という時、強欲と吝嗇を分けませんが、イスラームにおいてはまったく違う概念なのです。強欲なのは構わない。しかし吝嗇は最大の悪口(石丸注:たぶん悪行の誤記かな)なのです。
U: はあー。強欲と吝嗇は違うんですか。強欲はいいが、吝嗇はいかん、と。これはよいことを聞きました。それは宗教的な戒律と言えるんですか。
N: というよりも、かなり普遍的に身体化されたエートスです。そもそも強欲は「タムウ」、吝嗇は「ブフル」で言葉からしてまったく違い、まったく別の概念です。だから宗教的に熱心でない人にも共有されています。
U: 対象となるものはすべてでしょうか。食べ物でも飲み物でも。
N: ほぼそうです。道ばたでおばさんがネギなんかかじっていても、目が合うと「どうぞ」って言われます。
U: ネギをね。
【第2章 一神教の風土】・・・面白いが、やや類型的かな。一部、キリスト教についての誤解があるような。
P.76
U: ユダヤ教、イスラーム、キリスト教はやはりお互いを相互参照しながら、それぞれの固有の体系を築いていったという気がしますね。お話を伺っていると、信仰の深さを魂の純良さをもって示すのか、学識の豊かさで示すのか、というあたりの力点の置き方がこの三つの宗教で微妙に違うなという感じがします。信仰を基礎づけるのは、人間の魂の清らかさなのか、それとも人間的成熟なのか、キリスト教はどちらかというと「穢れない魂」を信仰の基盤としているし、ユダヤ教は信仰の完成のために知性的な成熟を要求する。イスラームはその両方に目配りしている。このあたりが興味深いように思いました。
(・・・ちょっとぴんとこない。以下のほうが面白い)
U: イスラームは限られた資源を共有する文化共同体であるという話をしましたね。共同体の人々が共に飲み、食い、分かち合う文化だ、と。富者でも富を独占することを許さず、持てる者は貧しい者に喜捨する義務がある。そういう考え方って、彼らがもともと遊牧民だったところに由来するのではないでしょうか。定住地を持たないノマドであることとイスラームのエートスには深い関係があるのではないか、と。
N: それは大いにあると思います。
P.103
N: ですから、カトリックの告解制度というもの。あれは恐ろしい制度だと、私思うんです。人の内面を暴き出して、人を支配していくってことですから。イスラームでは罪を犯してもできるだけ人には言いません。あくまで神と自分の関係とする。それに対して、キリスト教は人の心を他人が知ることもできて、支配することもできると考える。
(これは少々暴論だし、だいいち誤解だ。告解は「内面を暴き出す」ものではなく、人が抱えきれずにあふれ出す内面の思いを受けとる器を備えるものだ。サムエル記冒頭のハンナの祈りを考えてみれば良い。誰にも明かすことのできない内奥の呻きを、人ではなく神に訴えることが許されるのが告解の秘儀であり、いわゆるカウンセリングの制度的淵源とも言えるものだ。
ウチダさんはそのあたりを察してか、すばやく微妙に焦点を変えて次のように返す。彼、武道家だけあって、肉弾的接触をきわどくかわす運動神経が抜群に良いようだ。)
U: 内面にフォーカスするキリスト教というのは、一神教としてはもしかすると例外的なかたちなのかも知れませんね。神と人間との距離が近くて、人間の内面の言葉を聞き取ってもらえるわけですから。
(その次が面白いよ。)
U: ユダヤ教の場合、神と人間の距離はある意味絶望的に遠い。戒律にしても、どうしてこんな戒律があるのか、説明がつかない。むしろ人間の世界の実用性や合理性に基づいて戒律の適否や意味を論じてはならないということを叩き込むために戒律はあるんじゃないかと思うんです。(イタリック、石丸)
P.105
U: 明治維新前後に内村鑑三とか新島襄とか日本の青年たちがいっせいにクリスチャンになりましたね。あれは武士の時代が終わった後、キリスト教を武士道の別の形と思ったからじゃないかな。
(それはそうだろうな。)
【第3章 世俗主義が生んだ怪物】・・・この章、最高!特にアメリカをばっさり切る舌鋒の鋭さが良い。
P.114
U: 『シェーン』って映画あるじゃないですか。アラン・ラッドがガンマンを演じる。あれ、もしかすると、遊牧民と定住民の戦いの話なのかなと思ったのです。
N: おもしろそう。
(おもしろい!)
P.117
U: これって、アメリカにおける遊牧的文化についての一つの国民的な物語はないかって気がするんです。遊牧民は死なねばならぬ、という。
N: まさしく。私もトルコの国境の有刺鉄線を越えたことがあります。トゲトゲの針金をくぐって、地下壕をもぐって、シリアからトルコに入ったのですけど。
U: ドキドキの密入国。
N: スリルとサスペンス。で、その時ヘンだなと思ったのです。だってその鉄条網がなければ国境などないのですよ。それさえなければトルコ側もシリア側もまったく同じ連続した風景が続いているんです。なのになんでこんなものがあるのだ、こんなものがあるから紛争が起こるのだと。
U: 特に中東や北アフリカの国境線の引かれ方は人為的なものですからね。
(話を混ぜたらいけないが、大海原の国境線には有刺鉄線すらないよね。「こんなもの」のところに「竹島/独島」を入れれば、どっかのローカルな領土問題と重なって見えてくる。)
P.122
N: もともとそこに住んでいる人たちがいたのに、その上に無理やり建国した。だから、あそこに悠久の歴史があるにしても、それはアメリカの歴史ではない。アメリカという国家の歴史はたった250年たらずしかないんです。イスラエルだってそうですよね。国家としての歴史は数十年しかない。
そういうものであるにもかかわらず、国家は主権というものを持っていて、国民の生殺与奪の権を握っていて、国民は国家に死ねと言われたら死ななければいけない。そういう奇妙なものが国民国家なんです。ホッブスは、こうした近代国家のことを地上における可死の神「リヴァイアサン」と呼びました。(イタリックは石丸)
U: 新しい概念である上に、たいへん不自然な概念でもあると。
N: ええ。しかし、おかしな概念であるということが意識されにくい。おかしいから、じゃあ解体して組み直そうという話にはなかなかならないのです。
P.123
N: 本来、ある地域の人々が独立の国家を作ることに意味があるとすれば、少なくとも二つの条件を満たす必要があると思います。一つは、その国家の内部に一つの国家として束ねられているだけの顕著な同一性があるということ。もう一つは、その国家と外の国家の間に境界が必要なほどの異他性があるということ。その点から言うと、イスラームの国々はあまり独立している意味がないのです。
※ このあたりがいわば白眉、P.128あたりからは全部筆写しないといけなくなるので、キーワードだけ列挙する。
✓ 「ボーダーを超えるもの」に対する国民国家の生理的な憎悪 ~ イエズス会、ユダヤ人、フリーメイソンなどが敵視される理由。
✓ 東インド会社、特にその解体の歴史的意義
✓ 国境というイデオロギーへの国民国家のこだわり
✓ アメリカ製のグローバリゼーションが、実はきわめてローカルな仕組みであること
✓ 「食」の文化と政治 ~ 似非グローバリゼーションへの防壁 ①
✓ イスラームの潜在力 ~ 似非グローバリゼーションへの防壁 ②
P.142
U: これからのアメリカの世界戦略は、非イスラーム圏に対しては国民国家を解体する方法で圧力をかける、イスラーム圏に対しては逆に国民国家を強化するというかたちで圧力をかける、そういうダブル・スタンダードを使っていくのじゃないかと思っています。
(卓見!)
P.148
U: 僕らも、手持ちの現金は金貨にした方がいいんでしょうか?
N: いいですよ。金貨なんか持ってますとね、ビジュアル的には守銭奴みたいなのですけど、そんなことはない。金貨だとたくさん持っててもしょうがないって思うようになるのです。
U: 邪魔だなあとか?
N: 実際、邪魔です。
(そうか~、僕も金貨にするかな。でも、「全然ない、これしかない!稼がなきゃ、貯めなきゃ」にならないかな・・・)
【第4章 混迷の中東世界をどう読むか】 ・・・ 知らないことばかり、啓発的。
P.186-7
N: 私、イスラームにとっては法人概念が最大の敵、最大の偶像だと思っているのですよ。(中略)カリフ制ができると全体主義の国になるから良くないと言う人がいますが、ぜんぜん違います。むしろ逆です。カリフ制のリーダーというのは個人であり、法人ではないんです。逆に法人概念がなくなるので・・・(中略)・・・全体主義にはまったくなりません。本当のカリフ制であれば、大きな政府はなくなります。
P.192-3
N: イスラームって、他者に対してはある意味政教分離的でもあって、宗教としての枠組みと法による共存の枠組みは別ものと考えるのです。これ、けっこう高度なグローバリゼーションであろうと思います。かえって欧米の方が混同していて、政教分離と言いながら宗教的な価値観を背負って相手の陣営に攻め込んでいるところがありますよ。民主主義も人権も、彼らは宗教と思っていませんが、立派な宗教であり、特にアメリカにはその狂信者、宣教師がたくさんいます。(イタリックは石丸)
U: むしろ政教未分離。
N: はい、欧米、欧米と十把一絡げに言うと乱暴なので、もう少し細かく言いますと、ヨーロッパでも東方教会はほんとの政教分離です。(中略)しかし、西欧のキリスト教は結局政権に関わるんです。なぜかと言うと、彼らの政教分離の原点は、「世俗」と「宗教」の分離ではなく、「国家」と「教会」の分離だったからです。
(・・・これは熟考の要ありかな)
P.194
N: (ジハードは)物理的な戦争のことだけでなく、個人の内面のことなども含みます。むしろ、自分の中であれかこれかの葛藤があること ー 日本語でいうところの「克己」ですが ー を大ジハードといいます。戦闘などは小ジハードです。相手に勝つことより、自分に勝つことの方が難しいのです。
U: 克己が大ジハードなのですね。
【第5章 カワユイ(^◇^)カリフ道】 ・・・本書のキモ、一箇所だけ抜いておく。
P.224-(カリフ制が実現したら、世の中が具体的にどう変わっていくか、というウチダ氏の総括的質問に対して)
N: イスラーム世界では、人間と資本とモノの移動の自由が保障され、真のグローバリゼーションが進行し、貧富の格差が縮まり経済的繁栄がもたらされます。
(中略)
非イスラーム世界も、イスラーム世界というオルタナティヴが出現することにより、不正なグローバリゼーションへの歯止めがかかることになるでしょう。(中略)旧ソ連共産圏が存在した時に、対抗上、資本主義国でも、労働者の権利、社会福祉が整備されていったように、イスラーム世界というオルタナティヴが存在することにより、アメリカ流のハゲタカ資本主義、グローバリゼーションの不正、過酷さに歯止めがかかることになるでしょう。
U: なるほど。いま進行中の「世界のグローバル化」なるものは実際にはアメリカ主導で、世界のフラット化、単一市場化を目ざしているわけですけれど、それを完遂するためには、理屈の上からいうと、もう一つの、すでに存在するグローバル共同体であるところのイスラーム共同体を破壊しないといけない。この「いわゆるグローバリズム」がすでに存在するグローバル共同体と激しいフリクションを起こすという歴史的文脈の読み方を、僕は今回中田先生に教えていただきました。
(moi, aussi!)
その対立が戦争とかテロとかいうかたちをとることは僕はまったく望んでいないので、今おっしゃってくださったように「イスラーム世界というオルタナティヴ」が並立することによって、僕たちのものの考え方が絶えず相対化されるということには大きな意味があると思います。
***
最後にちょっと戻って、第2章のウチダ氏のコメントから。
N: 個人的な好みを言ってもよろしければ、僕、クリスチャンって嫌いじゃないんです。
U: お、そうですか。どのあたりが?
N: ミッションスクールに21年間勤めていましたから、クリスチャンと袖触れ合う機会が多いのは当然なんですけれど、学内であれやこれやの事件が起こった時にしみじみ思ったのは、「ぶれないプリンシプルがある人」って、やっぱり頼りになるなということでした。クリスチャンとマルクス主義者、やっぱりぎりぎりのところで首尾一貫性があるのですよ。普通の先生たちは自分の主張に一貫性があるかないかなんて、気にしない。その場の空気で言うことコロコロ変わるし。
N: ハハ、そういうものですか。
U: わりとそうですよ。ですから、僕は原理主義的な潔さに惹かれているのかも知れません。原理主義って不自由なところもあるけれど、一度発言したことにはかなりこだわりますよね。孤立しても譲らない。それ、日本で言うところの武士道に近いものではないかと思ったりするのです。日本の場合、マルキシストは武士道的マルキシストであり、クリスチャンは武士道的クリスチャンなのではないかしら。
・・・で、上に転記したP.105につながるのだ。
武士道的クリスチャン、いいなあ、そういうの。
先週はメモがずいぶんたまっていた。これは20日(木)の分。
「いま現に流行っている本は読めない」とか書いたが、チョー新しいのも読みましたよ、というところで。
御茶ノ水の仕事が夕方終わった後、明治大学の前の坂を下って三省堂へ、そこで立ち読みするのが大事な日課・・・ではない、週課になっている。先週はCATの集まりが高田馬場なので、それまでに薄い本を一冊読んじゃおうと思って手にとって、途中で止められなくなって買っちゃいました。
美味しそうな対談を組んで、その録音起こしから新書をお手軽に作っちゃうという、ウチダ先生の(御本人によれば、集英社担当編集者の)商法に乗せられるのもシャクだが、面白いから仕方ないね。
対談のお相手は中田考(なかた・こう)氏で、この人は(我が国の)「イスラーム学の第一人者」と帯に銘打たれており、たぶんそうなんだろうが、御自身がイスラム教徒だというのが大事なところ。
年齢は僕より少し若いんだが、東大のキャンパスでかすった年代である。あの頃、人の取らない科目にせっせと手を出し、その中に「旧約聖書ヘブル語」というのがあったが、3週間ほどであえなくコケた。(念のためにいえば、その頃は教会に出入りしておらず、自分が信徒になるとは夢にも思っていなかったので、この科目にエントリーしたのは全くの好奇心からだった。)
いっぽう中田氏は、氏の語るところに依れば新設されたイスラム学科の第一期生となり、イスラームについて一年間勉強した後、4年に進む際に自身が入信したという。前日には、これが今生の食い納めとばかり、トンカツを腹一杯食べた由。ちなみに、この学科の卒業生で入信したのは、これまで彼一人だそうだ。
いつも思うんだが、およそ人の営為について、外からあれこれ言うことには必ず見落としがあり誤解がある。特に宗教などについて、自身がそれにコミットしていない人間が外から見ることには、非常な隔靴掻痒 ~ それも鋼鉄製の靴を外から掻くような ~ が常につきまとうもので、しかしいわゆる「コメンテーター」とか「ウォッチャー」とかは、そのような自分の限界がないもののように偉そうに語るから始末に負えない。
むろん、そこに属している者には、ちょうどこれと対を為すような「属する者」ゆえのバイアスがあるのだけれど、バイアスを伴う情報が存在することと、情報そのものが存在しないこととでは、まったく意味が違う。そういう意味で、中田氏についてさしあたりほとんど何も知らないとしても、自身が若い頃に入信し(僕がキリスト教に入信したのと非常に近い時期だ)、以来30年余も信徒であり続けたきた人の発信ならば、耳傾けて損はない。
で、読み始めたら面白いですよ、これ。何しろ聞き手がウチダ・タツルだから、どっちが聞き手だか分からなくなっちゃうところは随所にあるんだが、それも含めて面白い。
ひとつ要望するなら、「一神教」をテーマに話すとすれば、次は然るべきキリスト教徒を引っ張り込んで鼎談にしてほしいかな。ウチダ氏はレヴィナス先生の学徒としてユダヤ教に共感をもつ理解者の位置取りなので、もうひとり呼んでくれば足りる。人選次第で、さぞ面白いものになるだろう。
以下は例によって、備忘としての抜き書き。
これがいつも、思いのほか時間を食っちゃうのだ。
【第1章 イスラームとは何か?】・・・啓発的!知らないことばっかりだ。
P.48
N: 百円の水を五百円で売る人間が(水を)『どうぞ』って言うんですから、不思議と言えば不思議かもしれません。日本では「ケチ」という時、強欲と吝嗇を分けませんが、イスラームにおいてはまったく違う概念なのです。強欲なのは構わない。しかし吝嗇は最大の悪口(石丸注:たぶん悪行の誤記かな)なのです。
U: はあー。強欲と吝嗇は違うんですか。強欲はいいが、吝嗇はいかん、と。これはよいことを聞きました。それは宗教的な戒律と言えるんですか。
N: というよりも、かなり普遍的に身体化されたエートスです。そもそも強欲は「タムウ」、吝嗇は「ブフル」で言葉からしてまったく違い、まったく別の概念です。だから宗教的に熱心でない人にも共有されています。
U: 対象となるものはすべてでしょうか。食べ物でも飲み物でも。
N: ほぼそうです。道ばたでおばさんがネギなんかかじっていても、目が合うと「どうぞ」って言われます。
U: ネギをね。
【第2章 一神教の風土】・・・面白いが、やや類型的かな。一部、キリスト教についての誤解があるような。
P.76
U: ユダヤ教、イスラーム、キリスト教はやはりお互いを相互参照しながら、それぞれの固有の体系を築いていったという気がしますね。お話を伺っていると、信仰の深さを魂の純良さをもって示すのか、学識の豊かさで示すのか、というあたりの力点の置き方がこの三つの宗教で微妙に違うなという感じがします。信仰を基礎づけるのは、人間の魂の清らかさなのか、それとも人間的成熟なのか、キリスト教はどちらかというと「穢れない魂」を信仰の基盤としているし、ユダヤ教は信仰の完成のために知性的な成熟を要求する。イスラームはその両方に目配りしている。このあたりが興味深いように思いました。
(・・・ちょっとぴんとこない。以下のほうが面白い)
U: イスラームは限られた資源を共有する文化共同体であるという話をしましたね。共同体の人々が共に飲み、食い、分かち合う文化だ、と。富者でも富を独占することを許さず、持てる者は貧しい者に喜捨する義務がある。そういう考え方って、彼らがもともと遊牧民だったところに由来するのではないでしょうか。定住地を持たないノマドであることとイスラームのエートスには深い関係があるのではないか、と。
N: それは大いにあると思います。
P.103
N: ですから、カトリックの告解制度というもの。あれは恐ろしい制度だと、私思うんです。人の内面を暴き出して、人を支配していくってことですから。イスラームでは罪を犯してもできるだけ人には言いません。あくまで神と自分の関係とする。それに対して、キリスト教は人の心を他人が知ることもできて、支配することもできると考える。
(これは少々暴論だし、だいいち誤解だ。告解は「内面を暴き出す」ものではなく、人が抱えきれずにあふれ出す内面の思いを受けとる器を備えるものだ。サムエル記冒頭のハンナの祈りを考えてみれば良い。誰にも明かすことのできない内奥の呻きを、人ではなく神に訴えることが許されるのが告解の秘儀であり、いわゆるカウンセリングの制度的淵源とも言えるものだ。
ウチダさんはそのあたりを察してか、すばやく微妙に焦点を変えて次のように返す。彼、武道家だけあって、肉弾的接触をきわどくかわす運動神経が抜群に良いようだ。)
U: 内面にフォーカスするキリスト教というのは、一神教としてはもしかすると例外的なかたちなのかも知れませんね。神と人間との距離が近くて、人間の内面の言葉を聞き取ってもらえるわけですから。
(その次が面白いよ。)
U: ユダヤ教の場合、神と人間の距離はある意味絶望的に遠い。戒律にしても、どうしてこんな戒律があるのか、説明がつかない。むしろ人間の世界の実用性や合理性に基づいて戒律の適否や意味を論じてはならないということを叩き込むために戒律はあるんじゃないかと思うんです。(イタリック、石丸)
P.105
U: 明治維新前後に内村鑑三とか新島襄とか日本の青年たちがいっせいにクリスチャンになりましたね。あれは武士の時代が終わった後、キリスト教を武士道の別の形と思ったからじゃないかな。
(それはそうだろうな。)
【第3章 世俗主義が生んだ怪物】・・・この章、最高!特にアメリカをばっさり切る舌鋒の鋭さが良い。
P.114
U: 『シェーン』って映画あるじゃないですか。アラン・ラッドがガンマンを演じる。あれ、もしかすると、遊牧民と定住民の戦いの話なのかなと思ったのです。
N: おもしろそう。
(おもしろい!)
P.117
U: これって、アメリカにおける遊牧的文化についての一つの国民的な物語はないかって気がするんです。遊牧民は死なねばならぬ、という。
N: まさしく。私もトルコの国境の有刺鉄線を越えたことがあります。トゲトゲの針金をくぐって、地下壕をもぐって、シリアからトルコに入ったのですけど。
U: ドキドキの密入国。
N: スリルとサスペンス。で、その時ヘンだなと思ったのです。だってその鉄条網がなければ国境などないのですよ。それさえなければトルコ側もシリア側もまったく同じ連続した風景が続いているんです。なのになんでこんなものがあるのだ、こんなものがあるから紛争が起こるのだと。
U: 特に中東や北アフリカの国境線の引かれ方は人為的なものですからね。
(話を混ぜたらいけないが、大海原の国境線には有刺鉄線すらないよね。「こんなもの」のところに「竹島/独島」を入れれば、どっかのローカルな領土問題と重なって見えてくる。)
P.122
N: もともとそこに住んでいる人たちがいたのに、その上に無理やり建国した。だから、あそこに悠久の歴史があるにしても、それはアメリカの歴史ではない。アメリカという国家の歴史はたった250年たらずしかないんです。イスラエルだってそうですよね。国家としての歴史は数十年しかない。
そういうものであるにもかかわらず、国家は主権というものを持っていて、国民の生殺与奪の権を握っていて、国民は国家に死ねと言われたら死ななければいけない。そういう奇妙なものが国民国家なんです。ホッブスは、こうした近代国家のことを地上における可死の神「リヴァイアサン」と呼びました。(イタリックは石丸)
U: 新しい概念である上に、たいへん不自然な概念でもあると。
N: ええ。しかし、おかしな概念であるということが意識されにくい。おかしいから、じゃあ解体して組み直そうという話にはなかなかならないのです。
P.123
N: 本来、ある地域の人々が独立の国家を作ることに意味があるとすれば、少なくとも二つの条件を満たす必要があると思います。一つは、その国家の内部に一つの国家として束ねられているだけの顕著な同一性があるということ。もう一つは、その国家と外の国家の間に境界が必要なほどの異他性があるということ。その点から言うと、イスラームの国々はあまり独立している意味がないのです。
※ このあたりがいわば白眉、P.128あたりからは全部筆写しないといけなくなるので、キーワードだけ列挙する。
✓ 「ボーダーを超えるもの」に対する国民国家の生理的な憎悪 ~ イエズス会、ユダヤ人、フリーメイソンなどが敵視される理由。
✓ 東インド会社、特にその解体の歴史的意義
✓ 国境というイデオロギーへの国民国家のこだわり
✓ アメリカ製のグローバリゼーションが、実はきわめてローカルな仕組みであること
✓ 「食」の文化と政治 ~ 似非グローバリゼーションへの防壁 ①
✓ イスラームの潜在力 ~ 似非グローバリゼーションへの防壁 ②
P.142
U: これからのアメリカの世界戦略は、非イスラーム圏に対しては国民国家を解体する方法で圧力をかける、イスラーム圏に対しては逆に国民国家を強化するというかたちで圧力をかける、そういうダブル・スタンダードを使っていくのじゃないかと思っています。
(卓見!)
P.148
U: 僕らも、手持ちの現金は金貨にした方がいいんでしょうか?
N: いいですよ。金貨なんか持ってますとね、ビジュアル的には守銭奴みたいなのですけど、そんなことはない。金貨だとたくさん持っててもしょうがないって思うようになるのです。
U: 邪魔だなあとか?
N: 実際、邪魔です。
(そうか~、僕も金貨にするかな。でも、「全然ない、これしかない!稼がなきゃ、貯めなきゃ」にならないかな・・・)
【第4章 混迷の中東世界をどう読むか】 ・・・ 知らないことばかり、啓発的。
P.186-7
N: 私、イスラームにとっては法人概念が最大の敵、最大の偶像だと思っているのですよ。(中略)カリフ制ができると全体主義の国になるから良くないと言う人がいますが、ぜんぜん違います。むしろ逆です。カリフ制のリーダーというのは個人であり、法人ではないんです。逆に法人概念がなくなるので・・・(中略)・・・全体主義にはまったくなりません。本当のカリフ制であれば、大きな政府はなくなります。
P.192-3
N: イスラームって、他者に対してはある意味政教分離的でもあって、宗教としての枠組みと法による共存の枠組みは別ものと考えるのです。これ、けっこう高度なグローバリゼーションであろうと思います。かえって欧米の方が混同していて、政教分離と言いながら宗教的な価値観を背負って相手の陣営に攻め込んでいるところがありますよ。民主主義も人権も、彼らは宗教と思っていませんが、立派な宗教であり、特にアメリカにはその狂信者、宣教師がたくさんいます。(イタリックは石丸)
U: むしろ政教未分離。
N: はい、欧米、欧米と十把一絡げに言うと乱暴なので、もう少し細かく言いますと、ヨーロッパでも東方教会はほんとの政教分離です。(中略)しかし、西欧のキリスト教は結局政権に関わるんです。なぜかと言うと、彼らの政教分離の原点は、「世俗」と「宗教」の分離ではなく、「国家」と「教会」の分離だったからです。
(・・・これは熟考の要ありかな)
P.194
N: (ジハードは)物理的な戦争のことだけでなく、個人の内面のことなども含みます。むしろ、自分の中であれかこれかの葛藤があること ー 日本語でいうところの「克己」ですが ー を大ジハードといいます。戦闘などは小ジハードです。相手に勝つことより、自分に勝つことの方が難しいのです。
U: 克己が大ジハードなのですね。
【第5章 カワユイ(^◇^)カリフ道】 ・・・本書のキモ、一箇所だけ抜いておく。
P.224-(カリフ制が実現したら、世の中が具体的にどう変わっていくか、というウチダ氏の総括的質問に対して)
N: イスラーム世界では、人間と資本とモノの移動の自由が保障され、真のグローバリゼーションが進行し、貧富の格差が縮まり経済的繁栄がもたらされます。
(中略)
非イスラーム世界も、イスラーム世界というオルタナティヴが出現することにより、不正なグローバリゼーションへの歯止めがかかることになるでしょう。(中略)旧ソ連共産圏が存在した時に、対抗上、資本主義国でも、労働者の権利、社会福祉が整備されていったように、イスラーム世界というオルタナティヴが存在することにより、アメリカ流のハゲタカ資本主義、グローバリゼーションの不正、過酷さに歯止めがかかることになるでしょう。
U: なるほど。いま進行中の「世界のグローバル化」なるものは実際にはアメリカ主導で、世界のフラット化、単一市場化を目ざしているわけですけれど、それを完遂するためには、理屈の上からいうと、もう一つの、すでに存在するグローバル共同体であるところのイスラーム共同体を破壊しないといけない。この「いわゆるグローバリズム」がすでに存在するグローバル共同体と激しいフリクションを起こすという歴史的文脈の読み方を、僕は今回中田先生に教えていただきました。
(moi, aussi!)
その対立が戦争とかテロとかいうかたちをとることは僕はまったく望んでいないので、今おっしゃってくださったように「イスラーム世界というオルタナティヴ」が並立することによって、僕たちのものの考え方が絶えず相対化されるということには大きな意味があると思います。
***
最後にちょっと戻って、第2章のウチダ氏のコメントから。
N: 個人的な好みを言ってもよろしければ、僕、クリスチャンって嫌いじゃないんです。
U: お、そうですか。どのあたりが?
N: ミッションスクールに21年間勤めていましたから、クリスチャンと袖触れ合う機会が多いのは当然なんですけれど、学内であれやこれやの事件が起こった時にしみじみ思ったのは、「ぶれないプリンシプルがある人」って、やっぱり頼りになるなということでした。クリスチャンとマルクス主義者、やっぱりぎりぎりのところで首尾一貫性があるのですよ。普通の先生たちは自分の主張に一貫性があるかないかなんて、気にしない。その場の空気で言うことコロコロ変わるし。
N: ハハ、そういうものですか。
U: わりとそうですよ。ですから、僕は原理主義的な潔さに惹かれているのかも知れません。原理主義って不自由なところもあるけれど、一度発言したことにはかなりこだわりますよね。孤立しても譲らない。それ、日本で言うところの武士道に近いものではないかと思ったりするのです。日本の場合、マルキシストは武士道的マルキシストであり、クリスチャンは武士道的クリスチャンなのではないかしら。
・・・で、上に転記したP.105につながるのだ。
武士道的クリスチャン、いいなあ、そういうの。